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⑷力なき者

 笹森一家への風評被害が止まない。

 世論は極道という必要悪に狙いを定め、袋叩きにすることを決めたらしい。


 警察の捜査では、犯罪の証拠となるものは出て来ていない。

 銃器は勿論、薬物や違法に儲けた金も無い。それが返って不自然であることは、愚かな大衆の好奇心を煽った。


 人の噂も七十五日と言うけれど、笹森一家への風当たりは厳しく、執拗だった。それだけ世間がヤクザというものを恐れているのだろうし、社会というものが多数決で成り立っていることが分かる。


 杜梓宸(ト ズーチェン)と言う中国マフィアの重鎮が、報道界に通じていると言うのも不穏な点であった。目に見えない所で害虫がうごめき、卵を産み付けているかのような気分の悪さに、翔太はパソコンと睨み合う日々を送った。


 わたるは大丈夫だろうか。


 大阪笹森一家の本家には、湊の双子の弟が身を寄せている。世間からバッシングを受ける笹森一家を見る度に、自分がむちで打たれているみたいだった。


 笹森一家への執拗なバッシングは、報道界に通じているというフィクサーの誘導なのではないだろうか。航の居場所を知っている杜梓宸が、湊の弱味に漬け込む為に世間を煽っているのではないか。


 しかも、笹森一家は湊を通じて、青龍会の若頭とも交流がある。笹森一家を潰したいと思う者は多いだろう。警察は未だに張り付いているし、このままでは証拠の捏造も時間の問題だ。人は見たいように見て、信じたいように信じる。


 プリシラと遭遇してから三日、互いに次の一手を探り合うような緊張感に包まれた膠着こうちゃく状態が続いている。杜梓宸も暗殺者がいることに気付いただろうし、それがハヤブサであることも悟ったかも知れない。


 立花は外出が増えた。翔太が情報を掴めない為、自分で探し求めなければならなくなったのだ。事務所は相変わらず荒れ果てて、三度の食事も無い。当然、ハーブティーを飲んで焼き菓子を食べるなんて呑気な時間も無い。


 殺し屋という職業が危険な職種であることは分かっていたが、これ程に貧乏とは思わなかった。ターゲットの情報を得る為にも、銃弾を買う為にも金が掛かる。


 お金はいくらあっても損じゃない。それが全てではないけど、お金で解決出来ることは沢山ある。

 翔太は、いつか湊に言われたことを思い出していた。

 FXで大金を稼いだり、人脈を築いたり、情報を管理していた湊が本当に凄い人間であったことを改めて痛感する。翔太にはどれ一つ満足にこなせていない。


 回転椅子の背凭れに思い切り体を預け、翔太は背伸びをした。目が回ると思ったら、眼精疲労ではなく空腹だった。買い物に出掛ける余裕も無かったので、事務所に食料の類は無い。米櫃こめびつも底を突いている。


 水でも飲むかと椅子を立った時、外から聞き覚えのあるエンジンの音がした。そんな馬鹿なことがあるはず無いと思いながら、翔太は高鳴る鼓動を抑え切れず、窓の向こうを覗いた。


 エンジンの音は近付いている。

 閑静な住宅街に、乾いたバイクの咆吼が響き渡る。人気ひとけの無いアスファルトの道を一台のバイクが走って来るのが見える。


 昼下がりの太陽を反射し、シルバーのアメリカンバイクは悠々と街を駆け抜ける。黒いフルフェイスのヘルメット、気怠そうな猫背、黒いMA-1を羽織ったその姿は、自由気ままなアメリカの根無草ねなしぐさのようだった。


 バイクは事務所の前に路上停車した。

 翔太が慌てて事務所を飛び出し、階段を駆け下り、表に出た時、彼はヘルメットを脱いだ所だった。――相変わらず、映画俳優みたいな美青年である。




「……よォ、翔太」




 澄んだ青年の声は、翔太の耳に心地良く馴染んだ。

 気の強そうなアーモンドアイが、猫のように眇められる。白い歯を見せて不敵に笑うその顔は、兄にそっくりだった。


 蜂谷航はちや わたる

 ヒーローの息子で、湊の双子の弟。

 ずっと見ていても飽きないような美しい顔をした青年は、ヘルメットを脇に抱えると左手を差し出した。


 固く握手を交わすと、胸を突き上げるような感動が訪れた。翔太は緩みそうになる涙腺を叱咤し、五体満足の航の肩を抱いた。


 無事で良かった。だけど、その言葉は口にしなかった。

 彼が無事であるのは湊の尽力であるし、航の覚悟を侮辱する。航は邪気の無い顔で笑った。




「今日はどうしたんだ?」




 航を連れて階段を登りながら、翔太は背中に問い掛けた。

 見下ろす程に背が低かった湊とは違い、航は平均身長は超えている。背丈は翔太と同じくらいだが、足の長さが違う。


 十頭身くらいあるんじゃないか。

 翔太がそんなことを考えていたら、航が答えた。




「大阪はうるせェから、避難して来たんだよ」




 避難という言葉選びが、負けず嫌いな航らしくておかしかった。


 確かに渦中の笹森一家に滞在するのは得策ではない。湊は存分に捜査してもらえなんて言っていたけど、大阪は想像する以上に物騒な状態になってしまっている。


 関西を取り仕切る笹森一家が警察にマークされていることで、抑制されて来た悪党共が息を吹き返し、好き勝手し始めたのだ。


 そんな中で、両親を亡くして頼る宛の無い彼が自分たちの元にやって来たのは当然であるし、翔太は嬉しかった。だから、事務所の荒れ果てた状態も空腹も忘れ、勢いよく扉を開けて後悔した。




「臭ェ」




 航は肘で口元を覆って、事務所の中に入ろうとしなかった。

 散らかった事務所内を見遣って、まるで悍しいものを見たみたいに両眼を見開いて、後退ったくらいだった。




「人間の住む所じゃない」

「それは言い過ぎだろ……」

「俺は他人の生活感がある所は駄目なんだ」




 そんな男前な顔付きをしていながら、潔癖なのかよ。

 湊は逞しかったけどな、と思いつつ、翔太も無理強いはしなかった。近場の喫茶店でも連れて行こうかと扉を閉めるが、金が無いことに気付く。そのタイミングで腹の虫が鳴いたので、航は憐むような目を向けて来た。




「……奢ってやるよ」

「日本円持ってんの?」

「貯金を両替してある。小遣いとかお年玉とか」




 お年玉という言葉を随分と久しぶりに聞いた。

 航に小遣いをやりたい気持ちは分かる。航という青年は、どうしてか可愛く思えるのだ。湊が初めてのFXで大金を稼いで、個人投資家になるような規格外の子供だったからだろうか。


 表に停めていたアメリカンバイクを車庫の隙間へ無理矢理に捻じ込んで、航はバッグパックを担いだ。キャンプにでも行きそうな大荷物である。


 代わりに持ってやろうかとも思ったが、航のプライドを傷付けることは分かっていたので黙っていた。この人一倍高いプライドが、放って置けないのだ。


 駅の方向に歩き出すと、丁度、隣のビルからつむぎが出て来た。先日の事件で法的に親元を離れられることになってから、幸村法律事務所で事務員見習いとして働き始めたのだ。


 憎まれ口の一つでも叩いて来るかと思ったら、紬は航をぼうっと見ていた。魂でも吸い取られているみたいだ。


 紬が見惚みほれるくらいの美青年であることは、翔太も重々承知である。その上、バスケットボールで活躍するくらい背も高くて、アメリカでは飛び級するくらい頭も良くて、殺し屋と渡り合えるくらい喧嘩も強いのだ。天は二物を与えずと言うが、湊と航に限っては、依怙贔屓えこひいきしたのだろう。


 翔太が声を掛けても返事をしなかったので、放って置いた。航のことを説明するのは面倒だった。













 16.繋いだ手

 ⑷力なき者














 鉄板料理が好きだと聞いたことがあったので、翔太はチェーン店のお好み焼き屋に航を連れて行った。暖簾のれんの前でその話をしたら、航は眉をひそめた。




「別に好きじゃない」




 強がりではなく、本当にそう思っているみたいだった。

 湊が勘違いしていたのだろうか。しかし、幼少期から一緒に過ごして来たはずなのに、双子の弟の好物を間違えるなんてことがあるのだろうか。




「俺が好きなんじゃなくて、湊が鉄板料理作るの好きなんだよ。お好み焼きとか、もんじゃ焼きとか」




 湊がよくお好み焼きを作っていたのは、弟を懐かしんでいたのではなく、自分が作りたいだけだったのか。どちらも本当のように思うが、湊はしょっちゅうホットプレートを稼働させていた。


 そういえば、あれは何処にしまったんだろう。




「あいつの料理っていつも適当だろ」

「ああ。筑前煮が一番酷かったな」




 不味まずくはなかったけどな。

 翔太が付け足すと、航は声を上げて朗らかに笑った。道行く人が振り返り、航の顔を見てうっとりとするのが小気味良かった。


 結局、二人でお好み焼き屋に入り、航の金で昼食を取った。

 航は料理が趣味だと言って、店員顔負けのふわふわなお好み焼きを作り上げた。

 料理が趣味ならば、立花とも気が合いそうだ。

 翔太が呑気に考えていたら、航が言った。




「親父は殆ど家にいなかったから、二人でお袋の手伝いしてたんだ。料理と掃除と買い物は俺の担当で、それ以外は湊」




 料理と掃除と買い物以外の家事って何だろうな。

 洗濯とゴミ捨てくらいだろうか。




「湊って、何でも美味そうに食うだろ。好き嫌いも無いし、残さないしな。作り甲斐がある」

「どっちが兄貴か分かんねぇな」




 翔太が言うと、航は笑った。

 よく言われる、と。




「湊とは連絡取ってんの?」




 膨れた腹を撫で、翔太は尋ねた。

 冷えた水を一気に飲み干す。食後の水はどうしてこんなに美味いんだろう。体に染み渡るようだった。

 航は会計の為に財布の中から小銭を出して数えていた。




「毎日決まった時間に連絡取ってるよ。定時報告が無くなったら、死んだと思うことにしてる」




 五円玉の穴を覗き、航は平然と言った。

 冗談の類ではない。彼等は、そういう世界で生きているのだ。航は席で店員に料金を支払うと、窓の向こうを見遣った。




「……親父とお袋が死んだ時」




 航の濃褐色の瞳は、やけに透き通って見えた。




「俺は、何も出来なかった。……湊が彼方此方あちこち走り回って、手ェ汚して、危ない橋を渡ってる時も」

「それは……」




 仕方無かったとは、言えなかった。そんな風に論じてしまうと、航の辛苦も、湊の覚悟も、彼等の両親の死さえも割り切ってしまっているみたいだったからだ。




「今だって、俺は何も出来てない」




 生きているだけで、湊にとっては救いだろう。

 翔太はそう思った。今の航の立場は危うい。湊のように行動を起こせる状態に無い。航は充分よくやっていると思うが、それでは納得しないだろう。


 何も出来ないというのが、一番、こたえる。

 慰めや励ましというものは、案外、人を救わないものだ。




「もしも、俺に出来ることがあったら言ってくれ。アンタたちは湊を助けてくれたからな」




 俺を、ではない所が航らしかった。


 何かあるだろうか。目下の課題は金銭確保なのだけど、今の航にはそれも期待出来ない。この国に来て日が浅いし、表立って動けない。いつかの自分を見ているようだ。




「……場所を変えようぜ」




 翔太は席を立った。

 航を巻き込んだら湊が怒りそうだが、どうせ彼も動けない。一人で迷うよりは一緒に悩んだ方がマシだろう。


 航は頷いて、バッグパックを背負った。

 行く宛も無いので、翔太は事務所に戻って来た。建物を見上げるとブラインドカーテンの隙間から光が零れていた。どうやら立花も戻って来たらしい。


 車庫には立花の愛車が押し込まれている。プリシラと交戦した時に運転席のドアが破壊されてしまったせいで、また工場送りになるのだろう。外車は修理が面倒である。


 航は事務所の荒れ果てた惨状に抵抗があるようだったが、もう文句は言わなかった。




「湊が連れて行った奴、何者なの?」




 階段を登る前、航が思い出したように言った。

 翔太は立ち止まり、首を捻った。




「この国で初めて出来た友達だって聞いてるけど」

「なんで、アンタじゃなかったの?」




 そんなことを訊かれても困る。

 単純にノワールの方が付き合いが長くて、腕が立つからだろう。航もノワールのことは聞いているらしいが、第一印象が悪かったせいか懐疑的である。




「翔太は何者なんだ?」




 航が知っているのは、記憶を取り戻す前の翔太である。

 家族を亡くし、記憶を失くした復讐者。それが、航の知り得る翔太という男なのだ。その情報の隔絶は、湊の誠実さであるし、航を巻き込みたくないという意思表示にも感じられた。


 翔太が答えずにいると、航は言った。




「言いたくないなら、訊かねぇ。すねに傷の無い奴なんて、いないからな」




 翔太には、航の不器用な優しさが愛しかった。危うい立場にある彼が敵と味方を見極めようとするのは当然のことだが、それを差し置いても相手の気持ちに寄り添おうとする誠実さが、本当に嬉しかった。


 その誠実さに向き合いたいと思う。けれど、誰が聞いているかも分からない此処では流石に話せない。




「湊は恩人だ。恩返しになるなら、何でもするさ」




 翔太が振り返ると、航は昏く笑った。




「俺には他人の嘘は分からない。だから……、アンタが敵にならないことを祈っておくよ」




 嘘でも信じると言えない所が航の長所であり、脆さだった。敵か味方かでしか関係性を語れないのは、寂しい。


 航が疑う余地も無いくらいに、安心出来る居場所になれたら良いのにな。帰る家を失くした自分を、立花や湊が「おかえり」と迎えてくれたみたいに、彼が心を許せる安全地帯になれたら。


 俺が湊みたいに、何でも出来たら良かったのにな。

 立花みたいに強かったら、今も家族は生きていたのかな。

 そんなことを思う度に、虚しくなる。過去に戻る術は無いのだ。湊は戻らないし、俺の家族は生き返らないし、立花の過去は救えない。それでも、救われないまま俺たちは生きて行く。生きて行くしか、無かった。

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