3ー001 ~ 妖精
「ミリィ!!」
ノンが叫ぶ。ほぼ同時に木の葉が擦れる音がし、ノンが指差した方からヘビが飛び掛って来るのが見えた。その顎はミリィの腰幅よりも大きく開いていた。
ミリィと呼ばれた娘は咄嗟にしゃがんでいた枝から立ち上がり、そのままの勢いで斜めに飛ぶ事でヘビの牙からかろうじて逃れる事ができた。
跳蛇と呼ばれるそのヘビは、ミリィやノンたちが木の実などを採る森にはめったに居ないはずなのに、と、ミリィはその胴体と尻尾が自分の体に当たるのを、まるで時間がゆっくりになったかのように感じ、直後に来るだろう衝撃を覚悟することしかできなかった。
崖の上に張り出した枝についているアぺルの実を採るところだった。
そのヘビは名前が示すように体全体を縮めて伸ばし、跳ねて移動をするヘビだ。
たまたま崖の上の茂みにでも隠れていて、そこから跳んで襲ってきたのだろう。
「うっ!」
ヘビに撥ね飛ばされるのは覚悟していたが、最初に回避するために飛んだのもあって勢いがついていた。
ちょうどその先には太い枝があり、ミリィは背中から後頭部をその枝に打ち付け、跳ね返るように崖下へと転落していった。
獲物を逃したヘビは、ミリィが居た枝に胴体を巻きつけて落下を防ぎ、次点の獲物であるノンの声がした方へと首をめぐらせた。
落下していったミリィを案じて今まさに『ミリィ!!』と再度叫ぼうとしたところだったが、そのヘビが自分を探していると察して声を殺してその場を離れて行った。
ミリィの事は心配だが、崖から降りてはいけないと言い聞かせられていたし、危険な跳蛇も居る。ノンだって自分の身のほうが大事だし、急いで村に戻って大人たちに報せる事にしたのだった。
●○●○●○●
崖下に転落したミリィは、途中の枝葉のおかげで大怪我はしなかったが、気を失っていた。
そこに、たまたま休憩中に何かに刺されたのか、嘶いて駆け出した馬を追いかけてきた男がやってきた。
「はぁ、はぁ、やっと追いついたぜ、崖のところまで来ちまったじゃねぇか、何のために休憩したんだかわかりゃしねぇ…、って何だこりゃ?、人形…?、にしてはすげぇ出来だな」
立ち止まって下を見ているかのような馬に気付いて地面を見ると、1テラ(彼らの使う長さの単位。20cmぐらい)より少し大きいぐらいの人形が落ちていた。
拾い上げてみると、まるで人種をそのまま小さくしたようなしなやかさがあった。
「うわっ、何だこれ、人種か!?、とにかく旦那んとこ持ってくか」
彼は片手でミリィを持ったまま器用に馬に飛び乗ると、片手で手綱を操って街道のほうへと馬を歩かせた。
「おお、心配したぞ、パトリー」
「遅くなりやした。旦那、ちょっとこいつを見て下せぇ」
街道脇の休憩所、という訳ではないが、彼らのような行商人たちがよく焚き火をしたりする、少し広い場所まで戻ったパトリーは、軽い身のこなしで馬から下りると旦那と呼ばれた男に手に持ったミリィを見せた。
「こりゃあ妖精かもしれんな…」
「妖精?、…ですかい?、羽がありやせんが…」
「背中を見てみろ、服に大きく穴があるだろう?、それで背中には羽がついていたかのような痕がある」
パトリーにはそうは見えず打ち身の痕にも見えたが、逆らわず返事をした。
「なるほど、それで妖精…」
「ああ、時々こういうのを見つけることがあるらしい。捕まえたのか?」
「いえ、落ちてたんで」
「落ちてた…?」
「へぇ、なんで拾ってきたんでやすが…」
「ふーむ…、そうか!、お手柄だぞパトリー!」
この旦那、行商のようなことをしているが複数の町に商店を持つ結構なやり手である。その名をエクイテスと言う。
彼は少し考えてから、納得が行ったのかパトリーを褒めた。
「へ?」
「セルミドアじゃ買い手は付かんだろうが、交易所のあるヘムロッサまで行けば高く売れるぞ!」
「へ、ヘムロッサですかい!?、旦那そりゃとんぼ返りじゃねぇですか!」
「いや、今すぐって話ではない、私だってセルミドアで商うために戻って来たんだ、それが終わってからの話だ」
「はー、驚かさねぇで下せぇよ」
「はははすまんすまん、こいつが売れたらお前にも分けてやるからな!」
「そいつぁ…期待していいんですかい?」
「売れたら、な。おっと、逃げられないようにしなくちゃな」
言うと、彼は馬車の積荷から紐を出し、その馬車の脇にいた傭兵に渡してパトリーが持っている妖精を軽く縛って逃げられないようにしておくように指示をした。
そして荷台に乗ってごそごそと探し始め、ついには他の傭兵にも指示して木箱をいくつか荷台から運び出し、あけては探し、また別のをあけては探し、やっと目的の箱を探しあてた。
それは上半分にスリット状の穴が多く開けられた、要所には金属が当てられている、なかなか重厚な印象のする横幅2テラ(彼らの使う単位。2テラは40cmちょい)ほどの箱だった。
「こんなこともあろうかと、高価な小動物用の箱を入手しておいて良かったな。おい、そいつをこの中に入れるんだ」
「「へい」」
エクイテスは箱を開くと布を畳んで敷き、パトリーらがその中にミリィを寝かせると小さな皮袋を2つ入れ、上蓋を閉じて金具をかちゃりと嵌め、鍵穴に鍵をさして鍵をかけた。かち、と乾いた音がした。
「えらく厳重ですね」
「そりゃあ簡単に逃げられちゃ困るからな」
「さっきの袋は何なんです?」
パトリーは自分の仕事は終わったとばかりに、木箱を馬車に積むよう指示された者を手伝いに行ったが、先ほど紐でミリィを縛るように指示された男がエクイテスに尋ねた。
「あれはな、『魔砂漠』の石だ」
「魔砂漠の石?、ってあの魔砂漠ですか?」
「ああ」
「あんなとこに石なんてあるんですか?」
「私もよくは知らんが、魔砂漠の砂を加工して作るらしい。魔法を封じる効果がある」
「へー、そうなんですか…」
「罪を犯した魔導師なんかに使うものだそうだ、ちょいと伝手があって欠片を貰っておいたんだ。欠片とは言え下手な魔導師なら1つでも魔法が使えなくなるそうだぞ」
「へー、すごいですね。それで妖精が逃げられないように、ですか…」
「まぁ実際どれぐらいの効き目があるのかってところだがな、なんせ妖精だからな、羽が無いから飛べんだろうが魔法で逃げられちゃ困るんでな、ははは」
そう言うと箱を『よっこらせっ』と持ち上げて馬車に乗せ、自分は御者台へとよじ登り、見回して傭兵たちが騎乗したのを確認して進発の合図を出した。
●○●○●○●
エクイテス一行が港町セルミドアに到着したのはその日の夕刻、あたりが茜色に染まり始める頃だった。
彼の店の裏手には馬車止めや厩舎があり、彼やその従業員、傭兵が住む家がその広場を挟んで店の裏に並んでいる。その広場も含めて彼の所有地なのだから言ってみれば中庭のようなものだ。
彼はそこに馬車を停めて出迎えた従業員らを労い、荷下ろしの指示を出し、自分はミリィを入れた箱を抱えて自宅へと入って行った。
傭兵たちは厩舎で自分たちの乗ってきた馬の世話をし始めた。
余談だが、傭兵と言ってはいるが、エクイテス商会に雇われた警備員兼従業員だ。だから行商に同行し、荷下ろしもするし馬の世話だってする。商店で客の相手はしなくてもいいが、店での警備も行うし客から話しかけられれば相手をすることもある。当然、住み込みのようなもので住居を宛がわれているし、食事も出る。その場雇いの傭兵などよりはずっと待遇がいいと彼らも満足して勤めている。
「ドロシーさんにあの妖精を持ってったのか、いいとこあるぜ、さすが旦那だ」
「え?、ヘムロッサで売るんじゃねぇのか?」
「そりゃあ少しの間だけでも慰めになろうってもんだろうがよ」
「そっか、そうだよなぁ、かわいそうだもんなぁドロシーさん」
「ああ、お前ドロシーさんに入れあげてたっけな」
「そういうお前だって、しょっちゅうコイントスで飲んでたじゃねぇか」
「まぁそうだがよ、もうあの歌声が聴けねぇのは寂しいなぁ…」
「そうだなぁ…」
エクイテスにはこの港町に最近囲ったドロシーという愛妾がいる。
この港町一番と評判の酒場で歌っていた娘だったのだが、不幸なことに彼女は風土病とも言われる病でノドをやられ、歌うことができなくなってしまった。
伝染病ではないのでうつる事はないのだが、伝染することを恐れてか、その娘に触れることをほとんどしなくなっていた。
彼女は酒場で歌っていた頃は張りのある薄褐色の肌に美しく通る声で人気があったのだが、エクイテスに囲われてひと月もしないうちにその風土病を発症してしまったため、囲われてはいるがあまり構ってはもらえず寂しい生活をしていた。下世話な言い方をすると、生かさず殺さずというのがぴったりだろう。
どうしてかというと港町での評判に影響するからだ。
なので罹患したドロシーを放逐することもできず、内心では厄介な娘を抱え込んでしまったと思っている。
だが、かいがいしく世話をするところを人々に見せたり、服や薬を買うことで人情に厚く良い人物だという評判によって商売が上手く運んでいることも認めている。
つまりドアの内と外でドロシーに対する態度ががらっと変わるのだ。
そして、傭兵たちが言っていたように見舞いや慰めに見えてはいるが、実はそうではなく、他所の町に出るまでの間、この妖精の世話をしろと厳重な箱に入れられたミリィを預けたのだ。
西側の窓から差し込む夕陽で中が照らされる部屋からエクイテスが出て行き、おそるおそるテーブルの上に置かれた箱に近づいて覗き込むドロシー。
その箱の上蓋の隙間からミリィが横たわっている様子が見える。
世話をしろと言われたが、がっちりとした上蓋はほとんど金属性で、横の金具には鍵穴らしき穴がある。当然、鍵は渡されていないのでエクイテスが持っているのだろう。
「妖精さんなの?」
掠れ声で呟いてはみたが、腫れ気味のノドが痛み、咳き込んだ。咳のせいでさらに痛む。
ドロシーが苦しそうに咳をしたせいではないが、ミリィが目を覚ました。
『…うう~ん…、痛たたた…、あれ、ここ、どこ?、何これ…』
上蓋の隙間から差し込む茜色の光で少しだけ自分の周囲が見える。
『これって…、あたし…、捕まっちゃってる!?』
●○●○●○●
ようやく咳と痛みが耐えられる程度に治まり、ベッドに戻って突っ伏していたドロシーは、ベッド横のテーブルの水差しからコップに水を注ぎ、少しだけゆっくりと水を飲んだ。
そうして落ち着いて座ると、その敏感な耳に箱の中からトントンという音と小さく甲高い音がするのに気付いた。
何だろうと覗き込むと、妖精が箱の中で立ち上がって両手で内側を叩き、何か叫んでいるように見えた。
『出して!、出してよ!、お願い!、ここから出して!』
よく見ると泣き顔のようだ。
何とかしてあげたいけど、自分にはどうしようもない。
『お願い!、ここに居ると何だかつらいの!、助けて!』
何を言っているのか全くわからないが、その様子からも出して欲しいのだろうということぐらいはわかる。
「(ごめんね、出してあげたいけど、私にはできないの…)」
今は声が出せないので口の動きだけでそう言ってみたが、伝わった様子はなかった。
困ったような表情をするしかできない自分は、何と無力なのだろう。
見ていても切ないだけなので、箱から離れてしょんぼりとベッドに腰かけた。
言葉の通じない妖精の世話を、箱の鍵も渡さず病気の自分にさせようというエクイテスは何と酷い人だろうと思った。
(こんな人だなんて思わなかったわ…)
とは言え、病気になった自分を捨てずに最低限の世話はしてくれるところにだけは感謝している。
(いま捨てられたら野垂れ死ぬしかないものね…)
声を失った自分はもう酒場で歌って稼ぐことができない。風土病という病気の身では、もし体を売るとしても買う人なんて居ないのだから。
いつの間にやら箱も静かになっていた。
●○●○●○●
しばらく内側を叩いて叫んではみたが、全く伝わった様子がないので諦めた。
と言うよりも疲れた。
「はー、これだけ言っても反応がないってことは、やっぱりあの大きな人には言葉が通じないってことね…。長老さまの言った通りだったかな」
崖の外にいる大きな人たちとは言葉が通じず、自分たちを捕まえて閉じ込め、見世物にすると教えられた。だから森の外には出るなと。
「全くもう、首と背中は痛いし、回復しようとしても何かうまくいかないし…、何なのかな…」
文句を言ってみたところで、誰に聞こえるわけでもなさそうだ。
でもぶつぶつ言うのがミリィの性格だ。
「あーあ、ノド乾いちゃったかなー、おなかすいたかなー」
両手を受け皿にして水魔法を使ってみたが、やっぱりうまくいかない。
「おっかしいなぁ…、うーん、もっと頑張れば水出せるかな?」
頑張ってみた。
「うーん!、うーん!、水ぅ!、出ろー!」
ちょっとだけ出た。急いで飲んだ。
「はぁ、はぁ、すっごい疲れる!、割に合わないかな!」
いつしか日も沈んだようで、もう薄暗くなっていた。
「あーあ…、あたしどうなっちゃうのかな…」
薄暗さもあって不安になってきた。
「ああっと、泣いたら水が勿体ない。がまんがまん。とにかく眠るしかないかな…」
少しの水を出すにもあれだけ苦労するのだから。
眠って回復しなくちゃ、と前向きに眠ることにしたミリィだった。
●○●○●○●
ヤナが食事をもってきた。
またとろみをつけた芋と肉のスープだけだった。
肉も芋も煮込みすぎて溶けてしまっていて、小さな欠片ぐらいしか残っていないが、ノドが腫れていて痛いので固形物はたぶん飲み込むのがつらいだろうとドロシーも思うのだからこれで我慢するしかない。
ヤナは持ってきたワゴンに乗せられたランタンを、無造作にテーブルの上にがしゃりと音を立てて乗せた。安物の油が燃える匂いがして、ドロシーは口元を手で覆った。
ただでさえ大していい香りではないスープの、それでも食べ物の香りだったのが目の前に置かれたランタンのせいで台無しだ。
先週、もっと早く用意してくれればランタンが要らないのにと文句を言ったら、食事の時間が遅めなのは、煮込むのに時間が掛かるからだと言われた。
恨めしそうにランタンを見たドロシーに構わず、同じテーブルの上に置いてあるミリィが閉じ込められている箱を胡散臭そうな表情で覗き込んでいたヤナは、ドロシーを見た。
「これが旦那様が捕まえてきたって妖精かい?」
こっちを見て言われたので頷く。
「羽が無いけど本当に妖精なのかい?、しかし世話しろって言われたってねぇ…」
そういいながらワゴンの下段に置いていたのだろう藁束を箱の横に置いた。
ドロシーの視線を感じたのか、彼女を見て言う。
「これかい?、旦那様が言ったんだよ。水を欲しがったら箱の隙間からこれで吸わせろってね。さ、早く食べとくれ。私だって忙しいんだよ」
そう言いながらランタンをまたワゴンに乗せ、部屋から出て行ってしまった。
(どうせ朝まで回収に来ないくせに…)
先週は燭台の蝋燭に火を移してくれていたが、ここ最近してくれなくなった。それどころか燭台には蝋燭自体が無い。補充されていないのだ。
幸い、南側の窓から月明かりが少しある。少し目を閉じていれば多少は目が慣れて見えるようにはなるだろう。
そして目を開け、ランタンの臭いが残る暗い部屋で、木の深皿に入れられたスープを木の匙で少しずつ飲んだ。
(この食器だって、前は金属や陶器だったのに…)
この館での自分の扱いを物語っているが、身体に力が入りにくい現状では、軽い食器類のほうがいい面もある。好意的に考えれば病気の身を労って軽い木製品に代えてくれたのかも知れない。
(でも、せめてちゃんと乾いてから使ってほしいわ…)
彼女が使った食器類や衣類は、感染対策なのか、薬液――薬草を使ったもの。消毒のような感じで使われている――入りの水にしばらく漬けられてから乾かしているようで、少し薬臭い。
ヤナの手抜きなのかどうかはわからないが、食器類は漬けっぱなしで、使う直前に軽く水洗いをするだけなので、乾いていないのだ。
そりゃあとろみのあるスープに使った器を、すぐに回収せずに朝になって回収するのだから固まってしまって落ちにくいだろう。ごしごしやらないととれないから、漬けっぱなしにしているのかも知れない。それはわかるがやっぱり手抜きだろうとドロシーは思う。
ドロシーが罹かった風土病は、老齢になって発病した場合は長くかかるが若いほど進行が早く、その部位にもよるがノドの場合は発病してから1年も持たないと言われていた。
この港町セルミドアの南東に広がる砂漠の奥、魔砂漠と呼ばれる砂嵐の止まない場所の砂が原因とも、この町で作られているサボテン酒や食品が原因とも、いや井戸水のせいだとも、魚介類のせいだとも言われているがどれも決定的ではないとされている。
他の町には見られない病気だから風土病と呼んでいるが、他の町の者らはセルミドア病なんて言っているそうだ。
風土病だが患者は多くない。どちらかというとめったに居ない。統計を取った者がいるわけではないが、金持ちのほうが罹かりやすいなんて言われていたりする。人口千人足らずのこの港町で、ドロシーを含めて患者は数人しか居ないことからも伝染病ではないのだが、伝染るかもなんて言う者らも少なからず存在するというのもあって、患者は忌避され隔離される傾向にある。
(若いと早く死ぬって言うし、私ももう長くないんだろうな…)
ドロシーは熱でぼうっとした頭でそんな事を思った。
ふと箱に視線をやる。
(このかわいそうな妖精さんも、私が死ぬ前に逃がしてあげられればいいのだけど…)
そんなことを思ったが、頑丈そうな箱にがっちりとした金具がついているのだ。鍵を持っていないドロシーにはどうしようもなさそうだ。
ふと、店で歌っていた頃の夢を見て目が覚めた。
(そうよ!、どうして忘れていたのかしら。あっ、えーっと、あの吟遊詩人、何て言ってたっけ…?)
この港町が故郷だと言うその年老いた吟遊詩人は、郷愁に駆られての里帰りをしたのだと言っていた。店の外にかすかに聞こえるドロシーの歌声を耳にして、ふらりと店に入ったのだった。
そして、『素晴らしい歌でした。歌う気は無かったんですけどね、その美しい声のお礼です』と言って、1曲歌ってくれたのだった。
この港町に現在のような囲いが無かった頃に起きたことを詩にして、彼はリーラ(弦楽器の一種)を抱えて奏でながら歌っていた。
(病が流行して、町から追い出されて、途方に暮れていた病気の人々のところに、誰かやってくるのよね、それで、お薬作ってみんなを治すんだっけ…)
よくある事だが、そういう歌では事実を都合の良いように変えてあるものだ。
この場合も例に漏れず、実際は流行り病ではなく現在も残っていてドロシーが発症した風土病だった。
それに、手遅れ状態の患者は治すことができず、亡くなった者もいた。命の危機から逃れ完治した者は多いが、全員を治せたわけではないのだ。
すぐに薬を作れたわけでもない。診察をし、調べるという日数もかかっていた。
原因も特定できなかった。しかし対症療法的な投薬と、そのひたむきさと熱心に研究する姿が人々に希望を与えたのだ。
当時の彼にはどうして自分には罹からなかったのか、ここに集まった患者たちはどうして快方に向かい、完治したのかということについて、ついに理解することができなかった。
(あっ、『魔導師の家』!、そうよ、そう言ってたわ!、それでそこなら今もあるぜ、って誰かが言って、えーっと…、浜沿いに東に行くとあるとか、それで詩人さんが喜んでたっけ…)
ドロシーは思い出せなかったが、その吟遊詩人もそこで命を救われたうちのひとりだったりする。
彼はその話を聞いて、翌日に魔導師の家へと赴いてから、そのままこの港町セルミドアを離れ、現在彼が住む街への帰路に着いた。
(そうだわ、魔導師の家よ!、そこに行けば私の病気も治せるお薬があるかも知れないわ!、歩けるうちに行かなくちゃ)
吟遊詩人の詩にまでなっているその魔導師だが、元々は魔導研究所の研究員として魔砂漠を調査するために港町セルミドアへ来ていて、砂漠の植物を採取したり、土や砂を採取して戻る途中、町を追い出された人たちに遭遇したのが発端だったりする。
薬草学もそれなりに修めていた彼は、副収入を得るために薬を作ってそれを扱う店などに卸したりしていたのもあって、病気で追い出された人々の集団というのは見過ごしたくないものだったのだ。
それがそういうことになり、何故か良くなり完治したのは自分のおかげということになってしまった。
その病の原因を究明してやろうという探究心によってしばらく暮らすべくその地に研究室つきの家を建てたのだが、彼が名付けたわけではないが、感謝する人々から『奇跡の薬師』と言われて慌てて自分は魔導師だと訂正したことで、いつしか『魔導師の家』と呼ばれるようになっていた。
実際、彼が作って患者たちに与えたのは滋養薬や痛み止めがほとんどである。彼自身、そんなことは重々理解していたので、本当に治療薬が作れるまで研究を続けていくつもりであった。
自分が治せたわけではないのに心からの純粋な感謝と好意を向けられ、彼ら彼女らだって毎日生きていくのが精一杯だというのに食料品などを持って来る。受け取っても断っても好感度が下がらず、彼が何をしていても好意的に解釈されるのだ。
そうして人々から感謝される毎日は、徐々に彼にとっては精神的な負担となっていき、ついに心の天秤が傾き、彼は逃げるように都へと去ったのだった。
都へ戻った彼は、魔砂漠の研究をしながら薬草学に打ち込むようになり、気がつけば『薬草学の第一人者』などと言われるようになったが、彼自身は全く満足できなかった。
彼の心には、港町セルミドアの風土病のことがずっとしこりとして残り続けていたからだ。
時が経ち、年齢を理由に周囲には惜しまれながらも魔導研究所を退職し、港町セルミドアに移り住んだのだ。ずっと気掛かりだったその病を究明するために。
そしてその『魔導師の家』に戻って驚いた。
建物は残っていたとしても、中は荒れ放題だろうし道具類も朽ちて使えないだろうと思って人を雇い、多くの器材や薬品を運んできていたからだ。
家の中は清潔で手入れが行き届いており、すぐにでもここで生活ができるような状態に保たれていたのだ。
道具類も同様、とまでは行かなかったが、それでもできるだけ整理整頓されて保全されていた。簡単な道具はともかく、複雑な道具や器材は、それを使う者でないとやはり正しく維持管理ができないのは仕方ないだろう。
それからは彼がこの地に戻ったことを聞きつけた元患者たちがよく足を運ぶようになった。
そんな頃、現在から10年ほど前だが、この地の沖合いで船が難破したのだろうか、樽が近くまで流れてきて、それを漁師が見つけて持って帰ってきた。
そこに入っていたのは4歳か5歳ぐらいの子供で、かなり衰弱していたため、魔導師の家に担ぎ込まれたのだった。
なんとか回復したその子供に何があったのかと尋ねても答えられず、記憶の混乱がみられたが、彼の元で療養しているうちにそのまま居付いてしまった。互いに身寄りもなく、その子だって流れ着くまでのことを思い出せないのだから仕方が無い。
それに、ここに来るのは爺婆ばかりでもあるので、子供は喜ばれ、猫可愛がりされて育った。
そしてついに魔導師自身がその風土病を発症した。
老齢なので進行が遅かったのもあり、最初は発症したことにも気付かなかったが、それから8年ほど患ってついに力尽きた。
その間に、その子にはできるだけ薬草のことや魔法のことを伝えたが、そんなもの全て伝えきれるはずもなかった。
そのうち、この家を訪れる者もひとり減り、ふたり減りと、皆老齢というのもあってだんだんと減っていったのだった。
ドロシーは知らない。
『魔導師の家』にはもう頼れる魔導師は居ないことを。
●○●○●○●
「ねぇ、アンタたちエクイテスの人でしょ」
いつものように夜、コイントスで若い娘の歌声を聞きながら飲んでると店の給仕服を着てはいるが少し派手な印象のある娘から声をかけられた。
「そ、」
「そうだが、確かデイジィさんだっけ?、珍しいな、アンタからお声がかかるなんてよ」
パトリーが返事をしようと口を開いた瞬間、横の同僚が先に返事をしてしまった。
そのうえ有名なこのコイントスという酒場のオーナーの娘だった。しかも美人。女性慣れしていないパトリーが絶句したタイミングだった。
話しかけられたのは俺なのに、女慣れしているこの同僚が返事したせいでデイジーちゃんの視線まで持っていかれたじゃないか、と一瞬憤りかけたが、たぶん自分ではこんな美人に見られながらまともに会話ができるとは思えない。赤面してしどろもどろになるのがオチというものだろう。ある意味助かったのか、と思い直し、他の3人がガハハハと笑うのに合わせて笑顔を作った。
何か笑うようなところがあったのかはわからないが。
「バカね、そんなんじゃないわよ。ね、ドロシーは元気にやってるの?」
「ん?、ドロシーさんなら今日も窓際に姿を見せてたらしいし、元気なんじゃないか?、なぁ?」
「ああ、俺たちさっきこの町に帰ってきたばっかりでよぉ」
「そうだったの。あたしも気になってて、お見舞いに行こうって思ってたんだけど万が一うつったらって行かせてもらえないのよ」
風土病はうつらないと偉い人たちは言ってるけど、町の者はそう思ってない人のほうが多いみたいだからなぁ…。
「デイジーさんは優しいなぁ」
「そんなんじゃないわよ、あの子ついこないだまでここで歌ってたでしょ?、だからよ」
「見舞いといやぁ、旦那が旅の土産をドロシーさんに持ってってたな」
「旅の土産?」
デイジーちゃんがどんな土産物なんだろうと興味を持ったそぶりを見せると、同僚は小さく手招きをして内緒話をするように手を口元に立てた。
それに疑うことなく豪奢な髪を片手で軽く寄せて耳を同僚に近づけるデイジーちゃん。
おい!、何てうらやま怪しからん事を!、そんな手があったなんて、これは絶対どこかで見習って使わなくては!、と心にしっかりと記録しつつ、何となく自分も隣のその同僚の近くに顔を寄せてデイジーちゃんの髪の香りを堪能した。すんすん。
「ああ、聞いて驚くなよ?、なんと妖精を捕まえたんだ」
「よ、妖精!?」
驚いたように一歩ひいて俺たちを疑うように見回すデイジーちゃん。
その腕を掴んで引き戻す同僚。
え?、いいのか?、おさわり厳禁じゃなかったのか!?、この店。
「しーっ、声がでかいって」
「あ、ごめんごめん、それでそれで?」
同僚の腕を振り払うことなく、そのまま耳を近づけるデイジーちゃん。
それに合わせて自分も顔を寄せる。すんすん。はーいい匂いだなぁ…。
「羽がないんだが、旦那の話では妖精で間違いないんだそうだ」
「ふんふん」
「それでドロシーさんの病気が少しでも良くなるならって旦那が持ってったんだよ」
「へー、妖精かー、いいなぁ、そんなの貢いでくれるような旦那様で…」
デイジーちゃんは少し顔を離すと、手を胸元で組んで宙を見上げるような仕草で夢を見るかのように言った。きれいだ…。
俺も頑張って自分の女にそんな表情をさせたいもんだ。いねぇけど。
「でも風土病が治ったって話は聞かねぇんだよなぁ…」
つい、俺が呟いた言葉に雰囲気が変わった。
ドロシーさんのことを思って言っただけなんだ、悪気はねぇんだ、と言いたかったが言えずに、しまった、って表情を読み取られた気がする。
「おい…」
「そうよねぇ、ああかわいそうなドロシー…」
デイジーちゃんはそう言いながら離れて奥のほうへ歩いて行ってしまった。
「ちっ」
同僚たちが俺を責めるような目つきで見ている。隣のやつからは舌打ちをされた。
これでも傭兵やって長いし、この界隈じゃ上から数えられるぐらい腕が立つんだがなぁ。
「…すまねぇ」
「ま、まぁ、しょうがねぇさ」
俺が謝るとは思ってなかったのか、ばつが悪そうな顔をしてテーブルからジョッキを持ち上げてエールをぐびりと飲んだ。
●○●○●○●
この『魔導師の家』って町の人たちが言う家は、昔、まだお師匠さんが若かった頃に魔法で建てたんだって。
そのお師匠さんもセルミドア病っていうここの風土病で死んじゃった。んー、2年前だったかな、いや、もう3年経つのかな?
お師匠さんが生きてた頃は町から魔法薬を買いによく人が来てたんだけど、もう来る人もいなくなっちゃった。あ、ひとりだけ、たまに漁師やってるモン爺が様子を見にくるぐらい。
モン爺にはいろんなこと教わったんだよ。魚の獲りかたとか貝の採りかたとかね。
おかげで毎日食べてる。魚と貝と、あと食べられる草かな。海の中の草もね。
好き嫌い?、お師匠さんは好き嫌い多かったけどねー、あはは。
今は収入もないし、モン爺もあまり来れないし、自分でとってくるしかないから好き嫌いなんて言ってる余裕ないかな。
前は町で暮らさないか?、って何度も言われたけど、髪の色が珍しいみたいで町の子供たちに受け入れられなかったんだ。
モン爺にも前はよく言われたけど、今はもう言わなくなった。
何か娘がデモドってどうのとか、孫がとか言ってたけど、デモドって何だろう?
まぁお互いお金がないんだなーってことで、貝とか草とかたくさん採れたらモン爺んちのところに持ってって置いてくることもあるよ。
そんな平和な生活だったんだけど、最近になって魚が少なくなった、ってモン爺も言ってた。貝とか草はまだ採れるんだけど、お金にならないんだってさ。
自分たちが食べるのはいいけど、町の人たちって貝とか海の草って食べないんだって。気持ち悪いとかおいしくないとか言ってさ。慣れればおいしいと思うんだけどなー…。
あ、貝って食べちゃだめな時期もある。何でか知らないけど、何月から何月まではダメって教わった。食べたら死ぬかもしれないんだって!、こわいねー。
そんなこの時期に魚までが少なくなってて、実はピンチだったり。
だから普段あまり行かないんだけど、砂漠のサボテンが生えてるところまで採取に行ったんだ。
お師匠さんがたまに採ってきて、薬にしたり飲み物にしたりしてるのを見てたからね。あ、港町でお酒にしてるのは別の種類。町の西側のところで栽培してるから、それは採っちゃダメって言われた。
心配しなくても町の反対側だし、そんなところまで行かないのにね。
それでサボテン採って、根元に生えてる薬草も採ってたら、でっかいトカゲに襲われたんだ。
びゅん!、って音がしたと思ったら何か飛んできたんで慌てて立ち上がったら脚にそれが刺さったところまで覚えてる。
目を開けたらトカゲじゃなくて、黒髪のお兄さんがボクを見下ろしてたんだ。
次話3-002は2019年08月02日(金)の予定です。
20190921:あとがきに改行を入れて余裕をもたせました。
20250211:いまごろ訂正。 南西に広がる砂漠 ⇒ 南東に広がる砂漠
マジいまごろ‥orz
●今回の登場人物・固有名詞
ミリィ:
箱に入れられた娘。
ノン:
冒頭で叫ぶだけの娘。後に出番があるかどうかは未定。
エクイテス:
商人。騎士じゃ無い。
パトリー:
商人の護衛に雇われた傭兵のひとり。腕は立つらしい。
パトリーの同僚A:
ミリィを縛って、箱に入れるとき解いた人。セリフがある。
パトリーの同僚BとC:
木箱を下ろすのを手伝った人。たぶんセリフある。
港町セルミドア:
港町。入り江を囲むような形で発展した。昔は町の囲いが無かった。
ドロシー:
エクイテスの愛妾。元コイントスの歌手。
別に仲間を斡旋してくれたりはしないし、
どこかの迷宮に飛ばしてくれたりもしない。
アベイル:
ドロシーが囲われている家の執事。
奥さんがドロシーのお世話をしている。
あれ?、登場していないような…
ヤナ:
アベイルの奥さん。ドロシーの世話係。
名前はティアラではない。
ティアラ:
月のひとつの名前。人名ではない。
あれ?、これも出てきてないような…
コイントス:
ステージのある酒場。
アバン:
コイントスのオーナー。剣なんて使えない。
名前出たっけ?
デイジィ:
デイジーの誤り。発音がちょっと違うっぽい。
デイジー:
コイントスのオーナーの娘。歌って踊れる愛嬌のある娘。
ジルバっぽい踊りももサンバっぽい踊りもできるが
色違いじゃないしボスでもない。
ついでに言うと赤毛でもないし賞金稼ぎでもない。
ドロシーのことを気にかけている。
一人称がボクの子:
魔導師の素質がある発育不良な子。
2年か3年ぐらい前にセルミドア病で師匠を亡くした。
ロー:
一人称がボクの子供の師匠。ローは略称。
引退した魔導研究所の研究員。実は薬草学で有名な人。
本名はローバイツ=ディー=トリントス。
トリントス家は彼で途絶えた。
『ディー』の名を継ぐ者だが別に世界の秘密に関わるわけでも
海賊の系譜でもない。
あれ?、名前出たっけ…?
モン爺:
ローの昔馴染み。漁師。ローが若い頃、当然彼も若かったが、
ローの薬のおかげで命を救われた。と思っている。
以来、何かと『魔導師の家』の世話を焼いていた人のうちのひとり。