03.中世ヨーロッパのトイレ事情
中世に入ると、西ヨーロッパにおいて公衆トイレは利用されなくなった。駐屯していたローマ軍団や、都市に住む彼らの親族や彼らの向けの商売していた人々が居なくなったためだろう。
例えば初期中世のロンドンはアングロサクソンの入植地でエセックス王国に属していたが、首都となることはなくローマ時代の遺跡も殆ど利用されなかった。
一方で、イタリア半島を含むビザンツ帝国のローマ都市においては、その都市が帝国の版図から外れるときまでローマ式公衆トイレが風呂同様に継続的に維持・管理され、利用されていた。
ローマ時代よりゲルマン系民族は屋外で穴を掘って致していた。これは近代或いは現代まで農村の慣習として引き継がれる。
バイキングはロングハウスと言われる広いホールのある縦長の家屋に住んでいたが、入り口近くの小部屋がトイレであったと考えられている。手は洗わなかったようだ。また換気用の窓が無く、臭いは屋内に充満した。
ヨーロッパに入植したイスラム教徒は彼らの経典に従っていた。
8世紀になると西ヨーロッパでも修道院で共用トイレが利用されている。その後の修道院建築の規範となった820年製作のザンクトガレン修道院見取り図には、複数のトイレの座席が並ぶ回廊が書かれている。浴室に並列して作られていたようだ。
ここではローマ時代と異なり、座席と座席の間には敷居があったという説と無かったという説があり、確定しない。フランスやドイツにおいてトイレを談話の場と表現する中世の語彙は、一般的に複数並ぶトイレに敷居が無かった可能性を示唆する。
修道院においてトイレの数はベッドの数と同数であるべきだった。これは後に都市の邸宅に倣われる。風呂場や食堂もあって僧侶の生活は修道院で完結していた。
木柵に囲まれた中世初期の城では、敷地の隅の方にトイレ小屋が建てられていた。これは衛生というより臭い対策であり、出来る限り遠くに追いやったものの土壌に浸透して地下水に届けば井戸を汚染した。
西ヨーロッパにおける中世都市の誕生期、大体10-13世紀頃にはトイレは再び必要になっていた。これは人口増によるもので、ローマ時代にそうであったように高層アパートの誕生に合わせて都市の悪臭は再発生した。木造家屋は石造りになり、狭く不規則な路地は中央に向かって低くなる傾斜を持つようになった。蓋の無い開渠の下水道である。
12世紀にはパリの開渠下水道が建設が開始され、ロンドンでは公衆トイレが造られるようになった。当時の公衆トイレは庭園や路地の行き止まりや小川の近くにあり、排水路や壺や汚水溜めの上に木の板を渡したものだった。壺の時は防臭用に石炭や木炭が入っていた。板は梁で固定されていて、板の上に座って致した。万が一落ちても死ぬような高さではなかったようだ。とはいえロンドンのトイレは一教区に一か所という少なさで、全く足りていなかった。おまるは必須だった。
またユダヤ人が公衆トイレを利用することは禁じられていたという。
都市の家庭のトイレは掘った穴に木の板を置いたものから石造りの土台に変わり、ついでレンガ造りの脚組みをなった。座席は腰掛ける椅子のような形状に変わり、裕福な家庭では革製の椅子に加えて背凭れに装飾を加えることもあった。
家のトイレは庭隅の離れか屋内の一階もしくは二階の張り出し部分に設置されていた。大抵向かいの家と共有していて、排泄物は真下にある汚水溜めもしくは開渠下水道に落下した。
今でもときどきそうする者がいるように、トイレの穴はゴミ箱代わりにも使われていた。汚水溜めのあった通りは、下品な名前が付けられている。利用者がうっかり落ちて死ぬケースはあった。
夜間に催したとき、人々は蝋燭の灯りを灯さずにおまるに致したか、外出して何処かで致した。
都市で汚物処理の問題が起きたのは12-14世紀頃からで、この頃からは各都市で汚物関係の都市条例が出されるようになる。1388年の都市衛生条例はイギリスで最初の衛生法である。各都市の衛生法は汚水溜めの清掃、ゴミを捨てる際のルール、トイレの建築基準、尿瓶の中身を投げ捨てる時間の取り決めなど様々だった。
公的な汚水溜めの清掃は数年に一度の間隔で、市の当局によって雇われたギルドの業者が夜間に薄給で担当した。汚物の輸送には川があればはしけ船で行われ、無ければ荷馬車で郊外か公的な廃棄場へ運ばれた。
公的でない汚水溜めも同様に処理された。
一般的な宿泊施設のトイレは、樽の上に板が置かれていて、毎朝開渠に処分されていた。
12世紀のクリュニー修道院では離れにトイレを作っていて、地階の下水道を通って小川に流された。シトー会では寮や大食堂の傍にトイレが造られていて、托鉢修道会でも石造りの下水道が用意された。とはいえ大規模でない修道院は汚水溜めを使用し続けた。こちらは一杯になるたびに埋め立てられて新しくトイレが造られた。あとカルトジオ会派は壺か何かを使っていて下水道は無かった。
下水には、修道院のキッチンや風呂場からの使用済みの水が使われていた。
時課の途中で抜けられない関係上、僧侶が便所に行く時間は決められていることがあったため、小便ならば尿瓶を使った。
夜間には蝋燭を灯して誰か別の僧侶を起こして共にトイレに赴いた。灯りは移動のためだけでなく、トイレの中で読書するためにも用いられた。手洗いの水は自分で用意していた。
平修士や旅行者は別棟に泊まり、別棟にあるトイレを利用した。旅人は裕福でなければトイレを利用できず厩で致した。
また中世の学校建築は修道院の建築に倣ったものだから、学校でも同様の傾向を示しただろう。
13世紀頃からイギリスやフランスでは防衛機構の城に居住性を備えるようになり、ガードローブと呼ばれる壁から張り出しているトイレが造られていた。屎尿の臭気が蛾の幼虫による食害から衣類を守ると信じられていたことから、その名前がつけられたという。
ガードローブはいくつか設置されていた。塔やあるいは城郭内の独立した棟にトイレがあるときは外壁の地階部分に汚水溜め用の通気口があるか、トイレのある階層に張り出し部分があるので分かりやすい。
張り出しているとき汚物は自然落下するか金属製のシュートを通って地階の汚水溜めまたは城外の堀に落ちるか、そのまま地表に転がった。こうした汚物は業者に良い賃金で処理された。包囲戦の時にシュートを利用して攻め手が城に侵入した例には、13世紀のガイヤール城やアルク城の包囲戦がある。
城のトイレは城主の家族用だったり来賓用、そして守備兵とか僧侶のために沢山あった。塔のものは守衛のためにあり、複数の便座が横に並んでいたか、背中合わせに置かれていた。
主城のトイレは広間や城主の寝室に近い城の隅にあったが、狭い回廊を通って行かなくてはならなかった。トイレは臭い対策として換気用の窓があり、木製のドアで敷居されていたようだ。出た後は、鉢や水差しを使って手を洗った。
中世盛期の農村では豊かな農民が裏庭にトイレ小屋を作り、そうでない農民は幾つもの穴を掘って肥溜めを作った。子供が落ちた事件があったが、あまり深くなくて死ななかったようだ。夜間には真っ暗な中で手探りで外に出て、何処かで致した。
中世の船上では、トイレが船尾の張り出し部分に設置された。士官向けのものですら穴が開いただけの座席だった。基本的に屋内である。
中世末期には各都市に公衆トイレが設置されていたが、管理された公衆トイレは常に不足していた。
イギリスの都市では15世紀には汚水溜めは使用されなくなり、また基本的に2階より上に作られるようになった。汚物はシュートや樋を経由して下水道に濯がれた。
パリでは地下に下水道が造られ始めたが、近代に至るまでほんの一部にしか行き届いていなかった。
14-15世紀頃には、城のトイレは落下式のガードローブから水洗式に代わりつつあった。引き紐で水槽から水を流すタイプの水洗トイレは1596年のジョン・ハリントンによる発明を待つことになるが。
トイレでは、寒さ対策に暖炉を置いていたり、悪臭対策として使わないときは座席の上に緑のシートをかぶせ、穴の上にクッションを置いたりしていた。
また彼らのプライバシーの芽生えとともに、君主用の趣を凝らしたおまるが登場するようになり、カーテンで覆われたトイレを使用した。16世紀には長距離の移動の際におまるを備えた馬車を通常の馬車と併用するようになる。
トイレットペーパーの代わりには一般的に干し草や麦わらの一掴みを使っていた。使用した尻拭きは、多分シュートが詰まるのでトイレの穴に捨てることを禁じられることもあった。またフランスの歴代の王は亜麻屑を使っていて、イギリスの王はリネンやコットンの布切れを使っていた。
16世紀には修道院廃止の余波を受けて貯蔵されていた羊皮紙が尻拭きに利用されたこともあったが、一般化はしなかった。
屎尿の利用はローマ時代と近い形で行われていた。尿は皮革のなめしと、毛織物の縮充に利用されていた。毛織物業の仕上げに古い尿を利用する方法はトガのやり方とあまり変わらなかったが、作業は機械化されつつあった。とはいえ古い尿と石灰と明礬を混ぜて、何度も踏みつけるかハンマーで殴るのが普通のやり方だった。
またメナジエ・ド・パリでは、家庭で油シミを取るための手軽な方法として古い尿を使うことを勧めているが、難しいときは縮充工に頼るように勧めた。
包囲戦中の都市や城では他人や馬の尿を飲んだ。守備兵たちの膨大な量の排泄物をどう解決したのかは分からないが、間違いなく望ましくない方法だろう。
人糞は畑の堆肥として利用するようになる。効率がとても良かった半面、ときに寄生虫は彼らの体を蝕んだ。
また医者は検査のために尿を利用するようになった。
14世紀に書かれたカンタベリ物語には病人の尿器を抱える医者が登場し、農夫ピアズの幻想では尿検査のことに触れるが、ジル・ド・コルベイユやヒルデガルド・フォン・ビンゲンによる尿検査や便に関する医学テキストは12世紀に書かれた。
尿検査では主に尿の色に注意を向けていて、透明ガラスが12世紀末に発明されると、ヨハネス・アクテュアリウスは尿の色を見やすい透明の尿瓶を推奨した。ただしガラス尿瓶自体は一般には流通せず、陶器製が主流だった。
14世紀に流行するペストに罹った患者の特徴は血の色をした尿と黒い便だった。
文学上の尿と便は、狐物語で主人公ルナールが他所の子供に小便をひっかける話があり、デカメロンでは登場人物が汚物溜めに落ちるものが2話ある。(※第2日5話と第8日9話)
汚物溜めに落ちること自体は前述したようにいくつか史実での記録がある。1183年にはエルフルトの城のホールで床が抜けて地下の汚物溜めに多数が落下し、死者も出したという。
中世はトイレ発展の時代だったが、人口増加はその発展を亡き者にするかのように悪臭を引き起こした。法律による抑制でも根本的な解決にはならず、強烈な流行病は発生する。そして一時的な人口減によって経済改革が起きたものの、悪臭の方は数十年ほどで元通り都市を覆った。
近世に至りトイレの発展はイギリスが牽引するようになる。17世紀頃のおまるは壮麗な装飾を持った綺麗な椅子とか本立で、蓋を開くと陶器製のおまるになった。引き紐式の水洗装置はイギリスで開発され、18世紀頃にはロール状でない紙で尻を拭いていた。
ロール型のトイレットペーパーは19世紀のアメリカで生まれ、また同国での化学の進歩と細菌の発見によって近代的な衛生観念が生まれて下水設備は大きく改修されることになる。