⑵愚かな獣
湊が事務所を去って二週間。
太陽は日増しに厳しく降り注ぎ、とうとう夏がやって来た。街は茹だるような熱波に襲われ、アスファルトからは陽炎が昇る。テレビは熱中症による死傷者を報道し、その陰で警察官僚や裏社会の話題が上がるようになっていた。
大阪極道の重鎮、笹森一家が警察にガサ入れされてから、翔太はまるで火に炙られているような心地だった。
ワイドショーに笹森が映る度、食い入るようにテレビを見詰めた。其処に航の姿が現れるのではないかと思うと、いつも尻の座りが悪かった。また、米国で起きた爆弾テロがテレビで話題に上がると、翔太は祈るような気持ちで両手を握った。
笹森一家の不正の証拠は出ていないし、テロの主犯は捕まっていない。状況は悪化もしていなければ、好転もしない。治安は確実に悪化しているのにテレビは真実を語らず、情報は滞る。そして、湊という情報の窓口を失くした自分達は、真綿で首を締めるように、じわじわと嬲り殺しにされているような状況にあった。
一つの依頼を達成するにも、手間取ることが増えた。
先日、ちゃちな詐欺師の暗殺依頼があったが、散々だった。依頼人の尊大な態度に立花は苛立って恫喝的で話が進まないし、翔太が情報収集を行うとターゲットに警戒され、立花が乗り込んだ時にはアジトはもぬけの殻だったのだ。
結局、詐欺師を暗殺するまでに倍以上もの時間と手間が掛かった上に、情報屋の品川には足元を見られて大金を払わざるを得ず、報酬金は殆ど手元に残らなかった。
呑気に事務所の掃除をしたり、料理を楽しんだり、他人の厄介事に首を突っ込んだりしていた頃の自分は楽観的で、無責任だったのだ。
翔太も立花も疲れ切っていたけれど、生きて行く為には働かなければならない。癒しを求めて湊に連絡したこともあったが、向こうも忙しいらしく、繋がらないことも多かった。
湊は界隈のコネクションや依頼受注の窓口も残して行ってくれたけれど、翔太にはまだ使いこなせていないし、そんな日が来ることも想像出来なかった。翔太が事務員としての仕事をこなせない為に立花が出張ることが増え、比例して喫煙も増える。翔太も掃除や換気に手が回らず、事務所の中はいつもヤニ臭く、散らかっていた。
七月も半ばを過ぎた頃、立花が或る依頼を持って来た。
互いに仕事に忙殺され、心身共に余裕が無かった。だから、立花が相談という形で話をしていることにも気付かず、翔太は言われるままターゲットの情報収集に乗り出した。
ターゲットは、高層ビルの最上階に住むような資産家だった。何の仕事をしているのか知らないが、普通の人間には縁が無いだろう種類の人間だと思った。建物の入口には警備員が立ち、フロントには商業ビルのような受付嬢がいた。
翔太は自分の身形を見て、この場所に立ち入るのは場違いだと感じた。建物に近付けば警備員に止められるだろうし、突破しても受付嬢は先を許さないだろう。
建物の入口を見張れる場所を探し、翔太はチェーンの喫茶店に居座った。一杯のアイスコーヒーで二時間程も粘った頃、唐突に携帯電話に着信が入った。
その名前を見た時、地獄に仏が現れたかのような安心感に包まれ、翔太は縋るように着信に応じていた。
「湊?」
ディスプレイに表示されていたのは、湊だった。
翔太が呼び掛けると、スピーカーの向こうで返事があった。
『ミナじゃねぇよ』
耳に馴染む静かなテナーの声。
翔太は驚いた。
「ノワール?」
電話の向こうにいたのは、ノワールだった。
表示されていた番号は湊の携帯電話のはずだった。
『ミナは今、手が離せねぇ。だから、代わりに俺で我慢しろ』
「……いや、別に良いんだけどさ。何で?」
『お前が電話掛けて来たんだろうが』
そう言われて思い出す。
湊の携帯に電話を掛けたのだ。留守電だったのでそのまま切ってしまったが、折り返してくれたらしい。しかし、湊は手が離せない程忙しいそうなので、用件もなく連絡したことが申し訳無かった。
「急ぎの用じゃないんだ。悪かった」
『なんだよ。じゃあ、切るからな』
ノワールがそのまま切ってしまいそうだったので、翔太は慌てた。
「湊は元気か?」
『当たり前だろ。俺がいるのに、そう簡単に死なせるかよ』
鳩尾を殴られたみたいな衝撃だった。
翔太が気軽に連絡をして、湊が律儀に折り返してくれるものだからすっかり失念していた。湊は目的とか多忙とかそれ以前に、明確に命を狙われている人間なのだ。だから、わざわざノワールを連れて行った。
自分の行動が如何に浅はかなものだったか痛感し、翔太は今すぐ謝りたかった。けれど、生憎、湊は電話に出られない。
『電話するなとは言わねぇけど、こっちの状況も考えろよな。そっちから電話が来る度に、弟に何かあったのかと思うだろ』
そりゃそうだ。
当たり前だった。多忙の合間を縫って折り返しの電話をして来るのは、弟のことが心配だからだ。そんな簡単なことにも思い至らず、本当に悪いことをしてしまった。
『俺たちはこっちに来てから、この電波のせいで、もう三回襲撃されてんだぞ』
「……マジかよ……」
『冗談でこんなこと言うかよ。こっちは常に警戒態勢だ。それだけは分かっていてくれ』
受け入れるより、他は無かった。
短い挨拶を告げ、通話は切れた。背中に重石でも乗せているみたいに体が重かった。翔太は携帯電話をポケットに押し込み、薄くなったアイスコーヒーを啜った。
16.繋いだ手
⑵愚かな獣
日が傾き掛けた頃、豪奢なビルから一人の男が現れた。
グレーの長髪を後ろで緩く纏めた、喫茶店で読書でもしていそうな優男だった。側には黒髪の女性が立っており、IT社長と有能な秘書といった風態だった。
翔太は、ストローを噛みながら眺めていた。
ビルの前に黒塗りの車が滑り込む。堅気の人間でないことは明白だった。警備員が二人。運転手。護衛はいない。何処となく異国の雰囲気が漂う。
これ、まずい案件なんじゃないか?
遠目に眺めながら、翔太は嫌な予感を覚えた。優男が黒塗りの車に乗り込む。――刹那、女性の青い瞳が翔太を射抜いた。
距離にして五十メートル、硝子越し。体に電流が走る。
黒塗りの車が発進すると共に、翔太は勢いよく席を立った。転げる勢いで喫茶店を飛び出し、本能に従って街を駆け出す。夕暮れに染まる都心のオフィス街は人で溢れている。
人混みに溶け込みながら、翔太は駅に向かって急いだ。
あの時、女性と目が合った。あの眼差しを知ってる。臓腑が凍るような感覚。あれは、人殺しを生業とする者特有の殺気である。
駅が見えて来た。
翔太が歩調を早めたその時、路地裏からにゅっと腕が伸びて来た。それは翔太の胸倉を掴み、凄まじい力で闇の中へ引き摺り込む。
視界がぐるりと一回転した。翔太は湿ったコンクリートの壁に衝突していた。
薄暗い路地裏で、宝石のような青い瞳が煌々と輝いている。
「คุณคือใคร?」
絶対零度の殺気を込めて、その女は銃の引き金に指を掛けていた。腰より長い黒髪は緩やかに波を打ち、褐色の肌の下は強靭な筋肉が搭載されている。
日本語じゃない。英語でもなければ、中国語でもない。
翔太が息を詰まらせていると、女は小首を傾げて言語を切り替えた。
「お前は何者だ?」
片言の日本語だった。
翔太は軽く咳き込んだ。
「……ただの一般人だよ!」
答えると同時に銃口を蹴り上げる。反動で銃弾が発射され、コンクリートの壁を抉る。起き上がった勢いで銃を蹴り飛ばすと、女が腰から鈍色の長刀を二本引き抜くのが見えた。
電光石火の如く女の長刀が振り下ろされる。翔太も腰からナイフを引き抜いた。受け止めた瞬間、鈍器で殴られたかのような重みに手が痺れる。同時にもう一本の長刀が襲い掛かる。翔太は紙一重でそれを躱すと、女から距離を取った。
表通りは何事も無かったかのように穏やかな喧騒に包まれていた。死際の太陽が真っ赤な残光と共に消えて行く。
逃げられるか。否、逃がして良いのか。
ターゲットはこの女の関係者。いずれ対峙する時が来る。此処で仕留められるか。湊はもういない。起死回生の一手はもうこの国に存在しないのだ。
畳み掛けるような女の連撃は、斬撃と呼ぶよりも殴打に似ていた。翔太の手にあるのは一本の黒いサバイバルナイフだった。嵐のような攻撃を凌ぎながら、翔太は路地裏からの脱出を試みた。
コンマ数秒の遅れは致命的だった。顎下から振り上げられた長刀にナイフが弾かれる。右から横薙ぎに長刀が振り抜かれ、翔太は咄嗟に右腕を持ち上げた。
同時に、膾切りにされる鮮明な死のイメージが脳内を支配する。翔太は後方に倒れ込み、両手を突いた。腹の上を掠めて行った長刀を蹴り上げると、すぐ様、もう一本が襲って来る。
実力差は明白だった。翔太はアスファルトに落ちたナイフを掴み、距離を保ちながら手を上げた。
「アンタと此処で殺し合うつもりは無ェよ。俺はただ見ていただけさ。大体、こんなことに何の意味がある?」
絶対的強者に立ち向かう時、保身を考えたら待っているのは死だ。弱味も隙も見せてはならない。
翔太が問えば、女は薄く笑った。
「人は必ずしも合理的判断をする訳じゃないのさ。この国じゃ、石橋も叩いて渡るものだろう?」
「叩き過ぎてぶっ壊して、泳いで渡る羽目になった馬鹿を俺は知ってるぜ」
それでも襲って来ると言うのなら、それで構わない。平和的解決なんてものは、翔太の世界にはもう存在していなかった。
だが、女は笑った。
真っ赤な唇の隙間から白い歯が見える。
笑い声の最中、遠くでサイレンが聞こえていた。銃声を聞き付けたとは思えない。表通りは相変わらず、水槽の向こうのような平穏な夜が広がっている。
女は長刀を腰に戻すと、足元に落ちた銃を拾った。翔太はその一挙手一投足を具に観察した。凄腕の殺し屋というものが、予備動作無く相手を殺害することを知っている。
この女は、立花やペリドットとは違う。どちらかと言うと、戦闘スタイルはノワールに似ている。その強さは、純粋な身体能力ではなく、何百何千と体に叩き込んで来た技なのだ。殺し屋と呼ぶよりも、戦士に近い。
女は衣服を整えると、銃をコート下のフォルダーに戻した。
「好奇心は猫を殺すと言う。お前が愚かな獣でないことを神に祈ろう」
翔太は動かなかった。否、動けなかった。
女が闇の向こうに消えて行くのを、黙って見送ることしか出来ない。その姿が消えてから、翔太はゆっくりと深呼吸をした。両手が汗で湿っていた。