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⑴再起の朝

 東の空は白くかすみ掛かる。


 身の回りの持ち物をリュックサックに詰め込んだら、思うよりも少なくて驚いた。この国に来て凡そ一年。リュックに入れて持って行けるようなものは殆ど無かった。


 ベッドに突っ伏すようにして、翔太が眠っている。

 湊は少し考えて、ブランケットを肩に掛けてやった。翔太は身動みじろぎしたが目を覚まさず、健やかに寝息を立てている。


 立花はいなかった。

 今頃、何処かで仕事をしているのかも知れない。湊は彼の仕事の窓口を務めて来たが、両親が死んで以来、立花が何処で何をしているのか全く把握していなかった。


 なるべく物音を立てずに部屋を出る。

 別れ際の挨拶というものが、湊にはとても億劫だった。どうしても最後に見た両親の顔が過り、無力感と不甲斐無さに立ち止まり、叫び出したくなる。


 行って来ますと言ったら、ただいまを言わなければならない。いってらっしゃいと送り出せば、おかえりと迎えなければならない。出来ない約束はしたくない。希望的観測は、湊が忌み嫌うものの一つだった。


 階段を降りると、外はまだ薄暗かった。

 夜明け前の空を見上げていたら、何かが胸を突き上げるような心地がして、湊は唇を噛み締めた。




「別れの挨拶も無しかよ」




 不機嫌そうな低い声がして、湊は振り返った。

 階段横の壁に寄り掛かりながら、立花は腕を組んでいた。


 待っていてくれたのだろうか。

 そう思うと何だかおかしくて、湊は立花の律儀さに笑ってしまった。




「顔を見たら、別れが辛くなるだろ?」

「お前がそんなタマかよ」




 立花は口角を吊り上げて、皮肉っぽく言った。

 両親の死が実感を持ち始め、心を締め付ける。高熱にうなされながら、両親の死の瞬間や弟の衝撃を、何度も何度も夢に見るのだ。

 ただいまと言えなかったし、おかえりと聞けなかった。別れの挨拶に込められた小さな約束は、もう二度と果たされることは無い。


 立花はそっと溜息を吐くと、冷ややかに此方を見た。




「一人で行くのか?」

「いや」




 湊は首を振った。

 幼い頃から自立心が強くて、早く大人になりたかった。何でも一人で成し遂げたいと思っていたし、そういう自分が一番だった。だけど、今の湊は、人を頼ることを学んでいた。助け合うことも、信頼することも。


 夜明け前の街にバイクのエンジンが咆哮する。ヘッドライトの眩い光と共に、黄緑色のカウルに覆われた中型バイクが走って来る。


 それは湊と立花の前に停車した。からすのように真っ黒なフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、一人の青年が顔を出す。エメラルドの瞳が煌々と光る。ノワールは、湊と立花を順に眺めると、最後に舌打ちをした。




「なぁ、ハヤブサ。俺はずっと不思議だったんだけどよ」




 ノワールは侮蔑するような冷たい目をしていた。




「お前は、()()()()()()()()()()()()()?」




 湊なら訊かない、訊けないようなことを言って、ノワールはタンクにヘルメットを置いた。眦を釣り上げたその表情には、微かな怒りがあった。




「こいつがこれから歩く道は地獄だぞ。背中を押したのは、お前だ。……お前にとって、こいつは何だったの? 厄介なお荷物か? 利用価値のある人質か? それとも、金の卵を産むにわとりか?」




 立花は静かだった。

 答えには期待していなかったし、求めてもいなかった。立花と言う男は元々、口上手な性質たちじゃない。そんな彼が捻り出した上っ面の答えなんて湊は聞きたくなかった。




「蓮治に選ばされたんじゃない。俺が決めたんだ」




 それに。

 湊はそう言い置いてから、ノワールを見た。




「関係性に名前を付けるのは苦手だ。ノワールも、そうだろう?」




 其処でノワールが少しだけ笑った。

 立花は相変わらずの鉄面皮だったけれど、苛立ちも嘆きも無い凪いだ瞳をしていた。


 湊は後部座席からヘルメットを掴むと、頭を押し込んだ。新品のフルフェイスのヘルメットは、被ると頬が圧迫される。息苦しさを解消しようとシールドを上げると、立花が此方を見ていた。




「俺はね、蓮治の地獄に花を咲かせてやろうと思ってたんだよ。――死に場所っていう、花をね」




 生憎あいにく、自分は父のような狂人でも、ヒーローでもなかったので。明るい所まで手を引いて、救ってやろうだなんて考えもしなかった。立花は守られる程、弱くも脆くもない。




「……悪魔みてぇな奴だな」




 立花が苦々しく零すので、湊は笑った。

 自分は聖人君子ではないし、施しの英雄でもない。何でも救えるとは思わないし、そんな義理も無い。自分の行動理念はいつだって自分の為だ。


 何もかもを諦めて、己の意思も放棄して、金の為に他人に使われる立花が、最期の瞬間に、――後悔したら良いと思った。

 遺される者を思い、明るい未来を夢想し、後悔と絶望の中で死ねば良い。その方が人間らしいと、思うから。




「貴方が望むのなら、俺が何度でも死なせてあげる。だから、その時まで生きていて」




 湊が言うと、立花は深く溜息を吐いた。そして、顔を上げた時にはまるで、憑物が落ちたかのような清々しい顔付きをしていた。




「お前は間違い無く狂人(ヒーロー)の息子だよ。こんな厄介な奴は、()()とでも思わなきゃ付き合っていられねぇ」




 立花は悪童のように笑うと、ノワールを見た。




「生き急ぐなよ、クソガキ共。死んで解決することなんざ何も無ぇ」




 ノワールは鼻で笑って、ヘルメットを被った。


 分かってる。

 両親を殺した人間は今も生きているし、戦争の火種は消えていないし、ブラックの緩和剤も出来ていない。障害や問題と言うものは常に存在し、いたちごっこのように現れる。それでも、一歩ずつ進んで行くしかないのだ。


 エンジンが唸る。バイクの後部座席に乗っていると、弟を思い出す。湊はヘルメットのシールドを下ろした。




「蓮治もね。……どうか、健やかに」




 弟のこと、翔太のこと。伝えたいことも、話したいことも沢山あった。だけど、別れの言葉は出て来なかった。


 バイクはゆっくりと動き出す。たった一年過ごしただけの異国の街が、懐かしく、眩しく見えた。


 今生の別れでもあるまいし。

 湊は自嘲した。


 別れ際は、笑顔と決めている。

 見送ってくれる立花を振り返らず、湊は手を振った。














 16.繋いだ手

 ⑴再起の朝















 死に場所と言われて、背筋が凍った。

 自分の心の柔らかい所を覗かれて、ナイフで抉られたような心地だった。


 いつからそう思っていたのだろう。まさか、最初から?

 あの子供には、自分がどのように見えていたのだろう。一体、何処まで見えていたのか。


 天使なんてとんでもないし、悪魔なんて表現では生温い。

 自分達は、あの子供を履き違えていた。


 あれは、《《死神》》である。

 死神が薄汚い格好で路地裏に潜んでいるとは限らない。それが天使のような顔をした子供である可能性に思い至らなかったのは、ひとえに、立花が湊をそう信じたかったからだった。


 トランプにおける死神とはジョーカーのことであり、同時に切り札の意味を持つ。盤上ばんじょうをぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、予定調和的に帳尻を合わせる。切り札が欲しいと散々言っておきながら、あの子はまさに死神そのものだった。


 翔太が階段を転げ落ちるようにしてやって来たのは、既に二人の乗ったバイクが見えなくなってからだった。寝癖頭の翔太は、何故か携帯電話を握り締めていた。


 立花は懐から煙草を取り出して咥えた。




「湊は?!」




 だから、ちゃんと別れを済ませろと言ったのに。

 立花はライターを探しながら、溜息を吐いた。




「もう行ったよ」

「……そうか」




 翔太は肩を落とすと、その場にしゃがみ込んだ。此方を質問攻めにしない所を見る限り、必要最低限の説明はして行ったのだろう。


 ライターは結局見付からなかったので、立花は煙草を戻した。腹立たしく、立ち行かない世の中だ。




「お前、どうする?」

「どうするって?」




 察しが悪くて、苛々する。

 湊なら過不足無く返答出来るのにな、と思うと不思議な感覚だった。厄介払いが出来たはずなのに、まるで今もあの少年にとらわれているみたいだった。




「ご主人様はもういねぇ。此処に留まる理由は、無いだろう?」




 立花が言うと、翔太はまるで傷付いたとばかりに目を伏せた。そういうのは、好きではない。少なくとも、立花が生きて来たのは、弱味や隙が死に直結する世界だった。




「此処にいたら駄目か?」




 翔太が捨て犬みたいに見上げて言うので、立花は面倒になった。湊のせいだ。拾ったなら最後まで面倒を見ろ。

 もう此処にいない少年に、文句を言ってやりたい。




「俺にメリットが無いんだよ」




 湊がいない以上、翔太と言う不安要素を飼う理由が無い。仕事で役に立つ訳でもないし、報酬も無い。




「行き場が無いなら、大阪の笹森一家にでも行け。快く受け入れてくれるだろうさ」




 いや、笹森一家は余裕も無いか。

 警察にマークされている上に、わたるというお荷物を抱え込んでいる。SLCのこともあるし、野放しにして公安の餌になるのも面白くない。そういえば、自分は湊にコンタクトを取る手段も無かった。


 何処までも、あいつの手の平の上だ。

 愛車が工場送りになっていなければ、今すぐに追い掛けて、朗らかに笑うあの子供を殴ってやりたいくらいだった。


 屁理屈の一つも返せないで背中を丸めるばかりの翔太を見ていると、自分が虐めているみたいで気分が悪い。何なんだ、この茶番は。

 やるだけやって、後は俺に丸投げかよ。俺はお前の保護者じゃないんだぞ。




「……仕方無ェな」




 立花が言うと、翔太が僅かに顔を上げた。




「事務員不在じゃ締まりが悪ィ。最低限のマナーは覚えろ」

「……アンタにもマナーなんて意識あったんだな」




 失礼な奴だ。

 立花は鼻を鳴らした。




「餌代くらいは自分で稼げよ。俺の仕事の邪魔をしないなら、まあ……、置いてやっても良い」




 翔太がぱっと目を輝かせるので、立花はたじろいだ。

 別に情けを掛けたつもりは無い。湊に任せきりだった事務を引き継ぐのが面倒だっただけだ。




「ありがとな、立花」

「うるせぇ。成り行きだ。……畜生、あのクソガキ」




 悪態吐いても、翔太は笑うばかりだった。




「昼飯は俺が作るよ」

「止めろ。食材の無駄だ」

「ひでぇ」




 立花はきびすを返し、階段に足を運んだ。

 事務所は窓が全開だった。狙撃してくれと言っているようなものだ。翔太を睨んだら、ヤニ臭かったから、と言われた。だから、何だってんだ。


 一から教える必要がある。俺の仕事がどういうものなのか、翔太はまるで分かっていない。

 パソコンの置かれていたデスクは空になっている。回転椅子も行儀良く机の下に入れられて、其処には初めから誰もいなかったみたいだ。


 立花は定位置の椅子に座ると、思い切り背凭れに体を預けた。事務員のいなくなった事務所は何処か空虚で慣れないけれど、その内、存在したことすら忘れるだろう。


 携帯電話を取り出すと、幾つか仕事の依頼が来ていた。どれも下らない、この世の汚濁を煮詰めたような依頼だった。復讐依頼も来ていたので、立花は舌打ちをした。

 依頼の選別も湊に任せていたのだ。これは翔太には荷が重いだろうか。




「おい、翔太」




 扉の前で棒立ちしている翔太を呼び付ける。




「仕事だ。ターゲットの情報を集めろ」

「……どうやって?」




 疲れがどっと溢れて、立花はもう不貞寝ふてねしてやりたかった。




「教えられなきゃ何も出来ねぇのかよ。前任者の真似事くらいしてみろよ。どうせ、同じような働きは期待してねぇ」

「立花って結構、湊のこと頼りにしてたんだな」




 間の抜けた検討外れの返答に苛々するけれど、別に煙草を吸いたいとは思わなかった。ライターが見付かっていないし、探す気力も無い。




「頭脳労働出来ねぇなら、足を使え。俺が有益と判断する情報を掴むまでは帰って来るな」

「……分かったよ」

「お得意の捨て犬の顔で尻尾振って来い」




 翔太を追い出して、立花は窓の外を眺めた。背中を丸めた翔太がとぼとぼと情けなく歩いて行くのが見える。

 SLCのことも、公安のこともあるが、この界隈ならば大丈夫だろう。湊のコネクションが活きているし、お使いくらい行けるはずだ。


 給湯室に行くと、乾燥したハーブが棚に入れたままだった。立花はハーブティーなんて飲まないので、電気ケトルを稼働させながら片付けようと手を伸ばした。

 けれど、止めた。自分には必要無いけれど、翔太には必要かも知れない。


 ドリップコーヒーのパックをマグカップにセットして、湯が沸き立つのを待った。低い唸りを聞きながら、立花は湊の言葉を思い返していた。


 生きる意味と死に場所。

 それは確かに、――立花の望んでいたものだった。




「……どいつもこいつも」




 分かったような顔しやがって。

 立花は奥歯を噛み締めた。


 俺がどうやって生きて来たのか、知りもしない癖に。

 目の前で殴られる子供を助けることも出来ず、流されるまま人を殺し、どうせ野良犬みたいに死ぬと思っていたのに。


 今更、希望なんか見せやがって。


 沸騰した湯を紙パックに注ぎ込む。粉々になったコーヒー豆が浮き上がり、芳ばしい匂いが漂う。


 答えなんか、いらなかっただろう?

 立花は自分に問い掛ける。

 生きて行く意味、殺す理由、抑止力の意義。


 こんな感傷的な気分になるのは、湊とノワールが希望に満ちたみたいなキラキラした目で笑っていたからだ。そのせいで、無意味な期待をしてしまう。


 俺は人殺しだ。それでメシを食っている。

 どうせろくな死に方はしない。

 ならばせめて、誇れるような大義名分の下で死にたかった。




「苦ェ」




 久しぶりに自分で淹れたコーヒーは、苦くて思わず顔をしかめる程だった。立花はマグカップを片手に事務所に戻り、ブラインドカーテンを下ろした。

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