⑴害虫
真っ赤な炎が空を舐める。
濛々と立ち上る煙は高速道路一帯を埋め尽くし、逃げ惑う人々の悲鳴が耳を劈く。凄まじい力で押し潰されたような車の残骸と路上を染める血液、飛び散った硝子と爆炎。
四角く切り取られた画面の向こうは、まさに地獄絵図だった。
捲し立てるような切口上でアナウンサーが叫んでいる。サイレンの音がけたたましく鳴り響き、事故現場からまた爆音が轟いた。
その場にいるかのような臨場感は、とても過去の映像とは思えなかった。ダイジェストで放送される凄惨な交通事故の一部始終を食い入るように見詰め、翔は知らず知らずの内に拳を握っていた。
「Which is better, financier or cookie?」
笛のように澄んだ綺麗な声が聞こえて、翔の意識は漸く現実に着陸した。
振り返ると、ミナが立っていた。
「ふぃなんしぇ?」
「That means sweets. ええと」
「焼き菓子」
「Yeah that's right!」
立花の言葉に、ミナは指を鳴らした。
提示された平皿には、小銭みたいなクッキーと、長方形の焼き菓子が乗せられている。
香ばしく食欲を唆られる匂いだった。
翔がフィナンシェを指差すと、自動的に立花の机にクッキーの皿が運ばれた。
不満そうな立花を鮮やかに無視して、ミナはテレビを見た。
「It was a terrible traffic accident」
「何だって?」
ミナは深刻そうな顔でテレビを見ている。
凄惨な事故のことを言っているのだろうが、翔には分からなかった。ミナは喉の調子を整えるみたいに咳払いをした。
「今年の交通事故の死者数は4,896名に上がったそうだよ」
「車が殺し屋だったなら、英雄だな」
不謹慎なことを言って、立花は煙草に火を点けた。
白い煙が糸のように天井へ伸びて行く。
テレビの映像は上空からの撮影に切り替わり、コメンテーターが小さな窓の中で頻りに頷いている。専門家らしき老人が小難しい言葉を並べて説明しているが、翔には何一つ理解出来なかった。
立花は灰皿の縁で煙草を叩くと、机に頬杖を突いた。
「脇見運転の玉突き事故らしいな。事故を起こした奴はぴんぴんしてる」
「遺族はやり切れないね」
「加害者一人が死ねばよかったのにな」
殺し屋が言うと洒落にならない。
事故が起きたのは先月の中旬、大型連休の真っ只中だった。行楽地へ向かう高速道路の中程で、一台の車が渋滞の列に突っ込んだのだ。
どれ程のスピードを出していたのか、事故車はぐちゃぐちゃに潰れてしまっていた。合計七台の車が玉突き事故を起こし、間に挟まれた車両が爆発炎上した。巻き込まれる形で周囲の車も炎に包まれ、高速道路一帯は火の海と化した。
事故の犠牲者は二十六名。
最初に突っ込んだ車両の運転手は、エアバックのお蔭で助かったという。けれど、前後から押し潰された車に乗っていた人々は逃げる間も無く炎と煙に巻かれ、骨も残らない程の高温で生きたまま焼かれたのだ。
立花の言うことも分かる。
死ぬのなら、事故を起こした加害者一人が死ぬべきだった。犠牲者の中にはミナよりも幼い子供も、妊婦もいた。命が尊いと思う程、綺麗な世界では生きて来なかった。だけど、到底納得することは出来なかった。
ミナは顎に指を添え、唸りながら言った。
「科学技術は進歩している。事故件数は確実に減少している」
「車が幾ら便利で安全になっても、使うのが人間である以上、必ず事故は起こる」
「車なんて、開発されなければよかったね」
ミナと立花が小難しい話をするので、翔は口を挟めないままテレビを眺めていた。
過去の映像は現在に切り替わり、何処かの駅前を映した。白いテントの下に大勢の人間が列を作り、旗を立てて何かを訴えている。道行く人が立ち止まり、握手をしたり、サインをしたりしていた。
立花が言った。
「加害者は過失運転致死傷罪で、実刑判決が確定している」
「過失運転致死傷罪だと七年以下の懲役、または百万円以下の罰金だ。それは犠牲に見合った量刑なのかな」
「さあな。ドライブレコーダーも焼けちまったみたいだし」
彼等の話は相変わらずよく分からない。
ミナは画面を指差した。
「遺族の署名運動だよ。過失ではなく、危険運転だったって訴えてる」
「どう違う?」
「死者を出した交通事故で、より悪質だと認められたものは危険運転になる。当然、量刑も重い」
「悪質だったのか?」
「分からない。警察の捜査では過失運転ってことになっているけど、遺族は納得してない。この署名運動の結果によっては、判決は変わるかも」
翔は曖昧に頷いた。
ミナは淀みなく日本語を話している。そのせいで、時々混ざる英語が胡散臭く聞こえる。
「裁判は遺族が勝つだろうな」
立花は煙を吐き出した。
それは希望的観測というよりも、予言めいた言葉だった。
そうなったら、いいなと思った。
死者が蘇らない以上は、罪人を罰するしかない。それが人間という生き物の限界なのだと思った。
3.地獄に咲く花
⑴害虫
ノックの音が転がったのは、翔がフィナンシェを食べ終え、ハーブティーを啜っている時だった。
席を立ったミナがぱっと駆け出す。その後姿はボールを投げられた子犬そっくりだった。威勢のいい決まり文句で歓迎する声を横に、翔は給湯室へ向かった。
「退け!」
濁った怒声が聞こえ、翔は足を止めた。
事務所の入口にはミナと、若い男が立っていた。
肌は浅黒く、髪は金色に染められている。
耳朶を貫くピアスが鋭利に光り、まさに軽薄を絵に描いたような男だった。
「What is it for?」
「はあ?」
通せんぼするみたいにミナが立ち塞がっていた。
穏やかならぬ気配を察知し、翔は間に立った。若い男はサングラスを掛けている。暗いレンズの向こうで爬虫類みたいな目が眇められるのが見える。
見上げる程の身長差でありながら、ミナは男を睨んで道を譲ろうとしなかった。
「ミナ、引っ込んでろ」
立花の鶴の一声で、ミナは渋々と道を空けた。
若い男は擦れ違い様、ミナに肩を当てようとした。翔は咄嗟にその腕を掴み、握り潰すつもりで力を込めた。
途端、男は情けない声を上げた。
掴んだ腕は筋肉に覆われているが、張りぼてだ。機能的でないと分かる。男は翔の腕を振り払い、悪態吐いた。
「お客さん?」
「Maybe」
「それなら、持て成せよ」
ミナは男を一瞥し、そのまま給湯室に消えた。
男は促されてもいないのに勝手にソファに座ると、硬いと文句を言った。
翔は給湯室の壁に凭れ掛かり、ソファで踏ん反り返る男を観察した。
高そうなシャツに悪趣味な腕時計を付けて、ぴかぴかの革靴で忙しなく床を叩いている。
まともな依頼人は、あんまり来ない。
先日、ミナが言っていた。その通りだと思った。
「アンタの顔、何処かで見たことあるなァ」
薄っぺらい笑顔を張り付けて、立花が言った。
男の眉間に皺が寄る。立花は煙草に火を点けると、テレビを指差した。
ワイドショーは高速道路の交通事故を映し出していた。
「Masayoshi Nishioka」
来客用の湯呑みを持ったミナが、棘のある口調で吐き捨てた。知らない名前だ。翔が黙っていると、立花が答えた。
「高速の事故を起こした加害者だよ」
壁に設置されたテレビから、アナウンサーの声がする。胸から上の写真が映し出される。それは、目の前にいる男だった。
そんな男が殺し屋の事務所に来たという時点で、もう嫌な予感しかしない。胸糞の悪い依頼が来ることは確定していた。
コーヒーテーブルに湯呑みを置くと、ミナは早々にパソコンの置かれた自分の席に座った。
立花は可笑しそうに喉を鳴らした。
「要件をどうぞ、西岡被告」
のっけから非友好的な態度だった。
西岡の顔が怒りによって紅潮する。激怒が迸ったかのように、西岡の拳はコーヒーテーブルを叩いた。
「俺ァ客だぞ! なんだその態度は?!」
「うちは喫茶店じゃねぇんだよ」
立花は飄々と言った。
「さっさと要件を言えや、クソ野郎」
「……!!」
「モタモタしてっと、俺が豚箱に放り込むぞ」
客を客とも思わぬ態度で、最早持て成すつもりもないらしい。苦言を呈す気は微塵も無かったが、これで良いのだろうかと翔は疑問に思った。
西岡は苦渋に顔を歪めると、深呼吸をした。怒りで強張った肩が風船のように萎んで行く。
翔は壁に凭れ、腕を組んだ。
「殺して欲しい奴がいるんだ」
立花の目が細められ、周囲の温度が僅かに下がったように感じられた。
喫茶店と勘違いして来た客ではないらしい。
立花は旨そうに煙草を食むと、その先を促した。
「俺は交通事故を起こした。反省してるよ。――でもな」
西岡はぐっと両目に力を入れて、テレビを睨んだ。
「警察は過失致死だって言ってんのに、それを邪魔しようとしてる奴等がいる。そいつ等がマスコミを焚き付けるせいで、俺は生活も儘ならねぇ」
テレビは再び、遺族の署名運動を映している。
西岡を糾弾しようと声を上げる遺族、その先頭に立っているのは如何にも平凡で真面目そうな男だった。
「クソ遺族の先頭に立ってんのは、あいつだ。あいつを殺してくれ」
余りに酷い言い分だった。
思わず腕に力が籠る。此処まで自分勝手なクソ野郎は見たことが無かった。
立花は煙を吐き出すと、静かに尋ねた。
「金は払えるのか?」
「幾らだ」
「相手にもよるが、今回の場合は着手金が五百万、成功報酬で五百万、諸々の経費込みで二千万かな」
それは高いのか、安いのか。
と言うか、諸々の経費って何だよ。
幾つか引っ掛かるところはあるが、追及は出来なかった。相場がどのくらいなのか分からないけれど、立花が大金をふっかけていることは分かった。
断ればいい。
こんなクソみたいな依頼、誰の為にもならねぇ。
しかし、西岡は笑った。
「良いぜ。即金で払ってやらァ」
西岡は黒い鞄を引き寄せ、立花の机の上に叩き付けた。反動で吸い殻の山が崩れる。西岡は鞄のジッパーを開け、したり顔で引っ繰り返した。
零れ落ちたのは、札束だった。
一束で幾らなのか知らないが、報酬の金額を上回っていることは想像に難くない。
翔が呆気に取られていると、立花はミナを呼び付けた。ミナはいつもの天使の笑顔で、札束を数え始める。西岡はソファに戻ると威張り腐って、足を組んだ。
「数え間違えんなよ、クソガキよォ」
「You’re no match for my brains」
「はあ?」
ミナが何を言ったのか分からないが、立花が噴き出したので、悪口を言ったのだろう。
札束を数えながら、ミナが言った。
「貴方に罪の意識はないんですか?」
辿々《たどたど》しい日本語だった。
ミナは一つ目の札束を数え終えると、路傍の石ころを扱うみたいに机の上に放り投げた。
「あいつ等は運が悪かったんだ。俺のせいじゃねえ」
「Kiss my ass」
ミナが吐き捨てた。
意味が伝わらないまでも、西岡は苛立ったように腰を浮かせた。しかし、そのまま殴り掛からなかったのは、立花が冷たく見詰めていたからだろう。
ミナは素知らぬ顔で、あっという間に数え終えた。
「合計、二千四百万円」
「いいだろう」
立花は笑った。
「依頼は受けてやる」
翔は奥歯を噛み締めた。
適正な報酬が支払われるのならば、依頼は受ける。仕事を選ぶのはプロじゃない。立花が以前、言っていたことだ。
西岡は満足そうに笑うと、席を立った。
「あいつが死ぬところを特等席で見てぇな」
立花は鼻で笑った。
「あんまり調子に乗ってると、テメェから殺すぞ」
表情は笑っているのに、その目だけが凍り付いている。西岡は肩を竦めて笑うと、逃げ出すようにして事務所を出て行った。