⑷陽動
犯行声明を出したのは、中東にある宗教団体だった。
しかし、宗教とは名ばかりで実際は先進国に対してテロを繰り返し、国連からも警戒されている武装組織である。
宗教上の対立から爆弾テロを仕掛けたものとされているが、その本質は中東地域の利権や武器密輸などの経済的な動機が主とされる。
爆弾を仕掛けられた州立記念公園は、ストリートバスケのイベントが行われていた。だから、弟の航も参加した。それは人種や国家に囚われず、将来有望な若い選手を見付ける為の催しで、収益は医療や福祉団体に丸ごと寄付される予定にあった。
企画したのは、ミナの父親だった。
イベント自体に後ろ暗いことは何も無い、真っ当な慈善事業だったのだ。けれど、其処に資金援助していた企業の一つが件の宗教団体に対して、SNS上で批判していた。
ミナの父親、ヒーローが反戦の第一人者であること。スポンサーである企業が宗教団体を批判したこと。軍事、経済の凡ゆる不幸なタイミングがこのイベントと重なり、テロの矛先となった。
国境や人種の垣根を越えるスポーツの祭典は、絶望の底にいる大勢の若者を救う受け皿となるはずだった。それが訳の分からない武装組織の為に、大勢の人が巻き込まれ、ヒーローまで亡くなった。
更に悲惨なのは、この武装組織が明確な目的を持たない犯罪者の巣窟で、テロ自体が周辺国の代理戦争の側面を持っているということだった。
つまり、敵そのものが曖昧なのだ。怪物や悪者がいる訳ではない。ヒーローの死は、世界が正常に回って行く為の報いの一つだった。
アポトーシス。
プログラムされた細胞の死。
立花は、そんな風に言った。
誰が悪い訳でもない。いつか生じるだろうとされた世界の歪み。それが偶々そのイベントで、ヒーローの死だった。
ヒーローを殺したのは、この世界のシステムだった。
「……もう一つ、嫌な知らせがあるぜ」
繁華街の片隅に停めた車の中で、立花はアームレストに肘を突いていた。金色の瞳は何処か遠くを茫洋と眺めている。
「ヒーローの息子を名乗る何者かが、アンダーウェブで宣戦布告した」
通常の方法では到達出来ないインターネットの検索エンジン、アンダーウェブとは社会の闇である。臓器や武器、薬物、何でも手に入るとされる犯罪の温床。其処に流れたのは、ヒーローの息子を名乗る何者かによる過激派への挑発である。
複数の中継地点を挟みながら、ヒーローの息子はテロリストを真っ向から批判している。当然、テロリストはその何者かを血眼で探している。アンダーウェブはFBIやらCIAやら各国の情報捜査局が徘徊し、混沌と化している。
表沙汰にはなっていないものの、世界各地でヒーローの息子を巡って争いが起こっている。戦争の火種――いや、火の粉が振り撒かれているのだ。
中継地点の一つである日本にも、テロリストの一部が流れ始めているそうだ。近江や先代ペリドットまでも秩序を守る為に駆り出され、その被害は裏社会だけに留まらないだろう。
関西を取り仕切る笹森一家がガサ入れされ、身動き取れない状態にあることも事態をより悪化させた。この国の政府がどのように動いているのかも、自分達には分からない。
翔太は頭を抱えた。
情報は水と一緒。溜めて置けば淀み、腐る。
瞬きすら出来ない情報の奔流の中、自分達は打てる手が何も無い。最新の情報を獲得することも、先回りすることも出来ない。
「そのヒーローの息子ってのは、ミナなのか」
問い掛けながら、翔太は否定を期待していた。
ミナでなければ、良い。こんな混沌とした物騒な世界の中心にいるのがあの子でなければと、翔太は祈った。けれど、立花は前を見据えて答えた。
「ミナの将棋の指し方と一緒だ。盤上を引っ掻き回して、最後に帳尻を合わせて来る」
翔太は俯いた。
分かっている。これは、ミナの常套手段なのだ。
「……俺、あいつの目的が分かるぜ」
翔太が言うと、立花が此方を見た。
その目は怪訝に細められている。
「弟だよ」
それ以外に、ミナの行動起因と言うものは存在しない。
立花は眉を寄せていた。
「生きてるか、死んでるかも分からないんだぞ」
「少しでも救いのある方に賭ける。ミナは、そういう奴だ」
生きているか死んでいるかも分からない。今、ミナの弟である航はそういう状態にある。だけど、ミナなら生きていると考えて行動する。
盤上をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、帳尻を合わせる。
ミナは何をしようとしているんだ?
両親が死んで、弟は安否不明。テロリストに宣戦布告して、世界各地の中継地点から、状況を掻き回す。――たった一人で?
「……青龍会は?」
ふと思い付いて、翔太は問い掛けた。
中国マフィアの若頭、ミナの親友。
この状況で黙って見ているとは思えない。
立花は苦い顔をした。
「少なくとも、この国にとっては敵だな。混乱に乗じて元気に商売してるよ。全く、逞しい奴等だ」
関西の密売ルートが潰された青龍会は、今度は東北から武器密売を行なっているらしい。
商魂逞しいと言えば聞こえは良いが、最悪の火事場泥棒である。青龍会と連絡が取れたら或いはとも思ったが、自分達にはそのパイプが無いのだ。
考えろ。
ミナならどうする。何をする。
俺が一番最後に会った。毎日会っていた。
分かるはずだろう!
その時、立花が言った。
「弟の為か……」
翔太は頷いた。
信念を振り翳したテロ行為も、自己犠牲的な復讐も、ミナの遣り方じゃない。立花は鼻を鳴らすと、エンジンを掛けた。
エンジンが唸る。クラッチの音が小気味良く響き、緩やかに車が走り出す。
立花はフロントミラーを見遣り、舌打ちを漏らした。
閑散とした繁華街の風景が、光の乱反射みたいに揺らいで見えた。
「全部、予定調和だったんだろうな」
独り言を零すみたいに、立花が言った。
翔太が問い掛けようとしたその瞬間、BMWはアクセル全開でミサイルみたいに走り出した。重力に押し潰されそうになりながら、翔太は慌ててシートベルトを装着した。
立花が言った。
「東北の密売ルートも、ミナも、囮だ。本命は別にある」
果たして、その本命とは?
その時、爆発音が響き渡った。
振り返る間も無く凄まじい重力に押さえ付けられる。甲高いスキール音が耳を劈く。フロントミラーに、後ろに黒塗りの車が追走して来るのが見えた。
「何だ、あいつ等!!」
アシストグリップを引っ掴み、翔太は叫んだ。
助手席から、銃口が覗く。ぎょっとして心臓が縮こまった。
覆面姿の何者かが銃を構えていた。
まさか、市街地で銃撃するつもりなのか?
破裂音と共にBMWの装甲に穴が開き、翔太は息継ぎも出来ない程に動転した。立花が叫ぶ。
「――捕まっとけよォ!!」
同時に、立花はバックギアを入れた。
追走する車が磁石みたいに衝突し、鼓膜を破かんばかりの爆音が轟く。硝子の割れる音が耳の奥に突き刺さる。ハリケーンみたいに激しく揺さぶられる車内で、立花はすぐ様ギアを切り替えた。
BMWはミサイルみたいに一気に加速した。
血と硝煙、火薬の臭い。真っ赤な炎が蒼穹を舐め、黒煙が朦々《もうもう》と立ち昇る。弾丸の雨が降る。追跡者達は幾つもの乗用車を巻き添えにして、アスファルトの上を滑った。
携帯電話が鳴っていた。
それは、いつか妹と聞いた蝉時雨に似ていた。
15.トーチカ
⑷陽動
時間は矢のように過ぎて行く。
市街地で起きた銃撃戦は、民間人にとっては青天の霹靂だっただろう。中東から潜り込んだテロリストが、一台の車を追って実弾を放つだなんて誰も想像していなかったに違いない。
だからこそ、沢山の人が巻き込まれたし、死んだ。
建物が幾つも破壊され、人が轢かれ、流れ弾を受け、アスファルトは血に染まった。
紛争地のような殺伐とした街中を、黒のBMWが走って行く。車体は激しい銃撃の為に穴だらけで、リアガラスは残っていない。エンジンは喘鳴のような奇妙な音を立て、蛇行しながら人気の無い場所に向かっていた。
空はもう暗かった。
湿気った風が窓から吹き込む。
爆破と共に現れた謎の襲撃者達は、高速道路から県境まで追って来たが、街の光の無い田舎道に差し掛かる頃には消え失せていた。
トロトロと速度を落とし、BMWは生き絶えるみたいに停車した。流石の立花も疲れたのか、ハンドルに突っ伏していた。
ハンドルを握っていたせいで、立花は反撃が出来ず、只管逃げるしかなかったのだ。労う言葉も出ては来ず、翔太もシートに体を預けたまま深く溜息を吐いた。
もう、何が起きているのか分からなかった。
海の向こうでミナの両親が爆弾テロで死んだ。それからミナは姿を消し、テロリストは犯行声明を出し、対抗するようにヒーローの息子を名乗る何者かが宣戦布告した。
インターネットの中で凡ゆる情報が散らかって、ヒーローの息子を狙うテロリストは世界各地で被害を出している。
ぐちゃぐちゃだった。これ以上ない程に状況はぐちゃぐちゃに掻き回されている。
その中でどうして自分達が襲撃されたのかなんてことは、最早どうでも良いことだった。
ミナが消えてから、ほぼ一日が経っている。
依然としてミナの居場所は分からない。
立花はハンドルから身を起こすと、懐を探って煙草を取り出した。せかせかと煙を吹かす立花は、どうにか苛立ちを鎮めようとしているように見えた。
煙草を吸い終えると、立花は携帯電話を取り出した。闇の中、ブルーライトに照らされた金色の瞳が不気味に光っている。
立花は不機嫌そうに携帯電話を耳に当てると、低い声で話し始めた。翔太も何となく、携帯電話を取り出す。着信もメッセージも無く、寂しいものである。
通話を終えた立花は、また煙草に火を点けた。
「どうやら、俺達は餌にされたらしいぜ」
立花は唾を吐き捨てるみたいに言った。
銃撃の最中に聞こえた電話の音は、どうやら立花の携帯だった。相手は情報屋の品川で、彼が言うにはヒーローの息子を名乗る者がハヤブサの存在を匂わせたらしい。
ミナの仕業だろうな、と翔太は思った。
そのくらいのことはやるだろう。ミナにとって、弟以上に優先すべきことは無いのだ。弟を守る為なら何でもする。鬼にも悪魔にもなるし、仲間も切り捨てる。そういう覚悟で生きている子供だった。
「ミナは何をしようとしてんだよ……」
弟を助けたいのは、分かる。
翔太だって力を貸してやりたい。相談の一つくらいしてくれたら良かったのに、あの子は何も言わずに消えた。
ミナも立花も、翔太とは違う世界の人間だった。
相談するとか、相手を頼るとか、助けを求めるとか、他人に対する根本的な信頼が無いのだ。だから、全部一人でどうにかしようとするし、人間関係に明確な境界線を引く。
立花はそのまま電話を掛け始めた。
誰に掛けているのか知らないが、立花は兎に角、腹を立てていた。怒りのボルテージがあるならば、今の立花は噴火寸前である。その声は低く震えていた。
「……テメェ、俺を利用しやがったな?」
相手はまさか、ミナか?
そう思えるくらい、不躾で恫喝的な声だった。
「あのガキは何をしようとしてる。俺に何をさせてぇ。お前等の目的は、何だ」
地中の尽くを穿り返すような低い声で、立花が詰問する。
電話口で、感情の死んだ冷静な声が微かに聞こえる。翔太には聞き覚えが無かった。
「ミナの弟を助けてぇんだろ? だったら、一からちゃんと説明しろ。そんで、力を貸して下さいって頭を下げろ。俺は筋を通さない奴が大嫌いなんだ!!」
最後の方は、殆ど怒鳴り声だった。
立花は、餌にされたと言っていた。
もしかして、通話の相手は、――ミナの協力者か?
一体、誰だ。青龍会か、それとも、ノワールか。
「これ以上俺をコケにするなら、テメェ等の敵が増えることも覚悟しろよ」
丸腰で猛獣の檻に放り込まれたら、こんな気分なんだろうな。
本能的な恐怖で体が竦む。立花の金色の瞳には激しい怒りがマグマのように煮え滾っていた。
「ヒーローの通夜が済む前に、その息子の死顔を拝むのは嫌だろう?」
悪役の台詞だ。
しかし、立花の台詞で通話相手の正体を察する。
もしかして、相手はミナの身内なんじゃないか?
まさか、フィクサーその人か?
翔太は、通話が終わるのを固唾を呑んで見守った。立花の物言いは完全に悪役だが、自分達は事情も説明されずにテロリストの矛先にされたのだ。
これだけ追い回されて、黙っていられる程、呑気じゃない。
立花は通話を叩き切ると、黙ったままエンジンを掛けた。廃車寸前のBMWは銃撃など無かったかのように唸り、走り出した。
「なあ」
闇に沈む田舎の畦道を走りながら、立花が言った。
「お前、妹が生きてたら、どうした?」
どういう意味だ。
翔太が眉を寄せると、立花は此方を一瞥して、続けた。
「指名手配されて、警察に捕まって、世間からバッシングされて……。お前なら、どのタイミングで妹を切り捨てる?」
どのタイミングで――。
翔太は答えた。そんなこと、問われるまでも無かった。
「切り捨てねぇよ」
「……それがどんな地獄でもか?」
「そうだよ」
親殺しでも、サイコパスでも、たった一人の妹だ。
刃を向けられたとしても、それは変わらない。この感覚は、立花には分からないだろう。
「兄貴ってのはさ、妹や弟が生きて笑ってりゃ、それで良いもんなのさ」
ミナもそうなんじゃないかな。
翔太が言うと、立花は不満そうに鼻を鳴らして、それ以上は何も言わなかった。