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01.古代ローマの公衆トイレと私用トイレ

 紀元前3000-2000年頃、エジプトやメソポタミア、インダスなどで都市国家の発展に伴いトイレが姿を現す。悪臭や病気の元となる便の処理に際して、人口密度が高く自然の浄化能力の追いつかない都市では「従来のやり方」はそぐわなかった。

 インダスでは多くの家屋にトイレがあったが、メソポタミアやエジプトでは裕福な者たちが利用していて庶民は郊外で致していた。


 最初期のトイレは二つの石柱(または煉瓦)の上に、鍵穴のような穴のある木の板もしくは石灰石の石板を置くシンプルな形状である。図版によればスクワット式ではなく、座って致していたようだ。

 便は壺で水を注いで直接下水道に流すか、土に還すか、木製のおまるを使用して間接的に捨てられる。下水道は近くの川まで繋げた銅パイプまたは煉瓦造りの水路で、浄化設備は当然無い。

 クレタのミノア文明でも木製または石板が置かれていて、テラコッタのパイプがあり、雨水を集めて流していた。

 堆肥技術はすでにあったが、人の便を肥料にするのは東アジアを除けば一般的でなかった。


 尻を拭くとき、古代エジプトでは現代と変わらず砂を使っていたようで、砂を入れていた壺が残っている。古代ギリシャでは海綿を使っていたが、他の地域では小石や土塊を利用していた。


 紀元前6-5世紀頃の古典時代のアテネでは、裕福な者たちの家では下水道のあるトイレを用いていて、テラコッタのおまるも使われていた。下水は貯水槽に貯められ、この下水をコプロロゴスと呼ばれる清掃官の監督下で奴隷たちが郊外に撒いていた。

 庶民はこれまでとあまり変わっていない。

 公衆トイレの原型はギリシャで生まれ、ローマ軍によるギリシャ征服を経てローマに伝わった。下水道に関しては、エトルリア人の築いた下水道をローマ人が拡張したものだったが。

 古代ギリシャがそうであったように、ローマの公衆トイレは衛生観念には基づいていなかったようである。



 紀元前1世紀頃、ローマでは公衆トイレが主に浴場や闘技場、劇場などと同じ建物内に設置されるようになった。初期の公衆トイレは薄暗く、悪臭に満ちていて床暖房もなく便座の数は十席にも満たず不十分だった。装飾の無い白塗りの煉瓦壁には小さい窓がいくつかあって通気と照明に機能していた。

 4世紀頃には144の公衆トイレがローマ市内に建設されていた。

 この頃の公衆トイレの壁は石とモルタルで造られている。階段一段分くらいの段差の設けられたエクセドラ建築の部屋に便座が40,50席──少なくとも20席程度置かれていて、床には動物を象ったカラフルな(或いは白黒の)モザイクのフロアタイルが並べられている。その床下にはローマ式床暖房が取り付けられていて、これが段差のある理由だ。室内の装飾として立像が何体か並べられていて、大理石で造られた一方の壁には剣闘士や運命の女神、花輪などの壁画が描かれ、また一方の壁には大きな窓が複数ある。

 この頃にはローマ市内に限らず、浴場や競技場と同様に広大なローマ帝国内の各地に設置されるようになっていた。水洗であることも、そうでないこともあったし(※市内ならば大抵は水洗)、便座の下に流れている水は浴場等からの使用済みの水が主だったが貯水槽に貯められた雨水の場合もあった。


 公衆トイレに個室は無く、便座として数十個の石板もしくは木の板が、入り口を除く三面に中央を囲うようにして並べられていた。板には昔ながらの鍵穴のような穴が空けられていた。座席の仕切りは元々無かったが、後にはパーソナルスペースの境界としても機能する装飾付きのひじ掛けが造られるようになった。一つの座席の広さは闘技場とか劇場の座席と同程度だ。

 一つ一つの座席には板の鍵穴に繋がるようにして縦穴が空けられていて、そこから尻を拭いた。尻を拭くときは、海綿スポンジまたは先端に海綿を取り付けた棒を縦穴に突っ込んで、座ったまま尻を拭くことが出来た。

 使用済みの海綿は足元の溝で擦って汚れを拭う。不十分と感じたらまた尻を拭き、十分なら棒を壺または水槽の中に戻す。

 壺や水槽は部屋の中央に幾つか置かれていて、海綿棒は適当な数置かれている。古くなった海綿棒はときどき新しいものに新調された。資料によっては、洗った海綿を隣で致している友人に渡して使いまわしていたと書いてあるものもある。

 足元の溝は浅くて細長い。全ての便座に面していて、便座に座ったまま屈んで棒を伸ばすと洗うのにちょうど良かった。溝には上水道から水が流れていたか、もしくは壺を使って汚水を流した。

 海綿スポンジの棒、横穴や溝の用途については現代の推論に基づく。


 公衆トイレの座席の石板の下には下水道が流れており、ローマ市内では有名な大下水道網クロアカ・マキシマに接続されていた。トイレは、公的には下水夫が日給25デナリウスで奴隷を使って清掃を務めていた。便座足元の溝や海綿ブラシは清掃用にも用いられたかもしれない。

 下水道よりティベリウス川に膨大な量の汚物が流されたが、水道に繋がっていない辺境や郊外ではそのまま野外に放流された。


 公衆トイレの入口ではトイレ管理人に属す奴隷が利用者から少額を徴収していた。しかし公衆浴場と同じく庶民にも利用できる程度の額であったようだ。

 トイレ内部の装飾にはフレスコ画(壁画)や立像のほかに、神殿のような柱、また盥や洗面台らしきものもあった。水を注いで手を洗ったのだろうか。

 利用者による落書きはよく行われていた。その内容は女のことと冗談と陰口ばかりでポンペイに残る落書きとあまり変わらない。隣り合った者同士で話すこともクソみたいな内容だろう。

 プライバシーは無い。が、プライバシーは文明的か否かに基づくものではなく文化的な違いであり、他文化の受容によって後々齎された。



 ローマの権力者は自宅にトイレを所有していた。個人用の便座とともに2-5人用程度の便座があり、地位の高い者は個人用や二人用を利用した。便座の構造は公衆トイレに似ているが若干スペースが広く、白い大理石の壁を背凭れにすることが出来た。

 しかし換気する窓は大抵無く、花やハーブによって臭いを誤魔化していた。

 便を流すときには壺またはバケツから水を注いで下水または汚水槽に流した。上水道が繋がっていた屋敷もあったようだ。

 トイレ部屋は撥水性のあるオプス・シグニーヌム(砕いた陶器とセメントを混ぜて作る建材)製の傾斜となっており、水を濯ぐと石板或いは木製の足載せ台の下の隙間より便座の下に水が流れていき、便を流すことが出来た。

 個室内の装飾は2世紀の終わりから3世紀にかけて壮麗になって行った。彼らが公衆トイレを使用することは基本的に無かったし、緊急の場合も使役する奴隷たちが側にいた。トイレにわざわざ出向くよりも奴隷を行使して銀製のおまるを利用するのが便利だっただろう。


 市民の家や工房、商店にもこじんまりとした個人用トイレが作られたが、販売されている許可証を購入していない場合は下水道に繋がっておらず、便座の下に汚水槽代わりの大きな(アンフォラ)が置かれていることが一般的だった。

 個人用トイレにはドアはあったが完全な密室ではなく、小さな横穴から隣の部屋にある台所を見ることができた。この小穴にも木製の小扉があったのだろうか。台所の使用済みの水を使えることが重要だったのだろう。

 暗い部屋にはランプを持ち込んでいたか、または部屋にランプが備え付けられていた。

 庶民向け共同住宅(インスラ)向けには1,2基の便座の置かれた公衆(共同)トイレが多数造られることもあった。高層インスラならば、テラコッタのパイプを通して下層の汚水槽に流された。パイプは大抵壁に埋め込まれていた。

 二階層以上の階にあるトイレは傾斜の無い落下式便所(ぼっとん便所ともいう)だった。傾斜式よりもスペースを取らない他、流すための水は少なく済んだだろう。水を用意するため壺またはバケツを抱えて階段を昇降しないとならないためである。とはいえ高層インスラの上層がそもそも貧困労働者の住居だったためにトイレ自体作られないこともあった。アンフォラのおまるは彼らにも必要だった。

 私的なトイレのうち下水に繋がらないトイレでは、富者は汚水槽の処理人ステルコラリを私的に雇ったし、庶民は自主的に処理したか、より楽な方法として街路や庭先に投げ捨てた。庭先に投げられた汚物は発酵していれば肥料代わりになっていたかもしれない。街路に降ってきた汚物によって死者が出た(怪我をした結果)こともあったという。


 軍の屯所にもトイレは設置されていたが、公共のものと比較すると粗末だった。装飾は無く、個人用及び10に満たない便座が置かれていた。これは一般兵用としては十分な数のようには思えない。ある程度地位の高い士官向けだろうか。

 水は近くの川か泉、雨水を貯めた貯水槽から得た。排水には粘土壁と木製の枡で囲われた汚水槽がある場合と、砦外に撒く場合がある。

 将校向け共同トイレの清掃は担当の兵士が交替で行っていた。


 公衆トイレや個人用トイレの存在にもかかわらず、路上で致すことはあり、その姿の隠せる夜闇は都合よかった。ほか、女性が公衆トイレを利用するかどうかとか構造物の素材や装飾などは地域の慣習も重視された。ローマ市内では、公衆トイレのあるような公共施設においては、女性は別の大部屋でアンフォラのおまるを使っていたようだ。

 私有のトイレがあるにも拘わらず公衆トイレがあるのは現代と変わらない。ローマ人の男性市民は午後から行楽に出掛けるが、浴場やコロセウムや劇場の中で催すたびに自宅に帰るわけにもいかないだろう。



 さて、古代ローマに於いて尿には多数の用途があり、尿を集める小便器(ガストラ)は路上のほかにエクセドラ部屋と薄壁を隔たてた部屋に置かれていた。勿論、普通にトイレで致すこともあるが。

 一方で、奴隷の少年に尿瓶を持たせて致す壮年が描かれた水差しは、市民が尿瓶を携帯していたことを示す。宴会の席でも旅行先でも、彼らは奴隷を呼んで尿瓶に放尿していた。

 路地や公衆トイレに尿瓶を置いて尿を集めていたのは毛織物業者であろう。大プリニウスの博物誌によれば彼らが尿を有償で買い取ることもあった。彼らは豊かな者の公的な衣服であり白い羊毛で織られたトガをフェルト化するために古い尿を利用していた。

 そのほか、博物誌によればヒスパニア属州では歯を白くするためにも尿が使われていた。またヒスパニアのコルメラは尿が果物の生育に良いと記し、人肥が農業に使えることを記した。


 ウェスパシアヌス帝の頃(69-79)には尿瓶に税金がかけられるようになった。尿瓶を制限されたとて尿を催すというのは唐突で如何ともしがたく、路上で放尿せざる得ないことはあっただろう。

 古代ローマの街は汚かった。そして公衆トイレは悪臭と汚物で不衛生だった。人々には寄生虫が寄り添っていた。犬やネズミが窓より投げ捨てられた便を食べていて、路上の尿瓶と奴隷たち、そして死体にはハエが集っていた。

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