旅のはじまり、の始まり~酒に飲まれる男ども~
はじまり。はじまり――。
この星のどこかのあるところに、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。
おじいさんは山へ柴刈りに行き、おばあさんは川へ洗濯に行こうとしてなんとなくおじいさんが心配になったので引き返しました。
◆
朝のひんやりした空気が心地よい。おじいさんは歩きながら春の暖かさと冬の名残のある風を贅沢に味わっていた。
「よい朝だ。本当になにか面白いことがあるやもしらんな」
彼はそう独り言をこぼし、昨晩におばあさんが語っていたことを思い出していた。
昨日はやけに星の綺麗な夜だったのを覚えとる。儂が村での仕事から帰ってくるとばあさんは呪い札を前に正座していたのぅ。
こういうときのばあさんはそっとしておくのが良い。儂は長年の付き合いからできるだけ静かに仕事道具を片付けていたのだが、ばあさんが突然しゃべりはじめたのじゃ。
「星が3つ」
ばあさんの占いは抽象的じゃ。星もきっとなにかの喩えだろうのぅ。
「星は広き空を渡る遠い旅路の果てに地に落ちる。そしてはじまるのは新たな旅…。おじいさんや」
「うむ」
「明日は面白いものが見つかるかもしれませんよ」
ばあさんの占いは当たる。正しく読み取るのが難しいが慣れてしまえばその的確さに驚くほどじゃ。事実、儂も命を救われたことが何度もある。儂とばあさんの馴れ初めも占いがきっかけだったのぅ。
「おっほっほ。それは良い。それは明日が来るのが楽しみじゃな」
そうして昨日は寝てしまったのじゃ。
占いをするばあさんの美しい瞳を思い出してニヤニヤしながら、ぼんやりと慣れた道を進んでいたおじいさんは突然の悪臭に顔をしかめた。
近くで動物でも死んどるのか?しかし肉の腐る臭いとは少し違う。これはなんじゃ?
臭いは山の入り口より手前に広がる草っ原から漂ってきているようだ。
この辺りはセイタカホウキグサの群生地…先端がフサフサとした二メートル弱の草で埋め尽くされているが、今はそれも冬の間に枯れたものが残っているのみで、穂先の葉が豊かな夏に比べれば視界はまだ悪くない。
…行くか。
嗅いだことのない、ぞわぞわと不安を掻き立てるような臭いに導かれ彼は原に踏み込んだ。
セイタカホウキグサは屋根の上から被せて断熱と屋根の保護に使うほど丈夫な植物だ。編んでゴザや籠にも使う。この原は重要な生活用品の原料を採集できる周辺住民の共有資源になっているため、丁寧に育てられかなり繁茂していた。
そんな頑丈な植物たちを掻き分け、鼻を頼りに歩みを進める。一歩進むごとに臭いが強くなっていくような気がする。一体たどり着いた先ではどんな強烈さになっているのだろうか。
おじいさんは両手を使って原のなかを泳ぐようにどんどん踏み込んでいく。ついに悪臭が鼻腔に痛いほどになった。
そのとき、視界が急に開けた。
ホウキグサが地面にべったりとなぎ倒され、ぽっかりと空間が広がっている。
その中に人間らしきものが倒れているのを見つけた。
急いで駆け寄りたかったが、彼は異常な空間を警戒して慎重に近寄った。
魔物の仕業かもしれんのぅ…。
彼は以前にも魔物の脅威を目の当たりにしたことがある。ヒトにはない強力な魔力を有し、個性的な文化を持って生きる彼らはヒトとはズレた価値観の持ち主たちだ。
なにかの儀式を行ったか、なわばりの印か。…あるいは狩場か。
このあたりに魔物が出ることは空を鮫が舞うほどにないことだが、絶対にないとは言い切れない。いくら住み分けはなされているといっても世界に明確な境界線など無いのだから。
円形に作られた空間の中央に人が倒れている。どうやら二人いるようだ。
視線や罠に気を配りながら進むが、そうした気配はない。相手が気配を消せるなら当然かもしれないが。
忍者のように慎重な歩みを繰り返し、ようやく倒れた二人の姿を確認できるほど近寄ることができた。
倒れていた二人は若い女性だった。一人は見たことの無い緑の服、もう一人は白い簡素な造りの服を着ていた。
二人とも彼の長い人生を振り返ってもめったにお目にかかれないほどの美貌であった。
おじいさんの脳内を凶悪な想像が駆け巡る。
人の少ない田舎の草原。倒れている二人の美女。辺りに漂う腐敗臭。
これはもう完全に、邪悪な性犯罪者に死ぬまでいたぶられた女性が棄てられた現場そのものではないか。
途端に哀れな気持ちが湧き上がってきた。この二人にも何か原因があったのかもしれないが、何も死ぬことはなかっただろうに。せめて墓を建てて弔ってやらねば浮かばれんだろう。
しかし、おじいさんの彼女たちの死を悼む気持ちが足元への注意をおろそかにした。
一歩踏み込んだ時、おじいさんは何かを踏んだ。ぶにゅり、と気色悪い触感が足先を包む。
踏んだものを見た彼が、ひょえっ、と叫んで尻餅をついたのも当然だった。
彼が踏んだものは泥炭の如く黒く、油のような光沢を浮かべた、ぶよぶよの塊だったのだから。
★
俺が覚えているのは、アスファルトの冷たさを心地よく感じながら睡魔に負けたところまでだった。
たしか友人二人と飲み明かしていたんだっけ。仕事の愚痴を聞き、吐き、自分を慰める貴重なひと時だった。
でも深酒をしすぎたと思う。なにせ店を出た時は歩くのがやっとだったのだから。
「さすがに飲みすぎた…」
「も~、だからやめなっていったのに」
「でもさ、でもさ!飲まなきゃやってられないってほんともー!!」
そんな会話をして、夏だったから寒さで酔いが覚めるようなことも無く、三人で適当にほっつき歩いたのだと思う。
しかし歩くと更に酔いが回って、店を出た十分後には全員酔いつぶれていたと記憶している。
各々電柱にしがみついたり地面に寝っ転がったりして相当の醜態をさらしていた気がする。
そのとき誰かが言ったんだ。状況から言えば二人のどちらかだったはず。でも妙に威厳のある声で、やっぱり二人ではなかった気がする。
(お前たちは以前、異世界に生まれ変わったらどんな風になりたいか決めたことがあった。それは今でも変わってないか?)
そう。たしかそう声は言った。
俺の記憶が正しければ、俺は「そうだ!異世界転生した俺は俺の理想形だ!細胞単位で返信が可能で可愛い美少女にもクールな美女にもなれる超存在だ!まさに究極生物!」と叫んでいた。
(お前たちの心に相応しい姿へ変わるがよい。お主たちの心の姿のままに、世界は変わるであろう)
という声が聞こえてきたと思ったら、それで目が回って、倒れて、眠くなって…どうしたんだっけ?
何かに踏まれたような感じがして俺は意識を取り戻しつつあった。
う…うまく動けない。しかも目まで開けられる感じがしない。二日酔いってこんな感じだっけ?
取り合えず体を起こさなきゃ…。手を伸ばして、寝返りをうつんだ俺…。ちくしょう…腕が重たいって言うかちゃんと付いてるか?やたら感覚がにぶい。
ごろり、とうつ伏せになった俺はゆっくりと体を起こそうとする。
足の感覚が分からない…。まるで泥水の入った袋にでもなってしまったかのようだ。過労で全身ダルイうえにむくみまくっていた朝なんかこんな感じだったな…。
しかしこういう時にどうすればいいかは知ってたはずだ。思い出せ。ヨガのポーズにあったんだ。たしかお腹の中の赤ちゃんのように、膝を曲げてお腹の下に入れて、背筋を伸ばしていけば上体が起き上がる。そしてだんだん目が覚めてくる…。
ああ、ようやく体の感覚がはっきりしてきた。
抱え込んだ膝、圧迫される胸と腹、つぶれたふくらはぎ、地面の触感を伝える脛と足の甲、しなる背筋とぶら下がった腕、重たい頭としなだれた首。
もたげた頭を真上に向けると肺に空気が入り込んでくる。
開かれた目に写り込んだ光景は背の高い草に囲まれたどこかだった。
「ここは…どこだ?」
俺は茫然としてしまった。
本当に知らないどこかなのであった。
◆
おじいさんは茫然としていた。
今しがた踏んだ、大きな水たまりくらいの謎物体がもぞもぞと動き出したかと思えば、にょっきりと人間の腕が生えて来たのだ。
気持ち悪い!!
しかしそれだけではなかった。
腕が生えた塊からはさらに仰向けの体が生え、一度のたうった後、残りの部分が足に変わった。完全なヒト型になったそれはしばらくうずくまっていたが、ゆっくりと上半身を持ち上げて辺りを見渡し始めた。
「?だこど…はここ」
何を言っているかは理解できなかったが、おじいさんにとってそんなことはどうでもよかった。
「ど、ど、泥人間じゃー!!」
そう叫んだおじいさんは、今しがたヒト型になったものを思いっきり蹴り飛ばしたのだった。
説明しよう!泥人間とはこの地方に伝わる伝承で、黒い泥の化け物が人間の形に化けて人や家畜を攫ってしまう、というものだ!彼らを鎮めるための祠や祭りもあるくらい地域に密着していて、このあたりでは泥人間の話をすると泣く子も黙るぞ!
「うっわー!ほんとにでおったぞ!」
叫びながら、おじいさんは全力で草むらを飛び出してしまった。
★
一方「へっぶし!?」と情けない声を上げて俺は痛みにのたうち回っていた。
なになになに!?確かに酔いつぶれて迷惑はかけたかもしれないけど、蹴っ飛ばしますか!?
「ああ。まったく調子にのって深酒なんかするもんじゃないな…」
よっこいしょ、と立ち上がった俺は妙な解放感にさらされていた。
なんだろう。風がとても気持ちいい。清々しさを全身で感じてるっていうか…。
…股間が涼しい。
よく見れば俺は一糸まとわぬ全くの全裸ではないか!
「うわっ、なんで裸!?こりゃ蹴とばされもするわ!マジで逮捕もんだよ!」
しかし、あたりには服がない。しかもめちゃくちゃ臭い。
そして俺は気が付いた。他にも誰か倒れている。
俺はまず倒れているのは昨日一緒にいた友人たちだと思った。しかし実際に倒れていたのは美女と美少女だった。
…え?俺ってば、そういうお店にでも行ったの?それともまさか道すがらの誰かを捕まえてあんなことやそんなことを…。
いやいやいや。それはない。いくら女に飢えていてもそんな凶行を俺がするなんて…。
そうやって俺が現実から目を逸らさんとしているところに心の中の天使が言う。
(でも、酒で理性が獣レベルだったら、絶対ないって言える?)
やめろ!俺の精神を砕こうとするんじゃない!
一度冷静になれ、俺。
そうだ俺だけじゃない。周りも妙だ。草が倒されて綺麗なまるい空間になっている。ミステリーサークルの中みたいな謎スペースだ。
え。え。え?本当に俺はなにをしていたんだ?
俺は地面が無くなってしまったかのような底知れない自己不信に、目を回してしまいそうだった。
◆
のわー!
と、雄たけびを上げて草原を飛び出すおじいさん。一心不乱で道を戻る。道中に誰か立っていたがお構いなしだ。
「おじいさんや」
その声を聴いてようやく、彼はおばあさんが立っていたことに気が付いた。既に数メートルは走り抜けてしまっていたが。
「ばあさん!洗濯に行ったんじゃ…」
「それがですね、なんかおじいさんのところに行った方が良いような気がしてね~」
「いや、助かった。向こうの草っ原に女の死体と、ど、泥人間が」
「まぁ!泥人間」
「いやぁ、心臓止まるかと思ったわい」
おじいさんは愛しの妻にもっと心配してもらいたかったのだが、おばあさんはう~んと考えてから「でも」と言った。
「たぶんそれが”面白いもの”ですよ」
「はぁん!!?」
え、昨日言ってたそれがアレなのか?と、なればこの後どうなるかは決まっている。
「わたしも見に行きますよ」
いやぁぁぁぁぁ!!!
おじいさんの心の叫びを知ってか知らずか、おばあさんはにこにこ笑っていた。
「嫌じゃのう…。臭いのう…」
「ほらほら。案内してくださいまし」
おじいさんはおばあさんを連れて、もう一度あの三人が居た場所に来てしまった。
ひょっこり顔を覗かせて様子を伺う二人。そこでは顔を真っ青にした泥人間(仮称)が茫然と立ち尽くし顔を真っ青にしており、女二人は相変わらず倒れていた。
「見れば見るほど普通の男じゃな」
「あら。若い人のを見るのは何十年ぶりかしら」
「注目するのはそこかのぅ」
「しょうがないでしょう、見ちゃうんですから。それじゃ行きましょうか。おじいさん」
「へ」
恐れるものは無いといわんばかりにずかずか踏み込んでいくおばあさんを、「待っとくれ」とビクビク追うおじいさんであった。
●
おばあさんは優しい声色で男に語り掛けた。
「そこのひと」
男はビクッと体を震わせて振り向いた。
そのときおじいさんとおばあさんを鋭い頭痛が襲った。
不安と怯えを含んだ声が頭に響く。
(た、たすけてくれ…)
なんだこの声は。だれの言葉だ?
混乱する二人に男は話しかけた。
「?…はたなあ、あ」
おばあさんは気を持ち直し笑顔で答えた。
「あらぁ。言葉が通じませんね。おじいさん、アレ出してくださいな」
「あ、アレって…」
「ほら、あの耳に付ける」
「あれ渡すのかのぅ!?」
「いいじゃありませんか。見たところ悪い人ではないようですし」
おばあさんに説得させられて渋々おじいさんは懐から水晶のように透明な丸みのある石を取り出した。
「これを耳につけてくださいな」
ジェスチャーを交えたおばあさんの言葉で意図に気が付いたのか、男は石を耳にはめた。
「あーあー。男の人。わたしの言葉がわかりますか?」
おばあさんの言葉に男は心底驚いた様子だった。
「わ、わかります!うわー言葉が通じるってありがてぇ!!」
おばあさんの男のやり取りにおじいさんは置いてけぼりを食らっていた。
★
俺は本当に混乱していたんだと思う。なにせ素っ裸のまま、優しそうなおばあさんにすがりつきそうだったのだから。
(た、たすけてくれ…)
俺は心の中で叫んでいた。
「とひのこそ」「ぁらあ。ねんせまじうつがばとこ」などと言われたが、全く分からない。こちらの言葉も通じないようだった。
そのときおばあさんがなにか綺麗な石を渡してくれた。
「ないさだくてけつにみみをれこ」
いぜん言葉は分からないのだが、おばあさんは目の前で石を耳にはめこんで見せてくれた。
なるほど?これはそういうものなのか。
見よう見まねで耳にはめ込んでみる。
耳にはめ込んだ瞬間、石から這うように魔法陣が展開され耳全体と喉元に幾何学的な文様が浮かび、消えた。
付けた瞬間こそ軽い耳鳴りのような感覚がしたが、それが終わればなにも付けていないかのように、とても耳になじんだ。
「あのー。男の人。わたしの言葉がわかりますか?」
き、聞こえるぞ。俺にもおばあさんの言葉が分かるぞ!
「わ、わかります!うわー言葉が通じるってありがてぇ!!」
俺が叫んでいる向こうで、おばあさんの連れらしいおじいさんが自分も耳に石を付けていた。
「ところでおにいさんや。そこの女の人は誰だい?」
「あ、そうだ。俺は知らないんだ。全く身に覚えがないんだけど、もしかしたら何かをしてしまったんじゃないかって…」
「まぁまぁ。落ち着いてくださいな」
おばあさんは倒れた二人の傍によって口元や胸を触った。
「おじいさん。ふたりともまだ生きてますよ」
「ほ、ほんとか」
「い、生きてたんだ」
男どもが二人して驚いていると、おばあさんはさっさと来いと手招きした。
「おじいさんとわたしは小さい子。おにいさんは力ありそうだからおっきいおねえさんをお願いね。ほら早く。家で看病しなくちゃ」
「お、おう」
「は、はい!」
指示された通り女性の前に立ったがどうしよう。普通このくらいの女性って四〇~五〇キロは確実にあるだろう。そんな米俵みたいなもの担いで歩けるだろうか。
ええい。ままよ!
「せい!」
グッと足に力を込めて持ち上げる。
「ぐああ。持ちあがったけど…これ歩くの辛い」
「ほら!もっと気合い入れる」
「そうだそうだ」
くそぅ。おばあさんが厳しい。そしておじいさんの茶々がうざい。
必死こいておばあさんの家まで二人を運んだ俺たちは、彼女らを布団に寝かせてようやく腰を下ろして休んでいた。
大き目の布切れを貰い、体に巻き付けた。やはり股間が隠れている方が落ち着く。
「しかし…疲れた…気がする」
いざ運び終わるとそんなに疲労感は感じない。いやそれ以前に、ずっと裸だったのに寒く感じてなかったような…?
と、突然おじいさんに手拭いを渡された。
「これは?」
「おまえさんは臭すぎる!近くに井戸があるから体を洗ってこい」
なんだ。そういうことか。たしかに臭いと思っていたからありがたい。
風が吹く中を駆け足で井戸に向かう。
周りの景色や肌の感じから察するに気温は十℃は下回っているはず。寒いはずなのだが、震えたりせずいたって平然と言った状態のからだ。この違和感はなんなのだろう。
井戸に着いた俺は時代劇の中でしか見たことないような井戸水の汲み上げ機を使う。
汲み上げた水に手を入れると想像通り冷たい。俺は思い切って水を頭から被った。
冷たいのは分かる。しかし寒さを感じない。冷たいが寒くないのだ。かといって暑いわけでもない。
「どうなっちまったんだろう…俺の体は」
俺は何かの病気にでもなってしまったのだろうか。はぁ、とため息をついて風邪を引かないようさっさと体を拭いて家に戻った。
「おう、帰ったか…くっさい!」
「え?あ、あれ?」
おじいさんが鼻を押さえるので慌てて体の臭いを確かめるが、確かにくさい。
「俺ちゃんと体洗いましたよ」
「どうなっとるんじゃ…。しょうがないの」
おじいさんは服の裾から瓶を取り出して渡してきた。
「これを良く体に揉みこんでおくように」
「あ、ありがとうございます」
化粧水のようなそれは塗っていくとその箇所から臭いが全くしなくなってしまった。
これ危険な薬品とかじゃないよな?
なんとなく恐ろしくなりつつも、全身に塗りたくってようやくひと心地つくことができた。
そうこうしていると、おばあさんがお茶らしきものをもってきてくれた。なかなか良い色形をした茶碗だ。描かれた模様はあんまり見たことの無い不思議な幾何学である。
中の液体は茶色い。麦茶か何かだろうか。
「ありがとうございます。頂きます」
その様子を見ていたおじいさんが不思議そうに言った。
「おまえさんは一見するとただの男のようだが…泥人間じゃないのか?」
「…泥人間ってなんですか?というよりも、ここって日本ですか?」
日本。その言葉を聞いた時、おじいさんはカッと目を見開き、おばあさんは「まぁ!」と驚いた。
「…まず言うとな、ここは日本じゃない。"緋の国"というそれほど大きくもない国じゃ」
ヒノクニ。聞いたこともない。けどなんとなく日本っぽい。
「初めに言っておくとな、ここは地球じゃない。お前さん達みたいに突然ぶっ倒れて現れる者を儂は知っておる。おまえさんたちはこの世界…この星に生まれ変わってしまった転生者なんだのぅ」
「そ、そんな」
マンガみたいなこと。本当にあるのか。いや、こうして言葉も通じない場所になぜか裸でいること自体、それを証明しているではないか。
「そして何を隠そう…儂もまた転生者である」
にやり、とおじいさんが不敵な笑みを浮かべた。
「おじいさん。そんなにいろいろ言ったら怖がってしまいませんか」
「いやいい。どうせ知らねばならぬことだしの。いくらびっくりしようが初めから知っておくのが良い」
おじいさんの目は女の子を運んでいる時ですら見せなかった、ギラリとした活力を放っている。本気だ。
「と、いっても儂から伝えられることは多くない。まずおまえさんたちは転生者であり、この世界の常識とは全く違ったズレた感覚を持っておる。だからこの世界のやり方を知り、慣れねばならん。それは儂らが教えてやってもよいが、その後、これからどうするかはお前さんたちが決める事だの」
そして…これは本当に驚くと思うのだが神の恵みともいえるものがあっての…、とおじいさんはもったいぶって話し始めた。
「転生者にはそれぞれ”スキル”と呼ばれる特殊な能力が与えられている。これはこの見も知らぬ世界を生きて行くための、まさに神からの恩恵だのぅ」
スキル。ますます非現実じみてきた。でもなんでだろう。俺は今、ものすごくワクワクしている!
「儂のはこれじゃ」
そういっておじいさんが手をかざすと、どこからともなく霧が漂い白く煙る。白幕が晴れると何もなかったはずの空間に、ずい、と木製の棚が現れた。
「うわっ!!すげぇ!」
「スキル”玉手棚”。まぁ、名前は自分で勝手につけたんだがの」
おじいさんは説明をつづけた。
「儂のスキルは異次元の棚に物をしまうことができる。引き出しが完全に収まった時、しまわれたものは腐らず傷つかず、入れられたときの状態を保っておる。棚は縦20メートル、幅15メートル、奥行き3メートル。引き出しの数は棚の体積を超えなければいかようにも調節できる。数こそ減るものの大きいものでも入るぞ。ちなみにその耳の翻訳石もここから出した」
説明を終えると棚はそれそのものが煙であったかのように霧散して消えてしまった。
「こうしたスキルがお前さんたちにもあるはず。発現までには個人差があるかもしれんがの」
俺の、俺だけのスキル。すっごい気になる。早く出てこないかなー!
「さて、おまえさんたちはこれからどうするのかのぅ?」
しまった。それを考えていなかった。
「とりあえず…この二人が目を覚ますまでこの家で暮らすことはできますか。なんでも手伝わせてください!」
土下座する俺にふたりは優しく微笑んでいた。
それから1日、俺は忙しなく働いた。意外と手厳しいおばあさんに追い立てられて水を運び、第一印象より面倒見の良いおじいさんと薪を割ったりして、あっという間に夜になった。
「できましたよ」
夕食にはおばあさんの手料理が振る舞われた。燃えるような真紅の野菜に、やけにグロテスクな顔の魚が並ぶ。見たところ煮付けのようだ。味は元の世界での和食みたいでおいしかった。
「おいしいです!」
俺の反応におじいさんが得意気な表情を浮かべた。
「ここの料理も美味しいじゃろう?まあ、うちのばあさんが作ったんじゃから当然だがのぅ」
おじいさんの言葉におばあさんは嬉しそうだ。良い夫婦である。
「う!?」
突然、俺は強烈な耳鳴りに襲われた。脳みそが揺さぶられるような感覚。そして凝縮させられるような痛み。
「大丈夫か!?ま、まさか異国の調味料を手に入れると取り合えず料理にぶち込もうとするばあさんの悪い癖が…」
「ちょっとおじいさん」
そんなやりとりをよそに、俺の頭の中には誰かの声が響いていた。
(…我はシヨコス山の領主、”ショゴス・ロード”牙遮骨王である。新参者でありながら、我らの同類とは珍しい奴。待っていろ…)
言葉が終わると、これもまた唐突に痛みが引いた。
「なんなんだ…これ」
「どうしたんじゃ」
「声が聞こえたんです…。シヨコス山のなんとかって奴が待っていろって…」
「シヨコス山と言えば昼間に薪を集めた山の一つ向こうじゃ。莫迦みたいに大きな山だが、なぜか動物も寄り付かない山で呪われているともっぱらの評判だのう」
「なんかやばそうな感じ」
「ちなみに泥人間もシヨコス山へ帰ると言われておってのう」
「それってなにか関係が?」
その時である。まるで台風のような突風と地鳴りが家を揺らした。
と、同時にまた耳鳴りと頭痛がした。
(外へ出ろ)
「外に出ろって…声が」
「はぁ、声の主に会うには出てみるしかないようじゃな」
●
三人で外に出る。そしてそろって目を見開いた。
鳥だ。鷲のように逞しく流麗な巨鳥が立っていた。その大きさたるや、嘴を見るためにはまっすぐ上を見上げねばならない。三メートル以上はありそうだ。
(お前か、新参者は)
痛みと同時に声。確実にこの鳥がテレパシーと呼ぶべき声を送っていくのだろう。しかし、頭に声が響く度に眩暈がしそうだ。
「いてぇ…」
(その様子だと念話も不慣れか。どれ)
巨鳥が身震いをして体を丸めた。その体は収縮し、隣り合う羽が溶け合って一塊の粘土のようになっていく。塊はグニグニとうごめきながら形を整えていく。頭、腕、足。それはやがて彫刻のような巨躯の大男として立っていた。
腰に毛皮を巻き付けた武骨な男は喉元を抑えながら「あ、あ、あ」と声をあげた。
「人の声を出すのは久しいな」
おじいいさんはまた腰を抜かしそうだ。
「ど、泥人間じゃ…」
「左様。我こそシヨコス山の伝承の泥人間そのものである。しかし泥人間は我の望む呼び名ではない」
大男は腕を組んで言い聞かせるような調子で語り始めた。
「我は誇り高きショゴスの王侯、ショゴス・ロードの牙遮骨王である。ショゴスの一族を守るためシヨコス山より領地を睥睨し監視する役割を担っておるのだ」
「は~」
みな呆気にとられていた。
★
そりゃそうだろう。突然神様が現れたって事態が飲み込めなくて呆けたようになるに違いない。
しかし牙遮骨王は俺を指さして続けた。
「そしておまえもまた、誇り高きショゴスの一族なのだよ」
「俺が…ショゴスだって?」
「ショゴスって…あのショゴスか?」
俺が問いかけると牙遮骨王はさも当然というようにうなずいた。
話の理解が追い付かないおじいさんが口を挟んだ。
「申し訳ないんだがのぅ。しょごす、とはなんじゃ?」
おじいさんの問いには、牙遮骨王への確認のためにも俺が答えた。
「ショゴスというのは、地球では遥か古代から居ると言われる生物です。あらゆる生物、体の器官に変身可能な細胞を持っていて、古代の地球を支配していた人類に奴隷として扱われていたとかなんとか。そのあと反逆したらしく、下克上した彼らは地球では南極の漆黒の山脈に眠る古代都市にいるらしいとか」
「なんだか曖昧じゃのう」
「なにせフィリップ・ラヴクラフトという作家が書いた創作の生物ですから」
今度は牙遮骨王が口を挟んだ。
「それが創作などではなかったということだ。その男は地球にいる我らの仲間の声を聴いたに違いない」
そのまま続けて言った。
「ショゴスが何か分かったところで話を戻す。おまえは間違いなくショゴスだ。しかし我らの同胞であると同時にこの世界の新参者…転生者でもある。転生者は大いなる力を持つが勝手な奴が多い。もしお前がショゴスの一族に害するものであった場合だが」
「我はおまえを消さねばならん」
消さねばならん。その言葉を放った牙遮骨王の威圧感に俺は全身の毛穴が開くようなおぞ気を感じた。
牙遮骨王はにやりと笑った。
「おまえの場合は老人を手伝っているくらいだから、ただのろくでなしという訳ではなさそうだ。同胞として、害をなさない限りは手を下すことはしない。しかし、我らの目は比喩ではなくどこにでもあるのだ、ということを忘れるでないぞ」
俺は怖気付いて牙遮骨王から目を逸らし、別のものたちと目が合った。
先ほどまで地面をついばんでいた小鳥が、それを狙っていた猫のような動物が、牙遮骨王の服に止まっていた虫までもが、俺を見つめている。
牙遮骨王黙って踵を返すと、再び巨鳥の姿になって飛び立った。
夜、俺は空を見上げていた。
「星が眩しいぜ…。ほんとに空気がきれいなんだなぁ」
そんな他愛も無い事を言いながら、頭では全然別の事を考えていた。
ほんの一、二時間前、牙遮骨王を名乗る態度のでかい奴が現れて「お前はショゴスだ」と言われてしまった。
そう告げられた俺は、その事実を自分でも呆れるくらいあっさり受け止めていた。
異世界、転生、ショゴス。この単語に俺ははっきりとした身に覚えがあった。
あれは一年かそこら前に、深酒したときのメンバーと一緒に遊んだ際のことだ。
仕事に疲れた俺たちは自分が異世界に転生したらどんなキャラクターになりたいか、好き勝手に妄想し設定資料を作ったのだ。
実に面白い、楽しい時間だった。
その時に創った俺の転生者はショゴスが変身した人間で世界を歩く旅人だったのだ。
その設定資料は地球と自宅が無事なら俺の机の引き出しに大切にしまってあるはずだ。
「ほんとうに来ちゃったんだな…異世界」
俺は夢が叶えられたこの幸せをしみじみと味わっていた。
「寝れないか」
おじいさんが湯飲みに水を持ってきてくれた。
「おじいさん…。心配かけてすみません」
「あの牙遮骨王とやらが言っていたことは本当のようだのう」
「そうみたいですね」
「おまえさんを原っぱで拾った時、はじめは真っ黒の泥みたいじゃった。それがグニャグニャとおまえさんの形になったんじゃ」
「そうですか…。びっくりしたでしょうね…。ほんとすみませんでした」
「それで、おまえさんはこれからどうするんじゃ」
「そうですね。俺は…」
俺はまた空を見上げた。この空の続く場所に、夢にまで見た世界が広がっている。摩訶不思議で、奇々怪々で、風光明媚な有為転変の世界が。
「旅に出ます。旅に出て…いろんなものを見て、いろんなことに出会いたい。ついでに伴侶も欲しいですね」
「そうか。実はな…儂も昔はそうじゃった」
俺とおじいさんは笑った。
この時の俺は、空に散る星々がみな俺達を見守ってくれていると思える、そんな安らいだ気持ちだった。
「そういえばおまえさん。名前は何じゃ?」
そういえば名乗ってなかったな。
俺は設定資料に書いた名前を思い出していた。
「俺の名前は…セルリオ。ジン・セルリオです」
「セルリオ…?今の日本ではそんな名前をつけるのか?」
「いえ。いつかこういう世界に生まれ変わったらつけようと思っていた名前なんです。前の世界では…」
「いや、言わんでええ。儂は名前を変えようとは思わなかったが、それを強要するつもりもない。前の世界でのことを詮索するつもりもないわい」
「そういえばおじいさんの名前は?」
「儂か?儂は…稲多嘉兵衛門。こちらでもイナダ・カヘエモンで通っておる。呼ぶのはイナダでもカヘエでもよい」
「…何時代の人ですか?」
「何時代というのは良く分からないが、元号は明和、その六年生まれである」
「俺は平成なんですけど…明和って全然分かんないです」
「平成…いったい何年後の元号なんじゃろうのぅ」
俺たちはどうやら時を超えた邂逅を果たしていたらしい。
翌朝。おじいさんに起こされた俺は火を起こすための薪を取りに外に出た。
「うわー。朝はさすがに冷えるな」
俺は両手を上げて背伸びをした。澄んだ空気がおいしい。
「そうですね」
「うわぉあ!」
後ろからの声に驚きすぎて少し飛び上がった。
俺はこけそうになりながら振り返るとそこには女性が立っていた。俺の醜態にも眉一つ寄せず、時間が停止したような雰囲気の若い女の子だった。
「要件を伝えに参りました。お手を」
「手を…どうしろと?」
「こうです」
迷う俺の手を女の子はギュッと握った。
「ふぇっ!?」
お、女の子に手を握られている!まさか転生世界でなぜかモテモテになる異世界転生あるあるが今ここに!?
などと舞い上がりそうになったかと思いきや、俺の手が彼女の手とゆるいチョコレートのように溶け合ってしまっているのだ。
その手から何かが伝わってくる。声だ。そして脳裏に人の姿が浮かび上がる。
俺は闇の中に立っていた。
遠くで人が椅子に座っている。女の子だ。まだ幼い顔体に似合わない、傲岸不遜な態度で。
深沈たる暗濃緑の髪が揺れる。
(初めまして。若すぎる同胞さん)
清廉な雪の肌に浮かぶ燃える深紅の瞳が笑った。
(まだ変身もできない幼子にプレゼントよ。その姿とこの姿でまずは慣れてみなさいな)
女の子の手が離れる。
「伝言と贈り物は確かに渡しました」
「あ、君は一体…」
俺は自分の声が女性のように高いことに気が付いた。
「え…何この声」
「では」
俺が待って、と言い終わる前に女の子は消えていた。
「ここにきてから不思議な出会いが多すぎて胃もたれしそうだ…」
大好きな料理でも、毎食食べ続けていれば苦しくなる。今はそんな気分だった。
「なんか…手が違うんだけど…」
明らかに細くきれいな指になっている。俺は自分を検分していく。
「え…これ胸あるよね。ていうか肌めっちゃ白いし、髪長いし、足が小さいし背が低いし…」
そして俺は仰天してまた飛び上がってしまった。
「お、俺の息子がいねぇー!!?」
「おじいさーん!!!」
俺は大慌てで家に飛び込んだ。
「だれじゃ!?朝からうるさいぞ!」
「俺今どんな顔してる!?」
「どんな顔って…、お前さん誰じゃ!?」
「俺です俺!セルリオです!」
「あん?儂には別嬪な女子にしか見えないがのう?」
「なんか外に女の子がいて、手を繋がれたらこんなことに」
「いきさつを聞いても意味不明だのう。でもほら。あれじゃろ。しょごすの変身とやらじゃろ?」
「あ、そうか」
「ならいいじゃろう。それよりも早く飯の準備じゃ。腹が減っては戦は出来ぬ。朝飯が無いと一日が始まらないわい」
「あっはい。カヘエさん意外と胆座ってますね…」
「先輩転生者をなめるんじゃないわい」
俺達は朝食の汁物を啜っていた。その匂いか、それとも差し込んだ朝日のせいだろうか。
「あー…。今何時…?」
「う~…。あと五分…」
目を覚まさないでいた二人から声が漏れた。
「おお!意識が戻った!」
大きい方の女性が辺りを見渡してぼんやりしていた。
「あれ?ここどこ?」
あっちこっち振り向いては記憶と照らし合わせていくのに、あんまりにも見に覚えがなくてポカンとするその反応。分かるよ。俺はもっと取り乱してた。
それはそれで、隣の小さい子の方がなんか布団ごと浮いてるんだけど…。なんで?
俺はなにから言い出したら良いか大分迷ったが、取り合えず全部ぶつけることにした。
「カヘエさん。鏡ってありますか」
「おうよ」
「それで…そこの人。今は朝。ここはカヘエさんの家です」
「え?…きみ誰?」
「それを説明するよりさきにこれを見てほしい」
カヘエさんから受け取った鏡を渡す。
女性はそこに映った姿を見て絶句した。
「んあーっ!?女になって、え、ちょ、は?」
「今、俺には君が誰か予想はしてるんだけど…一年位前に書いた、自分が異世界転生したら?ってキャラクターの設定、覚えてる?」
「それは覚えてるけど…なんで知ってるの?…あ!?この緑の髪色とかってまさか…アレ!?」
やっぱり。あの夜のメンバー三人とも転生していたらしい。
「そう。アレ。冷静に聞いて欲しいんだけどさ…俺たち三人、異世界転生しちゃったみたいなんだよね」
「ええ!?ちょっと、ちょっと待って。それが事実だとしてだよ。ということは…あなたは…」
「そういうこと。あと、そこでまだ寝ているのも」
俺が指差した小さい子の方ゆっくり上昇と下降を繰り返していたが、やがて天井にぶつかって落っこちてきた
「あたたたた…。もうなにー!?こんな乱暴に起こしても逆効果だよ!」
「ああ…。こいつは分かりやすいね」
「だよね。ほら起きて。もう朝だよー」
さぁ。もう一度説明しなくては。
「うえええ!?なんじゃこりゃー!!」
「えっとね…」
「うわ!おっぱいあんじゃん!と、いうことは…?ああ!息子がいないんだけど!」
俺と同じ反応してる…。
「ちょっと落ち着いて話聞いてくれる?」
そうして話終わり、互いが誰か、ここはどこかを理解した俺達は第一回転生者会議を始めた。
最初の議題は名前だ。これはお互い設定通りということで即決された。
「俺はセルリオ・ジン」
「ボク…あーいや、わたしはユリス・ラース・ゲバルドラッシォン。縮めてユラゲでいいよ」
「うちはリンで」
「よし」
次の議題は外観や能力など設定の復習である。
「俺はショゴスだ。他の生物に変身出来る。あとくさい。」
「えっとね、わたしは普通にホモサピエンスだったはず。力が強い設定にしてあったはず」
「うちは霊族。存在感が薄い」
「よし」
さらにスキル問題。
「俺は『愛用のタロットカードを引き、能力発動』ってやつなんだが…カードがない」
「あー『舐めるとそのものの状態がわかる』ってやつなんだけど、どう発動したらいいんだ?」
「うち『存在が薄くなる』」
…。
これは…そうだな…。
「助けてカヘエモーン!」
俺渾身の懇願をカヘエは「うっさいわ」と一蹴した。
「後で教えてやるから早く飯食わんか」
こうして第一回転生会議は終了した。
「おまえさん、だんだん態度が大きくなってきたのぅ」
カヘエの愚痴を平伏しつつ聞き流して教えを請うた。
「スキルの発動は簡単じゃ。頭の中で『スキル発動!』って念じればよい。意思の問題じゃな。しかしスキルが何をどうする能力なのか明確にきめておくことが必須条件じゃ。スキル自体強い力を持つものだが、あまりに強大な力には発動に条件がつくこともある。さらにスキルは内容を微妙に変更したり追加したりすることもできるが、それによって発動条件が変わってしまうこともある。まぁ、とりあえずは慣れることじゃ。身体を鍛えれば動きが素早くなるように、熟練してくればスキルも向上するものだからのぅ」
カヘエはユラゲに汁物を渡した。
「おまえさんは舐めたものの状態を知るスキルじゃったのぅ。この汁の原料を全部当ててみなさい」
リンには庭へ出るように言った。
「庭の鶏小屋に言って卵を取ってこい。ただし鶏に鳴かれたり突つかれたらやり直し」
「うーん、そのうちね」
「さっさと行ってこい!!」
俺は座禅を組まされた。
「なぜ」
「おまえさんは”たろっとかーど”とやらが無いと発動できないスキルだからのぅ。しかしそんなカードは知らん。ばあさんなら詳しいかも知らんが…」
「わたしも知らないですねぇ。わたしもいっぱしの占い師でしたけど…こういうカードなら」
そう言って見せてくれたのはタロットカードによく似てはいるが絵柄のよく分からないカードだった。
「似てるけど違いますね」
「そうじゃろうのぅ。だからお前さんが作るのじゃ」
「え…そういう感じ?」
「そうじゃ。今日は仕事はせんでいいからそのカードをよーく思い出しておくんじゃな」
俺は縁側に座って風の音を聞いていた。心臓が穏やかに脈を打つ。
半分眠ったような心持ちで俺はじっと自分が使っていたタロットカードを思い出していた。
タロットは22枚の大アルカナ、56枚の小アルカナと呼ばれるカードで構成された伝統的な占いの道具だ。
大アルカナは愚者、魔術師、運命の輪などの象徴的な図柄が描かれている。
小アルカナは14枚ずつ棒、杯、剣、金貨の4種に分けられる。それぞれ火、水、風、土の属性を持ち、火は生命力や情熱を表すなどとされ、この世のだいたいのことはこの4属性に分けられる。
さらに1から10までは数字のカード、11から14までは人物象のカードである。数字にも意味が込められているため、描かれている図柄は1枚1枚違う。
俺の使っていた基本のカードはこんな構成だった。
そして1枚ずつ思い出せる限りの絵柄と意味、過去占って出た結果や思い出を噛み締めるように想い起こしてゆく。
思えば占いを始めたのは自分の恋愛運が知りたかったけれど占い部屋に行ったり相談したりするのが恥ずかしくて「じゃあ自分で占えばいいじゃん」と考えたからだった。
懐かしい。結果に一喜一憂したり、意味わかんなくて理解を放棄しかけたり、気になる子との相性を全員分占ってみたり、それでまたショックしたり納得したり…。
その日の運気を占って、後から見返すと結果通りでびっくりしたこともあった。
まさに自分の心を写す鏡だと思ったときもあれば、年長者に叱られているように感じたときもあった。
難しくも楽しくもあった、味わい深い孤独の時間。
俺とタロットはそんな一時を共有した仲。そして俺にとってタロットは良き相談相手だった…。
夕方、カヘエは夕飯の材料を抱えて帰ってきた。
「どうやら上手くいったようだのぅ」
カヘエは上機嫌に笑った。
居間に置かれた山盛りの卵が置かれ、リンは布団で丸くなっていた。
「寝とらんでどんな風にやったのか説明してみぃ」
布団の中から呪いのような声が漏れてくる。
「…この世界のニワトリこわい…。なんで大人の身長と同じくらいあって狂暴なの…」
そうじゃのぅ。儂も吃驚したわい。
「リンは合格じゃな。して、次はユラゲじゃが、どこぞ?」
ユラゲは調理場で鍋をかき混ぜていた。
「おまえさん料理ができるのか?」
「あ、おかえりなさい。とりあえずこれを食べてもらえますか」
カヘエは渡された汁を啜った。
「これは…!」
「どうですか?おばあさんの料理にそっくりじゃないですか?ついでに分量もわかったので再現したてみたんですが」
「ふむ。文句なしの合格じゃ」
最後にカヘエは瞑想しているセルリオがいるはずの縁側へやって来た。
セルリオはぐぅぐぅと寝息をたてていた。
「こいつ…ちゃんと特訓する気あるのかのぅ」
そういった後でカヘエは相貌を崩した。
「いや、要らぬ心配だったようじゃな」
眠りこけるセルリオの手には一組のカードデッキが握られていた。
翌朝。
「ふはははは!こうなったうちを捕まえることなどできまい!」
「うるせぇー!嘗めてやろうか!」
「出でよマイカード!」ボンッ。「終了!」ボムッ。「出でよ!」ボンッ。「終了!」ボムッ。「出でよ」ボンッ。
「朝から五月蝿いわ!黙って水を汲んでこい!!」
カヘエは3人を追い出して「まったく…」とため息をついた。
「にぎやかですね。おじいさん」
「にぎやかも限度があるわい」
「まぁ良いじゃないですか。こういう朝も今日までなんですから」
「そうじゃがのう…」
スキル発動もできるようになり、カヘエは頃合いとみて今日が出立の日となった。
朝食を終えた俺たちは身支度を整えていた。
「あーなに持っていこう?」
「とりあえず水!水があれば3日は生きてられるって聞いた」
「あと保存食。あと俺は消臭剤を…」
「おまえさんたち。これは餞別じゃ」
そう言ってカヘエは銀貨を1枚ずつ。そして俺に初めてあったときにぶっかけた液体をくれた。
「1枚だけじゃがこのあたりの宿屋なら数日分の宿代にはなる。液の方は”消臭液”と言う物で、少し値が張るが、この先の街でも買えるぞ。翻訳石も…まぁ余りもんだからのぅ。高価な道具こそ使われてなんぼじゃ。ここの言葉を覚えるまでは付けていけ」
「こんなに俺たちのためにしてくれて…。カヘエさんに出会えなかったら、野垂れ死んでいたかもしれない。それにスキルや餞別まで…。本当にありがとうございます!!」
俺は心からの感謝を述べた。
しかしカヘエはそっぽを向いてしまった。
「ふん。いつか返してくれればいいぞ。期待せずに待っとるからのぅ」
「ツンデレだ」
「あーツンデレだね」
まったくツンデレじいさんめ。
「それじゃあ、行ってきまーす!」
俺たちは最後にカヘエ夫婦に頭を下げ、それから歩きだした。
目指すはここから最寄りの街であり、そこそこインフラや物資が充実しているというフジェーダという街だ。
いよいよだ。俺たちの冒険はここからだぜ!
残されたカヘエ夫婦は家に戻った。先程までの喧しさが嘘のように静まり返っている。
「静かで清々するわい」
「うふふ」
おばあさんは笑った。
「なにがおかしいのじゃ」
「だってあんなり名残惜しそうなおじいさんを久しぶりに見たものですから」
「うるさいわい」
「でも懐かしかったでしょう?」
「ふん…」
たしかにカヘエは懐かしさを感じていた。自分の旅立ちの日。そして冒険の日々も思い出していた。
「旅、したくなったのではありません?」
「いまさらじゃのう。儂も歳じゃ。それに足腰が痛いだのとぬかすお前を置いては行けんわい」
それはカヘエの本心であった。しかし同時に強がりであることもおばあさんは見抜いていた。
「…ここから五日ほど行ったところに温泉があるらしいですよ。なんでも関節痛にとても良く効くとか」
カヘエはそれを聞いてしばらく黙りこくった。そしてぼやくように言った。
「…行きたいか?」
「はい」
「そうか」
カヘエは『秘密と隠し棚』を発動して、大きな風呂敷を取り出した。
「ほら。なにをしておる。さっさと準備するぞ。時間と腰の痛みは待ってくれないからのぅ」
「はいはい」
おばあさんは軽い足取りで荷仕度を始めたのだった。