⑼共犯者
体中の骨が抜けてしまったみたいに、湊は項垂れ身動きの一つもしなかった。意識があるのかは分からない。譫言みたいにノワールを呼ぶ声だけが聞こえて、翔太はその度に胸が締め付けられるように痛くなった。
ノワールはもういない。
何の為に何処へ行ったのかも分からない。
ただ、翔太に分かるのは、もう届かないということだった。
湊でも止められないのならば、ノワールの覚悟を変えることは誰にも出来ないのだ。
死期を悟った猫が姿を消すように、ノワールも自分のタイムリミットを悟ったのだろう。脳を破壊され、殺戮衝動に支配され、記憶が混濁し、言葉一つ満足に話せなくなって、ノワールはきっと、湊を守る為に遠去けた。
銃弾の雨の中、瓦礫に隠れて湊を抱え込んでいた。
コンクリート片が物凄い勢いで削れて行く。ノワールも心配だけど、今は我が身が大事だ。翔太はナイフを構えながら、弾切れのタイミングを待った。敵は一人。やるしかない。
その時、単発の銃声が響き渡った。
微かな呻き声が聞こえた。聞き覚えのある男の声だった。
瓦礫からそっと顔を覗かせると、サブマシンガンを持った男が脳天を撃ち抜かれ、崩れ落ちるのが見えた。
粉塵の向こう、銃を構えたペリドットが能面のような無表情で立っている。エメラルドの瞳は宝石のように透き通っていて、春の日差しのように脆く見えた。
ペリドットは銃を下げたまま、ゆっくりと歩いて来る。翔太は湊を背中に隠し、エメラルドの瞳と向き合った。
「……あいつは、どうなった」
ペリドットの指すあいつというのが、ノワールであることは分かっていた。湊もペリドットも、ノワールを止めたくて、助けたくて此処まで駆け付けたのだ。
湊は答えられる状態じゃなかった。翔太はナイフを握ったまま、代わりに言った。
「逃げられた。意識は混濁してる。会話は成立しなかった。今のあいつはSLCの操り人形だ」
「……」
「でも、湊のことは、ちゃんと分かってたよ」
無駄でも、無意味でもなかったよ。
ノワールは湊を認識していて、守る為に遠去けた。少なくとも、翔太にはそう思えた。
そうか、と呟いて、ペリドットは黙った。
生憎、他人の心が読める訳でも、嘘が見抜ける訳でもない。
「どうするんだ?」
破壊された脳は元通りにならない。症状が現れた時点で手遅れだ。ノワールはもう戻って来ない。このままSLCの操り人形にされるくらいなら。
いつか、ノワールはSLCに操られて自分たちを殺しに来るだろう。その時はきっと彼の意識なんて残っていない。
「ケジメは、付けるさ」
ペリドットは乾いた声で言った。
エメラルドの瞳は何処か遠くをぼんやりと見詰め、まるで何かから目を逸らそうとしているように見えた。
「またな、番犬とクソガキ」
ペリドットは薄く笑うと、そのまま背中を向けた。
粉塵の中に消えるその背中は、何故だか小さく、悲しく見えた。
そして、入れ違うようにして立花が現れた。
互いに会いたくなかったのかも知れない。立花は翔太を見下ろしてから溜息を吐くと、湊の横に膝を突いた。
おい、と低く声を掛けると湊が顔を上げた。
目元が薄らと赤かった。湊は僅かに充血した目で立花をじとりと睨め付けた。
「……俺のこと、撃っただろ」
「丸腰で横切るお前が悪い」
何のことだろう。
翔太の疑問は置いてけぼりに、立花は手を差し伸べた。
「帰るぞ」
上空からはヘリコプターの音がする。
緊急車両のサイレン、人々の悲鳴。荒廃した街はハリケーンにでも巻き込まれたみたいだ。今に此処にも自衛隊やら警官やらやって来るだろう。
立花の手を取って、湊が立ち上がる。その瞳は相変わらず美しく透き通っていたけれど、その横顔は研ぎ澄まされた抜身の刃みたいに冷たかった。
立花は湊を背負うと、独り言みたいに言った。
「助けられる覚悟のある奴しか、助けられねぇよ」
他人の覚悟まで変えることは出来ない。
この世はとても不自由で、理不尽だった。
真理を突いた立花の言葉は、湊にどのように響いただろう。湊は何も言わない。背中に顔を埋めた湊の表情は分からない。
翔太は掛ける言葉を探したが、そのどれもが不正解なのだと思った。
規制線の張られる街を擦り抜け、立花は車を走らせた。
向かうのは先代ハヤブサの隠居先だった。襲撃された事務所に帰れる程、立花は楽観的ではなかった。
先代ハヤブサである近江哲哉は、都心から離れた山奥で隠居している。浮き雲のように掴み所の無い好好爺で、翔太たちの酷い有様を見ると大口を開けて笑った。
近江の住処は、まるで猟師の山小屋である。
昔噺に出て来るような囲炉裏も、夏場は流石に蓋をしているらしい。板張りの床と砂壁に年代物のクーラーが設置されていて、稼働中は工事でもしているみたいな酷い音がした。
三人共酷く汚れていたので、近江に風呂へ投げ込まれた。
節約しろと言われて、翔太は湊と一緒に風呂に入った。烏の行水とばかりに湊が早々に出て行く。背中に銃創や青痣、ケロイドが残っていた。
翔太が上がると居間には立花と近江だけがいて、湊の姿は無かった。二人は閉じた囲炉裏を囲みながら情報交換をしているらしい。
近江に座布団を渡され、翔太もまた囲炉裏の側に座った。
「大変な事件だぜ。海外メディアまで首を突っ込んでる」
「そりゃそうさ。あれはホロコーストだ」
ホロコーストーー大虐殺。
元はナチス・ドイツのユダヤ人迫害だっただろうか。
「ギベオンはSLCと手を組んでた。何をしようとしてるのかは、知らないが」
「目玉でも欲しかったんだろ。お前の時みたいに」
近江が言うと、立花は分かり易く顔を顰めた。
ギベオンは眼球に執着する殺人鬼で、金色の瞳をした立花に興味を持っている。彼等にも何か因縁があるようだが、二人は説明するつもりも無いようだった。
「ギベオンが言ってたんだが」
立花は胡座に片肘を突き、嫌そうに言った。
「捕食者に対して獲物を狩るなと言うのは、本当に正しいのか」
「さあな。だが、そいつ等を野放しにしていたら、草食動物は絶滅しちまうぜ」
「その草食動物に生かす価値はあるのか」
「お前の側にも、狩り易そうな草食動物がいるだろ。どう思う」
「……」
立花は眉間に皺を寄せた。
近江ばかりがおかしそうに口元を歪めて笑った。
「肉食獣も草食動物も、どちらも必要なんだ。棲み分けていくしかない。管理出来ない奴等は粛清しろ。それはお前の仕事だ」
管理に粛清。
立花も近江も、翔太の知らない世界の裏側に生きている。
「ちゃんと守ってやれよ、蓮治。この調子じゃ、あの子は成人する頃には白髪になっちまうぞ」
「あいつが選んだ地獄だろ」
「選んだとしても、望んだ訳じゃないだろうさ。どんな人間にも、対等に話し合える存在が必要だ。荷物を肩代わりしてやれとは言わねぇが、弱音の一つでも聞いてやれ」
「……」
「子供を守るのは、大人の務めだろ?」
立花は何も言わず、溜息を一つ零して立ち上がった。
納得もいかないだろう。立花は守られなかったし、湊もそれを望まなかった。だけど、今の湊には翔太や航ではなく、立花のような大人が側にいるべきだと思った。彼が身を挺して守らなくても良い、巻き込んでも構わない頼れる大人の存在が、必要だった。
17.名前のない地獄
⑼共犯者
山小屋のような住居の勝手口を出ると、鬱蒼とした森が広がっている。時刻は午後八時半。今頃、世間ではあの街で起きた凄惨な事件をテロか自然災害か、大々的に報じているだろう。
濃密な闇の中、蝉の鳴き声が聞こえる。
蝉は重心が背中にあるから、落ちた時に仰向けだとそのまま死んでしまうらしい。十日程しか生きられない下等生物の断末魔が、立花には不快に感じられた。
子供は嫌いだ。煩くて邪魔臭くて、鬱陶しくて足手纏いだ。弱くてすぐに死ぬ癖に、まるで自分が世界の中心みたいに権利ばかり主張する。
湊もそうだった。言葉一つ満足に話せない癖に、独善と衝動に突き動かされて、邪魔ばかりした。英語で何かと文句を言って来るし、作る飯は適当だし。
ああ、でも。
こいつがいると、仕事が円滑に進むんだよな。
色んな方面のパイプを持っていて、界隈の情報に精通していて、依頼人との軋轢を失くして。
煙草の本数が減ったり、睡眠時間が取れたり、事務所に帰ると何故だかほっとしたり。
泣かない子供だった。立花にとっては楽で都合が良かったけれど、それは本当に良いことだったのだろうか。世間一般の常識とか、子供の成長過程なんてものは分からない。何が正解で不正解なのか。
「おい、湊」
湊は、小屋の裏手で膝を抱えていた。髪から落ちる水滴が、まるで泣いているように見えて不愉快だった。
子供は泣くから嫌いだ。意味も無く騒ぐし、面倒だ。
湊は顔を上げなかった。こんな姿を見るのは、初めてだった。落ち込んでいても自分の前では弱った姿は見せなかった。
こんな時にどんな声を掛けたら良いのか、立花には分からなかった。労りや励ましの言葉なんて一つも知らない。
「……なんか、して欲しいことあるか」
俺の語彙力は、ゴミだな。
立花は不甲斐無さに舌を打った。
何で俺がこいつを労ってやらなきゃならないんだ。
どうせこいつは勝手に立ち直る。
湊が返事をしないので、もう一度低く声を掛けた。膝に埋めていた面を上げ、湊は眉をハの字にして笑った。
「蓮治は、いなくならないでね」
「……お前に言われなくても」
立花は溜息混じりに、湊の隣に腰を下ろした。
子供は体温が高い。夜の山は冷たく、空気が澄んでいる。煙草で汚すのも馬鹿らしくて、立花は壁に背を預けてぼんやりと闇を眺めていた。
狂ったように鳴き叫ぶ油蝉。虫の羽音がまるで静電気のようだった。大自然の前では、人間なんてちっぽけな存在なのだろう。そんなことを考えると、何故だか背中が軽くなるような気がした。
「……ブラックの効果を抑える薬を、試作したんだ」
ぽつりと、湊が言った。
そういえば、そんなことも言っていた。こいつが海を渡ったのは、敵の目を弟から遠去けて、その薬を作る為だった。
父親の解析したデータを元に試作品を作り上げたのだろうが、期間を考えると効果はかなり疑わしい。臨床試験も出来ていないのだろう。
「どんな薬だ」
「点滴静脈注射で……、血中の薬剤濃度を保ちながら、ゆっくりと薬剤を投与する。ブラックに汚染された血液を少しずつ正常値に戻して、脳への影響を打ち消して行く」
まだるっこしい話だ。
効くかどうかも分からない上に、効果もすぐに出ない。
しかも、破壊された脳は元に戻らないのだから、既に洗脳されてしまっている者は助けられないのだ。
可哀想にな。
立花は、他人事のように思った。
ノワールの為に作っていたのに、完成しても間に合わないのか。こんなことなら、試作品でも何でも試してみれば良かったのに。そうすれば、この虚しさも今よりはマシだっただろう。
効果があるかも分からない。副作用があるかも知れない。科学は発展の裏で常に代償を求める。そんな薬を、ノワールには試せなかったか。
「俺で試せ」
立花が言った時、湊が険しい顔をした。まるで、何を言っているのだと言わんばかりの凄い顔だった。そんな湊を見ていると、何となく小気味良くて、笑い出したくなる。
「どっかの薬中捕まえて実験台にするよりはマシだろ。リスクも少ねぇ」
「……重篤な副作用が起きるかも。アナフィラキシーの危険だって」
「構わねぇよ。どうせ、何もしなきゃ俺だっていつかはノワールみてぇになるんだろ」
湊は目を伏せた。
立花は、幼少期を孤児院で過ごし、SLCの人体実験を受けて来た。ノワールと同じだ。
「俺はSLCの操り人形になるくらいなら自殺するね」
「……」
「なあ、湊。どっちがマシな未来だよ」
医者も薬も大嫌いだ。地獄の底みたいな孤児院で過ごした最低な日々が悪夢のように蘇るからだ。他人の道具にされるのも、利用されるのも真っ平御免だ。
「俺の地獄に花を咲かせてくれんだろ?」
湊の濃褐色の瞳に、炎が見える。
怒りとも憎しみとも付かない激しい炎だった。
これだけお膳立てされて、煽られて、黙って嬲られるだけの男じゃないだろう?
「蓮治は死なせない」
湊は口元を引き結ぶと、拳を向けた。
何のジンクスだか知らないが、立花は応えてやった。
拳がぶつかる感触が、立花には懐かしく思えた。
俺達は、家族でも友達でも仲間でもない。
雇用関係でもなく、助け合いもしない。
名前を付けるのならば、俺達は共犯者だ。
何も生み出しはしないこの不毛な関係が、立花には心地良かった。