⑹希望の轍
翔太が到着した時には、もう全てが終わった後だった。
血塗れのノワール、項垂れるペリドット。
湊は見たことも無いくらい傷だらけで、立花は警戒を解かない。
血と硝煙、古い機械油と埃の臭いがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら、彼等の周囲は切り取られたみたいに静寂を保っている。
其処は、翔太が以前拉致された港の倉庫だった。
立花の地理的プロファイルと航の情報。最も確率の高い場所に辿り着いた時には銃声が鳴り響いていて、立花は乱暴に車を停めると走り出してしまっていた。
何があったのかは、分からない。
ただ分かるのは、ノワールは死んでしまっていて、もう誰の手も届かないということだった。
傷だらけの湊の手が、冷たく固まったノワールの手の平を掴む。頬を涙で濡らしながら、その濃褐色の瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭利に光っていた。
「……取引しよう、ペリドット」
その固い声は、地を這うかのように低く、普段の澄んだボーイソプラノは見る影も無い。
項垂れたペリドットの金髪の隙間から、エメラルドの瞳が胡乱に光る。まるで、廃人が一粒の光を見付けたみたいだった。
「アンタの望みは、俺が叶える。だから、アンタは俺に力を貸せ」
湊の瞳には、獰猛な炎が燃え盛っている。
翔太はそれを知っている。深い憎しみと絶望を味わった復讐者の目だ。抜身の刃のように凡ゆるものを傷付け、収めるべき鞘も無い。
ペリドットは自嘲するように喉を鳴らした。
「……少し、考える」
そう言って、ペリドットは血塗れの弟の遺体を背負った。
彼は復讐者だった。けれど、弟の遺体を目の前にして、失意と憎悪の底で、それでも彼は理性を手放さない。それこそがペリドットの強さであり、不幸だった。
狂人には、なれなかったのだ。
擦れ違い様に、翔太は掛ける言葉を探した。けれど、今は何も言うべきじゃなかった。彼の選ぶ道が何であったとしても、その結果、銃口を突き付け合うことになったとしても、翔太に口を挟む権利なんてものは、無かった。
立花は銃を仕舞うと、湊の顔を覗き込んだ。
「酷ェ顔してるぞ」
何しろ湊は満身創痍で、精も根も尽き果てていた。
拘束されていたのか、両手首には酷い擦過傷があって、暴行されたのか痣だらけだった。どれだけ殴られたらそうなるのか、耳からは真っ赤な血が零れ落ちている。
立花は血と汗に濡れた湊の頭を撫でると、ぽつりと言った。
「……ちゃんと守ってやれなくて、悪かったな」
立花が言った瞬間、湊の顔から強張りが解けた。
濁った炎が音も無く消え、濃褐色の瞳が透き通る。それはまるで、憑物が落ちたみたいだった。
「蓮治のせいじゃないよ」
その時にはもういつもの天使のような笑顔をしていて、まるで体の痛みも心の傷も無くなってしまったみたいだった。
湊もまた、ペリドットと同じだった。
狂気の炎に焼かれながら、彼等は理性を手放さない。
だからこそ、苦しんでいる。
立花は湊を背負うと、元来た道を歩き出した。その姿は歳の離れた兄弟みたいだった。翔太は少し後ろを歩きながら、その場に居合わせることも出来なかった自分を責めた。
俺が、もっと警戒していれば。
ノワールの家になんて連れて来なければ。
ベリルをあの場所で止めていれば。
そうしたら、ノワールは死なずに済んだのだろうか。
湊は立花の背中で眠ってしまったらしかった。だらりと下げられた指の先から血が滴り落ちる。ペリドットの背負ったノワールの遺体と重なって見えて、翔太は湊の顔を覗き込んだ。
「死んでねぇよ」
答えたのは、立花だった。
翔太は胸を撫で下ろした。
港の倉庫を出て見ると、立花のBMWは倉庫の入口を塞ぐみたいに斜めに乗り捨てられていた。銃声が聞こえた時の立花の焦燥が目に見えるようだった。
出血箇所に布を当ててやり、立花は湊を後部座席に寝かせた。素知らぬ顔で立花は運転席に座り、翔太も助手席に乗り込んだ。車は滑らかな運転で港の倉庫群を離れて行く。重油のような夜の海から聞こえる波の音が、まるで誰かの泣き声に聞こえた。
本当は病院にでも連れて行くべきなんだろう。
けれど、立花は何処にも寄り道せず、山奥の近江の住居を目指して車を走らせた。珍しく有線ラジオが付いていた。
聞き覚えのあるJ-POPが聞こえ、DJの陽気な声が車内に響く。後部座席から漂う血の臭いと、微かに上下する胸。
細い女の歌声が静かに響く。
哀愁のある包み込むようなメロディは、まるで鎮魂歌のようだった。愛さなくていいからと歌う女の声に、翔太は何故だか湊とノワールを重ねてしまって、涙が溢れそうになる。
「人は、あんな風に誰かの為に泣けるんだな」
独り言みたいに、立花が言った。
それは、ペリドットのことか、湊のことか。
翔太は答えた。
「湊は、ノワールを救いたかったんだよ。他の誰でもなく、ノワールだけを……」
その為にエンジェル・リードなんて個人投資家になって、危ない橋を渡って、海の向こうで薬の開発に没頭して。これだけ足掻いて傷付いても、目の前のたった一人すら守れなかった。
立花は有線ラジオを切った。代わりに高速道路の交通情報を知らせるチャンネルを付け、窓枠に肘を突いた。
「あいつ等がどういう関係だったのかは、よく知らねぇ。友達だったのか、親友だったのか、共犯者だったのか……」
立花は口元に微かな苦渋を乗せて、そっと言った。
「名前なんて、いらなかったんだろうな。少なくとも、湊はそう考えてた。……一緒にいられたら、それだけで」
彼等は関係性に名前を付けなかった。
それがどんなに得難く、尊いものであったか。
契約でもなく、損得でもなく、ただその人が大切だと言う理由だけで彼等は保身も考えず手を伸ばした。
「ノワールは、まあ、長生き出来るタイプには見えなかったな。自然淘汰される自暴自棄なガキだった」
この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。
それが彼等の選んだ道だった。だけど、翔太には、無意味だったとは如何しても思えなかった。
闇に生まれ、塵芥のように死んで行く。愚かで、惨めで、憐れで、ーーけれど、《《見事》》な。
最期の時に、ノワールは何を思っただろう。
その答えは分からない。死者は生き返らない。
生きている俺達が解釈するしかない。
少しでもマシな未来を信じて。
18.空虚な祈り
⑹希望の轍
先代ハヤブサの隠居先に戻った時には、夜明け前だった。
東の空が白んでいる。立花は寝入った湊を背負って玄関を潜った。翔太が追い掛けると、近江は居間に布団を敷いて健やかに眠っていた。
元殺し屋がこんなに無防備で良いのだろうか。
立花は三和土に革靴を脱ぎ捨てると、部屋の隅から布団を引っ張り出して湊を寝かせた。その頃には漸く近江も目を覚まし、傷だらけの湊を見て「強姦でもされたのか」なんて最低なジョークを言った。
立花のジョークにセンスが無いのは、この人のせいだろう。
翔太がそんなことを考えていたら、近江が押し入れから救急箱を持って来た。
表面上の怪我は止血したが、腹部の痣が酷かった。肋骨に罅が入っているかも知れないと近江が言った。此処は医療施設ではないので、開腹手術は出来ない。内臓に損傷が無いことを祈るばかりである。
湊が目を覚ましたら、自分のことは自分で判断するだろう。
立花はそう言って、何枚か湿布を取り出した。怪我でもしたのかと思ったら、翔太に投げて寄越した。ベリルとの戦闘で四肢に痣が出来ていた。大した怪我ではないけれど、厚意は受け取って置く。
湊は丸一日眠っていて、起きた時には空腹を訴えた。
自分の体を触診して、自己治癒で何とかなるだろうと判断すると一日分の栄養を取り返すみたいに三人前の饂飩を平らげた。口の中が切れているらしく、汁を飲む時には顔を歪めていたが、文句は言わなかった。
食事を終えるとすぐに起き上がって、翔太の携帯電話を使って何処かに電話を掛け始めた。
ノートパソコンも、携帯電話も無い。
両親を亡くし、友達を奪われ、湊はそれでも立ち止まらない。翔太にはそれがまるで何かに駆り立てられているかのように見えて、痛々《いたいた》しかった。
湊は表で電話をしていて、翔太は立花や近江と囲炉裏を囲んでいた。あの時、何があったのか、これからどうして行くべきなのか話し合う必要があった。
重い緊張感の漂う中、電話を終えた湊が戻って来た。
「お薬の時間ですよ」
何の冗談かと思ったら、湊は真顔だった。真顔でこういうことを言う奴である。湊は包帯でぐるぐる巻きになっていたので、ミイラ男みたいだった。
湊が三和土にスニーカーを揃えて並べると、立花が溜息を吐いて立ち上がった。
何処からか点滴のパックを取り出すと、細く透明な管に繋いだ。湊は銀色の針を片手に、立花に座るように言った。
「……何してんの?」
翔太が怖々《こわごわ》尋ねると、湊が平然と答えた。
「臨床試験」
「はあ?」
何の薬だよ、と尋ね掛けて、気付く。
湊が立花に投与する薬なんて、一つしかない。
人の脳を破壊する違法薬物、ブラック。その効果を緩和する薬だ。
翔太の血を使って作り出したと聞いていたが、点滴液そのものは半透明の液体で、薄く濁って見えた。
「赤くないんだな」
「赤くすることも出来るけど?」
「止めろ」
立花が苦い顔をして言った。
よく立花が協力してくれたな、と翔太は感心してしまった。彼はSLCの人体実験の被害者で、大の薬嫌いである。湊がペリドットに撃たれて鎮痛剤を呑んでいた時すら嫌そうにしていたのに、どういう風の吹き回しなのか。
「出来ることは、全部やる。そうだろ、蓮治」
一緒に地獄に落ちようね、と湊がうっそりと笑った。
ジョークのようにも聞こえるけれど、その目は真剣そのものだった。
「やっぱり、こいつは悪魔の手先だろ」
立花が吐き捨てる。
全てのサイコパスが残酷な事件を引き起こす訳ではない。世の中には、グレーゾーンの異常者が溢れている。
湊は地獄の底でも希望の光を見付けられる人で、立花は自分の正義を信じて行動出来る人だった。出会った頃の険悪さがまるで嘘のようで、遠い幻のように思えた。
ぽたぽたと液体が落ちて行く。湊は立花の手首に指を添え、脈拍を丁寧に測っていた。臨床試験と言っていたから、人体に投与するのは初めてなのだろう。
副作用があるかも知れない。効果が無いかも知れない。危険を承知で受け入れた立花と、目を逸らさない湊。細い管から流れ落ちる液体が、異なる世界を生きる彼等を繋いでいるみたいに見えた。
「君の検体は沢山あったから、アメリカで詳しく検査したんだけどね」
湊は点滴の間隔を調節しながら、滔々《とうとう》と語る。
検体というのは翔太の血液のことだ。本人の了承も得ずに検査しておいて悪びれもしない。怪我をした時には湊がよく手当てしてくれていたが、その度に集めていたのかと思うと、ちょっと、気味が悪い。
「君はブラックという薬に免疫を持っている。恐らく、先天性のものだ」
「どういうこと?」
「つまりね、君はその薬の影響を受けない体質なんだよ」
調節を終えた湊は、点滴パックを掲げながら何でもないことみたいに言う。
どういうことだ?
ブラックは人の脳を破壊し、殺戮人形にする。妹も、ノワールもそうだった。同じ薬を投与されていた立花やペリドットも将来的にそうなる可能性があるのに、ーー俺はならないってこと?
しかも、俺の血でブラックに対抗する薬が作れるってことは、立花やペリドットも助けられるってこと?
「本当に、切り札になったな」
立花が笑った。
湊は、この国で切り札を探していた。それは彼が築いて来たコネクションや資金のことだと思っていたし、自分は何も出来ないと思っていた。だけど、違うのか?
俺の血があれば、妹やノワールのような悲しい犠牲者を出さずに済むの?
「情報屋の渋谷さんが、俺のカードを欲しがっていただろう? あれはね、ノワールと君の検体のことだったんだ」
警察組織は薬物に汚染されている。
この国は薬物によって海外組織にぐちゃぐちゃに蹂躙されるだろう。ノワールはその汚染を証明するカードで、俺の血はそれを止める切り札だった。
「量産出来ないのが、難点だけどね」
湊はそう言って、苦く笑った。
「俺、お前の切り札になれるのか?」
声は震えていた。
みっともない。情けない。こんなことを訊いてどうするんだ。ーーだけど、翔太は訊かずにはいられなかった。
湊は多才な少年で、立花は凄腕の殺し屋で、それに比べて自分には何も無かった。助けられるばかりで、守られるばかりで、彼等の為に何も出来なかった。
湊は不思議そうに首を捻った。
「君はずっと、俺の切り札だったじゃないか」
まるで、当たり前みたいに。
濃褐色の瞳は出会った頃と同じように美しく透き通っていた。
「俺は他人の嘘が分かるんだ。だから、君の向けてくれた心が尊いものだとちゃんと分かる」
翔太は咄嗟に目を伏せた。
泣きそうだと、思った。けれど、泣いて堪るかと唇を噛み締めた。まだ何も終わってない。やっとスタートラインに立てただけだ。
「なあ、蓮治」
座布団に胡座を掻いた近江が、鷹揚に言った。
「大切なものは、出来たか?」
何の話だろう。
翔太と湊が見遣ると、立花は笑った。
立花は答えない。点滴の落ちる音ばかりがまるで雨のように静かに、広がっている。