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Ace in the hole. ー最後の切り札ー  作者: 宝積 佐知
17.名前のない地獄
132/159

⑻夢幻泡影

 春の新緑に似たエメラルドの瞳、輝くような金髪。

 やや釣り上がったアーモンドアイは、猫に似ている。


 国家公認の殺し屋、ペリドット。




「なんでテメェが此処にいる」




 互いに銃口を突き付けながら、立花は指に力を込める。

 ペリドットは砂漠のように乾いた声で言った。




「こっちの台詞だぜ」




 ペリドットは半身で銃を構え、全身から殺気を放っている。エメラルドの瞳は激しい怒りに煮え滾り、今にも爆発しそうだった。


 海の向こうからやって来る湊を援護する為に、航が公安からペリドットを動かした。合流は成功したのだろう。彼等がこの場所に来るのも当然だった。

 暴走した湊をペリドットが追い掛けて、庇ったという所だろう。




「テリトリーに入ったら皆殺しか? たかは飢えても穂を摘まずと言う。ハヤブサの名が泣くぞ」

「うるせぇ」




 立花は銃を下ろした。

 湊を撃ったことに論理的理由は無い。殺し合いの中を丸腰で横切る馬鹿が悪い。そいつは反省もせず、説明もせずにまた何処かへ走って行ってしまったけれど。


 何処へ行こうと言うのだ。

 銃を持った殺人鬼が彷徨うろついている地獄の底で、武器の一つも持たず、周囲を見る余裕も無く、一心不乱に何処へ向かって。


 ああ、ノワールか。

 あの憐れな殺戮人形を、止めに行ったのか。


 馬鹿だな。

 立花が胸に吐き捨てた声は、意図せず口から零れ出た。

 自分が言ったんだろう。壊れた脳は元に戻らない。症状が現れたら手遅れだと。薬物で脳を壊され、最早会話すら儘ならない可哀想なノワール。ペリドットの、弟。




「弟の所に行かなくて良いのか?」




 立花が問うと、ペリドットは舌を打った。

 殺気を治めたペリドットは、銃口を下げた。この場で殺し合う理由は無い。




「お前が引導を渡してやれよ」




 ペリドットの顳顬こめかみに青筋が走る。


 親切心と、ほんの僅かな打算。自分達がやるよりは、実兄が始末を付ける方が良いだろうと思った。


 此処に来た時点で、話くらいは聞いていただろう。お前の弟はもう手遅れなんだ。


 ペリドットは何も答えなかった。

 湊の駆けて行った方向を見遣ると、憎悪に染まったエメラルドの瞳で睨んで来た。




「お前は血に飢えた獣だ。SLCのクソ共と同じだよ」




 ペリドットはそう吐き捨てた。

 そのまま走り出そうとしたペリドットが、急ブレーキでも掛けたみたいに立ち止まる。瓦礫がれきの下に血塗れの子供が埋もれている。その目は薄く開かれ、瞬きの一つもしない。


 小銭でも拾うみたいにペリドットは手を伸ばすと、撫でるようにして死んだ子供の瞼を下ろした。


 周囲は血の海だった。

 子供の下半身は瓦礫の下で、原型をとどめない程にぐちゃぐちゃに潰れているだろう。助けを求めて伸ばされた手は誰にも取られることも無く、遺体は骨まで焼けて残らないだろう。けれど、ペリドットの手が離れた時、その子供の遺体はまるで眠っているように見えた。


 俺とこいつは、何が違うんだろう?

 立花は、不意にそんなことを思った。

 国家に飼われた殺し屋が、弟を突き放したその手で、縁も所縁も無い子供の遺体を撫でる。


 滑稽だ。

 立花は喉の奥で笑った。

 こんな思考そのものが非生産的である。


 ペリドットは粉塵の中へ走り出している。

 馬鹿な奴等だ。自分のことも満足に守れない癖に、他人の為に命を捨てようとする。どうせ、この世は弱肉強食で、弱い奴等から死んで行く。


 孤児院で死んで行った同胞が、路傍ろぼうの石みたいに始末された人間達が、翔太の家族が、湊の両親がそうであったように。

 この世には勝者と敗者しかいない。勝者が敗者に手を差し伸べるなど、美談にもならない。


 けれど、瞼の裏に蘇る。

 湊の適当な料理とか、翔太の下らない小言とか。

 そんな無意味なガラクタが、何故か眩しく見えるから。




「……あーあ」




 こんな無駄な荷物はいらないと思っていたのにな。

 存外、自分も毒されていたらしい。


 銃を懐に入れ、立花は溜息を吐いた。

 まあ、良いさ。


 結末くらいは、見届けてやろう。
















 17.名前のない地獄

 ⑻夢幻泡影むげんほうよう














 父の遺書を受け取ったのは、15歳の春だった。


 父はメサイアコンプレックスをこじらせたような理想論者で、湊が産まれる前から中東の紛争地で救命救急医として医療援助していた。日々担ぎ込まれる重傷者を手当たり次第に治療して、戦場に送り出すのが父の仕事だった。


 家庭を持ち、湊と航が産まれてからもその生活の拠点は変わらなかった。帰国した時には大学病院で非常勤の救命救急医として働き、湊と航は殆ど父と過ごして来なかった。


 父には大きな理想があり、守るべきものがあった。

 その中にはちゃんと自分達家族が含まれていて、湊は父の仕事を立派だと思ったし、ヒーローだと尊敬もしていた。


 けれど、弱い人だったと、湊は思う。

 自己の肯定を他人に依存し、誰かの為に尽くすことでしか生きている実感を得られなかったのだ。だから、追い立てられるみたいに働いて、いつ死んでも良いように遺書を書いて、居場所の無くなった息子を海の向こうの裏社会に放り込んだ。動いていなければ死んでしまう魚みたいに、何かを成し遂げなければ生きていられない人だった。


 後見人から受け取った遺書は、弟と一緒に読んだ。

 内容は端的に一言、俺はいつでもお前等の味方だと、書かれていた。


 勝手だな、と湊は思った。

 傲慢で、偽善的で、ぞっとするくらいのエゴだった。泥濘ぬかるみに縛り付けるような陰湿で歪んだその執着を、この世界では()と呼んだ。


 愛という言葉は、凡ゆる非道を許す。

 医療援助をしていた父の頭上に焼夷弾が降り注いだことも、母が州立記念公園で弟を庇って死んだことも、異国の地に放り込まれた弟が死と隣り合わせで生きていることも。

 翔太が包丁を持って襲って来た妹を返り討ちにしたことも、立花が命乞いする人間の眉間を無言で撃ち抜くことも、天神侑が人殺しの道を選んだことも、全部。


 この世界はいつも理不尽で、不条理だった。

 海の向こうでは銃弾が降り注ぎ、飢餓に喘ぎ、親は子供に敵を殺せと教える。一方では福祉が発達し、社会的弱者が被害者面をして、権力者は目に見えないものを搾取する。


 生きることに理由はいらない。

 湊はそう考えている。自己の証明やら生命の起源の探究なんてものは専門家がやれば良いことで、そんなことで人生を棒に振るつもりは無かった。


 俺は、俺が大切だと思うものを守りたい。

 目に映る何もかもを救うことなんて出来やしない。過去は変えられないし、未来は届かない。今この一瞬を生きない人間に明日は来ない。


 そうして、呼吸すら忘れて闇の底を駆け回って、泥沼の中を這いながら、ふと気付いた。まるで、父のようじゃないかと。


 俺は一体、何になりたいんだろう。何になろうとしているんだろう。不釣り合いな肩書ばかりが伸し掛かり、自分の足で満足に歩くことも出来ないのに、他人の人生に首を突っ込んで、一体、何をしたいんだろう。


 父の理想、誰も殺されない世界。

 俺の夢。明るい未来を捨てた俺に、何が残されているの。

 言葉も通じない異国の地で、味方のいなかった俺の側にいてくれたのは、たった一人だった。


 ノワールは詮索して来なかった。何も言わず、何も訊かず、ただ隣にいてくれた。この国に来て、初めて息が出来たと思った。


 一緒に食べた焼き芋の味とか、並んで眺めた夕焼けとか。

 油絵を描く横顔だとか、バイクを運転する背中だとか。

 子供みたいな笑顔だとか。


 その人と一緒にいる自分が好きだと思うのなら、関係性に名前なんていらなかった。


 これが()じゃないと言うのなら、そんなものはどうでも良いことだ。詩をんで生きて行く訳じゃないし、誰かに認めて欲しいとも思わない。


 大切なものが一つ増える度に怖くなる。手を繋いだら、離す日が来る。何でもかんでも救える訳じゃない。――だけど、どうか。


 この手にあるものくらいは、守らせてくれよ。




「ノワール!!!!」




 酸欠で朦朧もうろうとする意識の中、湊は腹の底から声を張り上げた。肺が破裂しそうだった。頭が鈍く痛む。


 熱波と爆炎、酷い血の臭い。瓦礫がれき屍体したいが山を作る。

 此処は地獄だ。両親を奪った赤い悪魔が笑っている。


 瓦礫の山の中腹に、二人はいた。

 仰向けに押さえ付けられたノワールと、ナイフを振り上げた翔太。二人共、酷い有様だった。頬は腫れ、青痣が浮かび、両手から血がにじむ。まるで殺し合いでもしているみたいだった。


 その刃がノワールの喉笛を切り裂こうと振り下ろされる刹那、弾かれたみたいに二人が振り向いた。




「ミナ……」




 掠れたテナーの声が、自分を呼んだ。

 湊は導かれるように足を踏み出した。


 両足の感覚が無かった。スニーカーは焼け焦げ、着衣水泳でもしたみたいに汗だくだった。関節が軋む。湊が瓦礫の塊につまずくと、翔太がナイフを取り落とした。




「湊!」




 落ちたナイフはそのままに、翔太が立ち上がる。

 転がる勢いで駆け寄る翔太を制して、湊は煤塗れのノワールと向き合った。


 エメラルドの瞳は春の新緑の如く透き通る。

 湊が口を開いたその時、ノワールは頭痛をこらえるみたいに顔を歪めた。薬のせいだ。ノワールの目から光が消えて行く。

 どのくらい進行してしまったんだ。今のノワールの状況は。彼の意識はどれだけ残っている。猶予はあるか、手は届くか。


 考えている時間も余裕も、湊には無かった。

 精神が体を凌駕する。今の湊を突き動かしているのは、論理的思考なんてものではなく、衝動に任せた、ただのエゴだった。




「待て、湊! ノワールは今……!」




 翔太の制止も構わず、湊はノワールに駆け寄った。

 背を丸めてうずすまったノワールは、蛹のようだった。頭から灰を被ったみたいに髪は真っ白で、まるでお爺さんになってしまったようだ。


 瓦礫の上にうずくまるノワールを抱き留めると、温かくて、生命の音がした。


 何でも救えるとは思わない。

 だけど、この手が届くものくらいは。




「遅くなって、ごめん……!」




 歯の根から絞り出すような掠れた声しか、出て来なかった。言いたいことも、聞きたいことも沢山あるのに。




「なんで、此処に、来た……」




 お前にだけは、見せたくなかった。

 ノワールが言った。掠れた弱々しい声だった。

 まるで、指の隙間から砂が零れ落ちて行くみたいだ。


 俺が一番近くにいた。俺が気付かなければいけなかった。どうしたら、ノワールを守れる。この震える背中を、どうしたら。




「夢を見るんだ……」




 声はみっともなく震えている。

 それでも、湊は伝えたかった。感情を言葉にするのも、未来を語るのも好きじゃない。どうせ伝わらない。

 湊の根底にあるのは、希薄な自己肯定感ではない。他人への諦念だった。それでも、流星に願いを込めるみたいに湊は口を開いた。




「ノワールと一緒に海を渡って、美しいものを探して、楽しい時には腹を抱えて笑って、泣きたい時は肩を抱いて、寂しい時には歌を口ずさむ……。そんな未来を」




 明るい未来なんて、とっくに捨てた。

 日の当たる道は歩けない。だけど。




「ノワールと一緒にいると、俺が楽しいんだ。胸の中が温かくなって、この世もまだマシだって思えるんだ」




 どうせこの世は設計ミスだらけの欠陥品そのものだ。不幸や絶望ばかりが不平等に降り注ぎ、権力者は目に見えないものを搾取して笑ってる。


 だけど、それでも良かったんだ。




「ノワールと一緒なら、地獄でも良かったんだ」




 他人が何人死んでも良い。犯罪組織が暗躍しようが構わない。この手を血に汚し、誰に恨まれ憎まれようが、そんなことはどうでも良いことだった。




「何度でも、俺が何とかしてやるから」




 ノワールの手が伸びる。

 その手は湊の背中を撫で、そして、弱々しく胸を押した。腕が震えていた。ブラックという薬は人の脳を破壊し、殺戮人形にする。今のノワールは、その苛烈な殺戮衝動と抗っている。




「……お前と同じ道は、行けない」




 ノワールは湊を突き飛ばし、泣き出す寸前みたいに顔を歪めた。視界が一回転し、湊は瓦礫の山から滑り落ちた。

 絞り出すような声で、ノワールが言った。




「俺の地獄に、お前を連れて行くつもりは、無い」




 湊は瓦礫の上に尻餅をついた。駆け寄った翔太が肩を支えてくれる。湊は頭上のノワールに向けて、声を張り上げた。




「アラタ!!」




 殺し屋のノワールではなく、天神新てんじん あらたに。

 どうか届けと祈るように。




「嫌だ!! 置いて行かないでくれ!!」




 ノワールはふらつきながら立ち上がり、おもむろに首から下げたドッグタグを掴んだ。




「誕生日プレゼント、ありがとな。大事にする……」




 ノワールが微笑んだ。

 それは、湊がよく知るノワールの優しい笑顔だった。


 ノワールはきびすを返し、無防備に背中を向けた。倒壊する建物に向かって歩き出すその姿は、まるで、まるで死地へおもむく戦士のようだった。




「アラタ!!」




 湊が手を伸ばしたその時、何処からが銃弾が放たれた。

 翔太の腕が押さえ付ける。ノワールは振り返らない。振り返らないまま、黒煙と粉塵の中に消えて行く。我武者羅に手を伸ばす湊を羽交はがい締めにしながら、瓦礫の影へと引き摺って行った。

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