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⑹渇き

「切り札を残して負けるなんざ、馬鹿のすることだぜ」




 航がそう言ったのは、深夜二時を過ぎた頃だった。

 立花と翔太の話を聞き終えると、航は携帯電話を取り出した。定期報告だと航が言ったので、相手は湊だと分かった。


 スピーカーの向こうから微かに聞こえる湊の声が懐かしく思えるのは、会おうとしても会えない距離にいると分かるからだ。どんなに大切にしていても、失くしてしまえば後悔する。


 情報交換を終えると、航は苦く笑った。




「嫌味、言われたぜ」




 航の携帯電話が鳴る。メッセージの着信らしい。

 相変わらず、向こうが何処にいて、どんな状況なのか分からないけれど、弟に嫌味を言う程度の余裕はあるらしい。翔太には、それだけで充分だった。




「フィクサーは湊が何とかするってよ」

「何だそりゃ。どうするつもりなんだ」




 呆れたように立花が言った。

 翔太も同意見だった。だが、まあ、彼等がやると言うのなら、やるのだろう。それは実績に裏付けされた信頼である。

 航は悪童染みた笑みを浮かべている。




「今の湊は余裕無いから、かなりエグい遣り方するだろうぜ」

「怖いな」

「喧嘩売って来たのは向こうだ。手心加える理由は無ぇ。それより、こっちは噂の護衛をどうにかしなきゃならねぇ」




 航は壁に凭れたまま、腕を組んで唸った。

 考え込む航を見ていると、微笑ましいような、寂しいような気持ちになる。湊は相談というものを殆どしなかった。一人で悩んで、一人で決める。けれど、航は一緒に悩み、共有しようとする。


 足して二で割ったら、分かれてしまったんだろうか。

 正反対の双子を眺め、翔太は苦く笑った。












 16.繋いだ手

 ⑹かわ











 一睡も出来なかったと、航が英語で言った。

 行き場の無い航に湊が使っていたベッドを貸してやったのだが、彼は兄と違って繊細な性質たちらしく、他人のいる場所では眠れないらしい。そして、不遇ふぐうなことに、それは立花も同じだった。


 お蔭で翔太は航を連れて、朝早くから街へ繰り出すことになった。航は旅行や観光にはあまり興味が無い上に人混みも苦手らしく、結局、適当な喫茶店で休むことになった。


 航の目の下にはくまがあった。両親が死んでからも彼は気丈に振る舞っていたけれど、何も感じていないはずも無かった。湊は兎も角、彼は両親の死を目の前で見たのだ。その時のショックは計り知れないし、命を狙われながらたった一人で異国の地に渡って来た彼の胸中を思うと、幾らでも優しくしてやりたかった。


 喫茶店は商業ビルの二階にあり、カウンター席からは駅前の大通りが一望出来た。行き交う人の群れを見た航が「虫に見える」と零してカウンターに突っ伏してしまったので、翔太にはどうやって慰め励ませば良いのか全く分からなかった。


 店の中は人で溢れている。

 買い物に疲れた若い女、パソコンを使うスーツの男。喫茶店は休憩所みたいに入れ替わり立ち替わり、人で埋め尽くされる。他人の気配に敏感になっている航のことを思うと、せめて河原とか、公園とか、もう少し静かな場所に連れて行ってやるべきだった。




「Did you end the revenge?」




 生気の無い眼差しで、航が言った。

 洞穴を何日も彷徨い続けたかのような疲れ切った顔付きだった。翔太は辺りを見遣った。誰も此方を見ていない。自分にとって彼等がそうであるように、彼等にとっても自分はエキストラの一人でしかなかった。




「俺の両親を殺したのは、妹だった。……俺が、妹を殺したんだ」




 航は身を起こすと、興味も無さそうに相槌を打った。

 多分、それが最良の反応だった。驚きも蔑みもしない。




「俺の妹はブラックを投与されていた。……湊が言うには、薬のせいでゆっくりと殺人鬼に変えられたんだろうって」

「本当に、デリカシーってもんが無いよな」




 航は舌を打った。

 翔太はそれを否定した。湊はちゃんと配慮してくれた。翔太が知りたいと言ったから調べて、言葉を選びながら丁寧に教えてくれたのだ。だから、翔太は湊に腹を立てなかったし、恨んでもいない。




「妹はサイコパスだった。俺の親父はそれを治療出来ると信じていて、SLCの人体実験に差し出した。……なあ、航。俺は()()憎めば良いんだ?」




 翔太は額を押さえた。

 分からないのだ。ずっと迷っている。家族の復讐の為に生きて来た自分は、これからどうするべきなのだろう。何が最善なのか。何を望まれているのか。

 だから、自分はいつも中途半端で、肝心な時に手が出ない。覚悟を口にするのは、逃げてしまいそうな自分を繋ぎ止める為の言い訳だった。




「よく分かんねぇけど」




 航は不機嫌と困惑の間みたいな顔をしていた。




「アンタ、もう誰も憎んでないんじゃないか?」




 グラスの中で、氷の割れる音がした。

 航の濃褐色の瞳が、不思議そうに覗き込む。


 もう、誰も――?

 両親を殺した妹も、妹を殺した自分も、家族を壊した人体実験も、何も?


 それは、余りにも薄情だ。自分が忘れてしまったら、家族の苦しみを、怒りを、嘆きを他の誰が認めてくれるというのか。偽りの情報によって存在すら消された家族の無念を、一体誰が晴らしてくれるというのか。


 航は背凭れに体を預け、ぼんやりと窓の向こうを見ていた。




「死んだ人間が何を望んでいるのかなんて、俺にだって分かんねぇよ。俺の兄貴は、死後の世界すら信じてないからな。死んだらそれまで。アンタ以上の薄情者さ」

「許すって言うのか……?」

「許しはしない。俺たちは必ず、納得出来る形でケリを付ける」




 航は、まるで暗くて冷たい洞窟の奥にいるみたいだった。

 声を上げても自分の声が反響するだけで、何処からも光は差し込まない。底冷えするような狂気を連れて、航は言った。




「それが間違ってるって言うなら、善悪なんざどうでも良いことだ。正義の味方になりたい訳じゃねぇからな」




 航はグラスの縁をなぞりながら、ストローでアイスコーヒーを掻き混ぜる。氷のぶつかる音がまるで風鈴のように涼やかに聞こえた。




「俺のお袋が言ってた。憎しみなんて長くは続かない、最後に残るのは()なんだってよ。……笑っちまうよな」




 そう言いながら、航は笑っていなかった。

 笑って欲しかったのかな。翔太はそう思った。


 その時、隣に座っていたサラリーマンが退去し、代わりに若い女が座った。航はさり気無く距離を取り、翔太は何となく目を向けた。――そして、雷に打たれたかのような衝撃が走った。




「สวัสดี?」




 長い黒髪、青い瞳、浅黒い肌。東洋の顔立ちをした強烈な美女がうっとりと微笑んでいる。唇は血を吸ったように赤く、その眼光は抜身の刃の如く研ぎ澄まされていた。

 杜梓宸のボディーガード、赤い猛犬、研がれた牙。プリシラ・チハマド――。


 中東からやって来た虐殺者が、其処に座っていた。


 脊髄反射で腰を上げた翔太を、航の腕が引き留めた。

 航は狩りの最中の肉食獣のような静寂を守り、突然現れた女をじっと見詰めていた。




「คุณเป็นอย่างไรบ้าง?」

「In English. Otherwise, use Japanese」

「あら、不自由ね」




 プリシラはつまらなそうに鼻を鳴らすと、日本語に切り替えた。イントネーションが微かにぶれる。日本語に慣れていないと分かる。


 航は静かに問い掛けた。




「アンタ、何者?」

「名前を訊くなら、まずは自分から名乗るべきだと思わないか?」

「アンタが何者か分からない内は、何も答えるつもりはない。ロシアンルーレットに興じる趣味はないんでね」




 そうだろう?

 航は翔太を見遣った。

 プリシラは妖艶に微笑むと、カウンターに肘を突いた。青い瞳が翔太を射抜く。辺りは変わらず喧騒に包まれているのに、自分たちだけが氷の城に閉じ込められているみたいだった。




「また会ったな。ハヤブサはいないのか?」




 翔太は沈黙した。航はその質問で何かを察したように居住まいを正し、プリシラに向き合った。




「お前を始末すれば、ハヤブサが出て来るか? 小蝿のように彷徨かれるのは、非常に鬱陶しい」




 空気が震える程のプレッシャーだった。

 喫茶店の利用客は振り向きもしない。きっと、彼女が銃を取り出したって何かの撮影と思うだけで、呆気無く殺されるだろう。




「我々の進路を塞ごうとしているのは、何者だ? 邪魔をするのならば、私はこの世で最も残酷な方法で情報を引き出し、そいつをなぶり殺しにする」




 凄まじい殺気に息が詰まる。

 杜梓宸は報道に通じるフィクサーだった。情報操作によって笹森一家を追い詰める杜梓宸に、対抗出来るのは一人しかいない。しかし、そいつはもうこの国にいないし、それを悟られてはならない。


 沈黙は肯定になる。何か反論しなければ。

 そう思うのに、言葉は何も出て来ない。

 その時、航が言った。




「お前にやる情報は無い。それは俺の主義主張とは別の話だ。拷問したってお前の欲しがる情報は出て来ない。時間の無駄さ」

「そいつは、やってみないと分からないだろう?」

「やっても良いが、そんな時間や余裕がアンタにあるようには見えねぇな」




 ゲリラ部隊出身の元テロリストを相手に、一歩も引かない航の度胸はどうなっているのだろう。




「此処はジャングルの奥地じゃねぇし、戦争に作法を問う世の中だ。俺たちは許しと言うものを知っているが、同様に報復することも知っている。――宣戦布告する相手を、間違えるんじゃねぇぞ」




 航は至極冷静に言い放った。

 その瞬間、プリシラの口元が弧を描いた。




「ははははははははッ!!」




 引っ繰り返りそうな程に体を反って、プリシラは高らかに声を上げて笑った。喫茶店の利用客が振り返る。それでも、プリシラは狂気的に笑い続けた。




「面白い! 気に入った! お前――狂人ヒーローの息子だな?!」




 航は眉一つ動かさなかった。

 普段からは想像も付かない程、凪いだ湖畔のような静謐せいひつな空気を漂わせ、狂気の笑みを浮かべる女をじっと見詰めている。




「最期の瞬間、奴は泣いたか? それとも、怒ったか?! それを見られなかったことが本当に残念だ!」




 航の眉間に皺が寄る。

 苦渋とも苛立ちとも付かない険しい表情で、航は言い返した。




「俺の親父は一匙ひとさじの後悔も残さなかったよ。やるべきことをした。それだけだ。だから、俺たちもそうする」

「なるほど、ならば!」




 プリシラは勢いよく立ち上がると、拳銃を向けた。

 撃鉄の起きる音が非現実的に響き渡る。平和呆けした人々は好奇の目を向け、逃げようともしない。

 冷や汗が滲んだ。航を庇おうと思った。けれど、翔太の動作を目の端で捉えたプリシラは、動けば殺すと鋭く睨み付けた。




「此処で殺されても、文句は無いな?!」




 プリシラは本気だった。

 その指は引き金に掛かっている。航は身動みじろぎせず、プリシラを睨んでいる。




「鳩派の馬鹿共は、いつも下らない理想論ばかりを語る。お前の父親もそうだった。――戦場でしか生きられない人間の渇きを、お前等は知らない!!」




 プリシラから迸るのは、煮え立つマグマのような怒りだった。凡ゆるものを呑み込み、焦がして行くような灼熱は、一発の銃弾となって航を貫こうとしている。


 それでも、航は引き下がらなかった。

 狂気の炎に包まれたプリシラを真っ向から睨み付け、凛と背筋を伸ばしている。




「アンタにだって、分からないだろうさ」




 航の瞳の中で、怨嗟の炎が音を立てて燃え上がる。




「爆弾の破片で切り刻まれた父親の姿も、息子の背中で潰れて死んだ母親の顔も、家族の為に地獄を選んだ兄貴の気持ちも、アンタには分からない!」




 ――爆弾テロが起こったあの日、航の全ては変えられてしまった。穏やかな毎日が続くはずだった。誰もがそう信じていたし、そう願っていた。その為にヒーローは闘い続けたし、湊は独りきりで海を渡った。


 政治的理由とか、軍事的思想とか、そんなものはどうでも良いことだった。フィクサーとか、ヒーローとか、そんな肩書きだって無意味だった。彼等はただ穏やかな毎日を望んでいて、それを理不尽に奪われた。


 それが戦争だと言うのならば、航がそれを認める訳にはいかなかった。


 航は銃口の前に進み出ると、挑戦的に笑った。




「撃つなら、狙う場所はよく考えろよ。俺は追い詰められたネズミじゃねぇ。首だけになっても、お前の喉笛を食い千切る」

「それは、是非見てみたいな。鳩派の血を絶やしてやろう!」




 撃鉄が引かれる刹那、航が弾かれたように叫んだ。




「Bring it!!」




 その瞬間だった。

 一発の銃弾が窓硝子を破って、プリシラの顳顬こめかみを貫いた。赤黒い血液がぱっと散って、硝子の破片と共に雨のように降り注いだ。


 崩れ落ちるプリシラが、コマ送りに見えた。

 サファイアの瞳は航と翔太を捉えている。浅黒く焼けた腕が伸ばされる。翔太が応えようとしたのは、殆ど反射だった。けれど、それは指先を掠めただけで、零れる砂のように床に落ちて行った。


 数瞬遅れて、悲鳴が響き渡った。

 喫茶店はパニック状態に陥った。津波のように人々が出口目掛けて押し寄せる。翔太は舌打ちを漏らし、拳を握った。


 切り札を残して負けるなんざ、馬鹿のすること――。

 航はそう言った。結果、導き出された作戦は、翔太と航によるおとりだった。プリシラは罠にはまり、立花は予定通りに狙撃した。作戦は成功している。後はフィクサーを始末するだけだった。


 混乱に乗じて逃げなければならない。プリシラのせいで目立ってしまった。早く此処から脱出しないと、自分は兎も角、航はまずい。


 航は、生き絶えた女の亡骸を愕然と見下ろしていた。

 顔色が悪い。これでは、どちらが死人か分からない。


 翔太は航の腕を引いた。

 航は真っ青な顔のまま、何かを振り払うみたいに走り出した。翔太は硝子の破片に投げ出されたプリシラの遺体を一瞥し、航の後を追った。

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