⑵愚者の足掻き
「アンタに誇りはないのかよ!」
湧き上がる怒りのままに、翔は立花に詰め寄った。
相手が彼でなければ、胸倉を掴んでいたかも知れない。
ミナは無言で札束を紙袋に入れているが、その表情は普段からは想像も付かない程の虚無に染まっていた。
それを見る度に、どうにかしてやりたくて、悔しくて、遣る瀬無かった。
西岡の依頼は最低だ。
先日のクソな依頼人がマシに思えるくらいだった。
ワイドショーは事故の悲惨さを報道し、遺族は冷たい風の中で懸命に署名運動をしている。西岡は自分のせいじゃないと開き直り、八つ当たりに遺族を殺せと金を積む。
こんな馬鹿な話があるか?
立花の意見は変わらなかった。
「俺は復讐者じゃねぇし、正義の味方でもねぇ。適切な報酬があれば、依頼は受ける。――例え、どんなに気に食わないクソ野郎でもな」
翔は舌打ちした。
依頼は受けてしまったのだ。ターゲットは殺されるのだろう。それでは、自分やミナが西岡の罪を暴いたとしても、何の意味があるだろうか。
怒りの矛先を見付けられないまま、翔は俯いた。握り締めた拳が軋む。酷く頭が痛かった。
紙袋を片手に、ミナが言った。
「入金して来る」
「……俺も行く」
「OK」
大金を持たせて街を歩かせるのは不安だったし、この場にもいたくなかった。
立花は何事も無かったみたいに微笑み、手を振った。ミナは振り返らない。けれど、その小さな体に見合わない怒りが湯気のように迸るのが、翔には見えた気がした。
3.地獄に咲く花
⑵愚者の足掻き
ミナは何も言わなかった。
何かを考えているようにも、気を散らしているようにも見えた。ただ、笑っているはずもなかった。
駅前の交番に、桜田が立っていた。此方に気付くと親しげに手を振って、いい暇潰しを見付けたとばかりに駆け寄って来る。
「お出掛け?」
ミナは一度だけ頷くと、さっさと歩き出してしまった。翔は曖昧に会釈して、その後を追った。
幾つかの銀行とATMを利用して大金を振り込むと、ミナは肩の荷が下りたのかその場にしゃがみ込んでしまった。道行く人が振り返り、蹲る子供を見遣った。けれど、声を掛ける人も立ち止まる人もいない。
翔が口を開いた時、ミナは立ち上がった。
その時にはもうすっかりいつもの調子を取り戻していて、笑顔すら浮かべていた。
「怒ってくれて、ありがとう」
ミナが言った。
一瞬、何のことか分からなかった。
「ショウが怒ってくれなかったら、俺が怒ってた」
「……お前は初めから怒ってただろ」
「I'm immature」
自嘲気味に、ミナが言った。
「ターゲットのこと、調べなきゃ」
「こんなクソみたいな依頼を、どうして受けなきゃならねぇんだ」
「レンジが受けた依頼だ。俺が口を出すことじゃない」
「でも、お前は納得してないんだろ。俺だってそうだ」
ミナは目を伏せた。
彼は納得していないし、割り切れてもいない。当然だ。この子は翔よりも幼い子供だった。けれど、誠実だった。殺し屋の事務所にいるとは思えないくらい、研ぎ澄まされた正義感を持っている。
「高梁が殺された時、お前は仕方が無いことだとは思わなかったんだろ。だから、あのデータを警察に出した」
「I don't know what」
「しらばっくれても無駄だ。俺はお前に渡された封筒に、データが入っていたのを確認したんだ」
「嘘だね。俺には君の嘘が分かる」
ミナは断言した。
勿論、嘘だった。だが、どうしてこの子は自信を持って断言出来るのだろう。
発信機か、盗聴器か。この子供は自分の行動を見張っているのかも知れない。
ミナは、深く溜息を吐いた。
「レンジが暗殺を失敗したことは一度もない」
丸い瞳が、刃物のように鋭利に光る。
凪いだような無表情だった。だけど、仕方がないことだと割り切っているようにも思えなかった。
この子供はどうして殺し屋の元にいるのだろう。立花のやり方に賛同していないのに協力するのは何故なんだろう。
「レンジは復讐を代行しない。正義の味方じゃないっていつも言ってる。ターゲットは必ず殺される。俺には何も出来ない」
「じゃあ、どうして俺を助けたんだ」
ミナが諦念から立花に協力しているのなら、自分を助けはしなかったはずだ。この子供は割り切ったふりをしているだけだ。翔はそう思った。
「君は運が良かっただけだ」
西岡と同じことを言っているのに、どうして全く違うように聞こえるのだろう。
「もういい」
翔は突き放すつもりで、ミナの肩を押した。
「俺は自分が納得出来るようにやる」
ミナが英語で何かを言ったが、分からなかった。
自分が何かすれば、罰を受けるのはこの子だ。けれど、立花は彼を殺しはしない。この子がどんな罰を受けるのか想像するのは怖いけれど、此処で立ち止まっていたら、命よりももっと大事なものが失われてしまう気がした。
翔が歩き出しても、ミナは追い掛けて来なかった。
彼の立場ならば止めるべきだ。つまり、それが答えだと思った。
駅前に差し掛かると、何処から現れたのか桜田に呼び止められた。親しくした覚えはないので無視しようとしたが、桜田は勝手に隣を歩き始めた。
「ミナちゃんはどないしてん?」
「知らね」
「薄情やな。喧嘩か?」
「うるせぇなぁ。お前に関係無ぇだろ」
どっか行け、と手を振って放逐したが、桜田はめげない。
「あの子とはどういう関係なん? 未成年やろ? 学校に行っとる様子もないけど、不良にも見えへん」
そんなの、俺が一番知りたい。
ミナは何者なんだろう。立花とはどういう関係なんだろう。何も知らないのに、信じられるのは何故なんだろう。
「そういえば、一度知らん男と歩いてたな。眼帯付けた怪しい男やった」
身長はこれくらい、と桜田は翔の少し頭上に掌を合わせた。
恐らく、立花のことだ。翔は曖昧に頷いて、答えるのを止めた。下手に追求して藪蛇になるのも嫌だった。
「あれは只者やないなぁ。歩き方っちゅうか、身のこなしっちゅうか、軍人みたいやった」
「軍人がどんなのか知ってんのかよ」
「例え話やんけ。冗談が通じんなぁ」
面倒臭い男だ。
自分に余裕がないと苛々させられる。
ミナが素通りした気持ちも分かる。
「カラコンでも付けとったんか、目が金色やった。胡散臭いやろ?」
「知らねぇよ。気になるなら、直接訊けばいいだろ」
「訊いても答えへんやろ。あの子は嘘を吐き慣れとる」
翔は舌打ちした。
「お前、うぜぇよ。これ以上、付いて来んな。俺は何も知らねぇし、答えられねぇ」
桜田は少しだけ目を細めて、意味深に笑った。
鬱陶しくて足を速めようとした時、桜田が言った。
「……そういえば、この前死んだ女会社員のことなんやけど」
翔は足を止めた。
「自宅のパソコンに、拘置所で死んだ男と会う約束をしたメールが残っとったんや」
「……それが?」
「無関係とは考え難いやろ? 俺はな、女社員は口封じに殺されたんやと思っとる。せやけど、拘置所で死んだ男にはアリバイがあった。つまり、や」
桜田が言った。
「仲介人がいたんとちゃうかな? 証拠の一つも残さへん殺しのプロが」
この男は、勘付いている。
翔は身構えた。
立花に報告するべきか。それとも、まずはミナに?
いや、この男はまだ証拠を掴んでいない。尻尾を出させたいんだ。
どうする?
此処で桜田に真実を告げれば、あのクソみたいな依頼は遂行されないんじゃないか?
翔は迷った。
だが、その時、声がした。
「ショウ!」
柔らかな子供の声だった。
ミナが息を弾ませて駆けて来る。
「I looked for it! Here we go!」
「ちょっと、待てって、」
ミナが強引に手を引いて来る。
翔は殆ど引き摺られるような形だった。桜田は何かを言いたげに此方を見て、手を振った。
無邪気な子供みたいにミナが歩いて行く。極自然な流れで路地裏に入り込むと、その小さな手が翔の胸を叩いた。
「Death to traitors. 裏切り者には死の制裁を。それがこの世界の掟だ」
「……」
「Ruleを守れない奴は殺される。君も、桜田さんもね」
「桜田は警官だぞ」
「桜田さんは信用出来る。でも、警察組織は信用出来ないね」
ミナは迷いなく言った。
「いいかい。西岡は二年前にも交通事故で人を死なせている。その時は示談になって、量刑も軽微なものになってる。今回の事故を起こした時には、違法薬物を服用していた」
これが初犯じゃなかったというのか?
「そんな奴が、どうして逮捕されてねぇんだよ!」
「コネクションだよ。事務所に来た時にも、大金を持っていただろう? 警察に太いパイプを持っていて、家が裕福なんだ」
腐ってる!
翔は悪態吐いた。
ミナは目付きを鋭くした。
「桜田さんも言ってただろ。界隈で明らかな他殺と思われる死体が出ているのに、警察の上層部は自殺と断定したって。……君が思う以上に、警察という組織は腐敗が進んでいて、殺し屋と繋がっている」
じゃあ、どうすればいいんだ。
警察は助けてくれない。ならば、どうやって。
立花は復讐を代行しない。それなら、一体誰が被害者の無念を晴らしてくれるのだ。こんな救われない話があっていいのかよ!
「今の俺には、西岡のコネクションに対抗する術がない」
「だからって、罪のない人が理不尽に殺されるのを指を咥えて見てろって言うのかよ!」
ミナは目を伏せた。
こんなことをミナに言ったって仕方ない。ミナは賢いけれど、子供なのだ。
「君は依頼人が悪人で、被害者は善人だと思い込んでる」
「違うっていうのかよ」
「分からないよ。俺達には知りようもない。レンジが復讐を請け負わないのは、そういうことだろ」
お前は誰の味方なんだ!
翔は叫びそうになったが、寸前で堪えた。
「人殺しには需要がある。少なくとも、今のこの国はそういうところだ。金さえ払えば、自分は手を汚さずに、邪魔者を始末してくれる」
「そんなのおかしいだろ! 卑劣だ!」
「じゃあ、多数決で依頼人を社会的に抹殺しようとする遺族は正しいの?」
「罪には罰なんだろ? 大切な人を奪われた人が、加害者に厳罰を望むことの何が間違ってるっていうんだ!」
「それはただの腹癒せだろ。やられたからやり返すなんて子供の喧嘩じゃないんだ」
「じゃあ、被害者は泣き寝入りか? お前、本当にそれでいいと思うのか?!」
その時、ミナが奇妙な顔をした。
日差しに目を細めるみたいな、眩しそうな、苦しそうな顔だった。
「……どちらが正しいのか、俺には分からない」
憔悴し切った声だった。地面に向かって下された拳が震えている。まるで、何かを堪えているみたいだ。
翔はミナの手を掴んだ。寒風の中に晒され続けたかのような、冷たい手の平だった。
「分からないなら、答えを探そうぜ」
ミナは微笑み、頷いた。しかし、その瞳に映る光は風前の灯火のようにか細く、儚く見えた。