役立たずの代償
「部屋にどうしても戻れと言ったはずじゃろう」
何故ここへ来た、と問うと小娘は、「お殿様を置いて待っていることなど、私にはできませんでした」と、ちょこちょこと跳ねるようにして駆け寄ってきた。途中、体制を崩して転びそうになったところを抱き止めたが、すぐに小娘の両肩に手を置いて体から引き離した。別れる前の小娘とのやり取りを思いだし、何故そんなことをしたのかと、心臓が駆け巡るのが分かる。
「戻れ、今すぐに。命を絶たれたくなければ」
「構いません。私は貴方に愛される女、……貴方無しでは、もう私の生きる意味はございません」
殿はもう一度突くようにして小娘の肩から手を離す。そして顔を逸らし、小娘の奥の方に立っている門兵に声をかける。
「何故止めなかった」
「申し訳ございません。姫様が誘惑なさったので……」
殿は、その台詞に素直に頷くことができなかった。原因は二つある。“姫様”と“誘惑”。まず、小娘は殿の娘ではなく、側室だ。確かに娘に見えないこともないし、民に一々新しい側室の顔を見せるわけでもない。門兵となれば、兵の下の下。兵と言っても城の状況を一番知らない家臣とも言える。
つまり、娘と間違えても何ら問題はない。それにしては少し年齢が高いとは思うが。
そして二つ目、誘惑……。
十歳の娘がどのようにして誘惑したのか、不思議でたまらない。ゆっくりと視線を小娘に向けると、胸元が大きくはだけ、まだ蕾ばかりの膨らみが隙間から覗いていた。殿は慌てて襟を左右に引っ張り、帯を締める。そして、一言。
「お主の胸で欲情するのは、童貞くらいであろう」
「直球ですね」
すぐに言い返した小娘だが、あまりにも真顔で言う殿が可笑しくて、吹き出してしまう。自分では男など誘惑できん、と馬鹿にされていることを一瞬にして忘れているようだった。一度笑い出したら止まらなくなり、腹を上下させながら跳ねるようにして笑い続ける。
「何を笑っている」
「いえ……お殿様があまりにも真顔で仰るので、つい」
真顔で言って何が可笑しいのか、殿には全く分からない。
困ったように首裏を掻くと、「では、いいから戻れ」と回れ右をさせて、肩甲骨の間をとんと押した。軽い小娘はそれだけで二三歩進み、不機嫌そうな顔で振り返る。
「戻りません。私もここにいます」
「何を言うか。殿の命令だ」
「違背します」
殿は眉をひそめる。違背してまで、小娘が得ることなど何があるだろう。怪我をするかもしれないし、悪ければ死んでしまう。殿と言われるだけ、高い身分であることは明らかである。その分、危険を持つということも。小娘は、自らの命をそこらに転がる石のように扱っているのではないだろうか。弓の練習をしている時に近づいてくれば、怪我をすることもある。今だって、一緒にして無傷でいられると言い切ることはできない。小娘が側室になりたいと志願したこと、その事と関係はないのだろうか――。
いい加減にしないと、罰を与える。そう言おうと口を開きかけたとき、何かが左の袖を擦った。
直後、地面に矢が刺さる。
それを、殿は見開いて見つめる。今の状況をすっかり忘れていた。
「そうか。お前は、先にやって来た友人よりも、後からやってきた側室の相手をするのか」
殿にこんな大きな娘がいないことを、勝幸は知っている。まだ小娘が側室であると伝えていない勝幸でも、彼女が娘でないことは容易に予想でき、少しの会話から小娘が側室であると理解するのに時間は掛からない。
殿は振り返り、小娘がこれ以上前に来ないように手を横に伸ばす。小娘は殿の後ろに隠れるようにして、勝幸を見ている。勝幸の後ろに、弓を抱えた兵がいる。あの矢は、彼が放ったものだ。
「お前にそのような趣味があったとは驚きだ。未だ典影が子供と戯れているところを見たこと無いものだから、てっきり興味がないのかと思っていたのだが」
「たかが友人のお主に、わしの何が分かるというのか」
「たかが友人、されど友人。知人は大切にしておいた方が良いと、昔母上に言われたであろう?」
殿が幼いときに亡くなった母上。年を取るにつれて幼い頃の記憶が無くなっていく。だから、その言葉はとても懐かしかった。
勝幸の母は、勝幸を産んだ直後に亡くなった。どんな顔でどんな声で、母の欠片も知ることがなかった勝幸にとって、息子のように扱ってくれた殿の母上は、親も同然だった。
共に生き、育てられた二人。まさに兄弟のようである。
よくそんなことを覚えていたな、と伏せ目がちに言う。曖昧にしか残っていない母上との記憶。それらが目を伏せただけで昨日のことのように蘇ってくることはない。ぼんやりと、布が時間をかけて水を染み込んでゆくようにしか浮かび上がらなかった。
影で殿の表情を見た小娘は、どう声をかけて良いのか分からなくなった。母上について軽く一言、言うだけで良いのに。その一言が、出てこない。
「そうだ!」
突然、何か思い付いたように勝幸が声を張った。彼の方を見ると、持っていた刀を投げ捨てているところであった。殿は勝幸の行動が分からず問う。
「どうした勝幸、美人を見つけた時よりも良い表情をしおって」
「俺は天才かもしれない。いや、それは昔から誰もが知っていたことだが」
自信気に言う勝幸。誰も勝幸のことを天才だと思ったことはないのだが、本人がそういうのならば下手に口出しをするのは控えた方が良さそうだ。
大きく腕を広げると、大口を開けて言う。
「お前の新しい側室を、俺に寄越せ!」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。聞き間違えかと思ったのだ。まさか、これまで側室を持たなかった勝幸が、今、人の側室を取ろうとするだなんて、誰が想像できただろう。
それが自分だと分かった小娘は、より殿の後ろに隠れた。強く裾を握り、勝幸の元へは絶対に行くものか、と強く訴えているようだ。
「全く」そんな小娘を見た後、殿はため息のような笑いを溢す。「面白くない冗談だ」
その言葉を聞き、勝幸は眉をぴくりと動かした。
「何を言うか」
「人の側室を取ってしまうまで、お主は女に飢えておるのか。そうか、そうか。なら、晴尚に任せれば良い。奴が選ぶ女は、どれも質が良い」
「女に“品質”を求める時点で、お前は腐っている」
きゅっと目を細める勝幸。とても、友人に向けるものとは思えないほど、蔑み、見下し、若干の殺意が放たれている。無理もない。今の勝幸は、友人と話している、という体ではないのだから。一人の人間、そしてその内に潜むどす黒い良心でないものに語りかけているのだ。
何故こんな風になってしまったのか。
「良いではないか。たくさんいる内のたった一人だけを寄越せと言っているのだから。なに、子供もできない役立たずでも良いのだ」
「役立たずなどおらぬ」
「その口が言うか。女を捨てておいて」
「捨てると決めたのはわしではない。家臣がしたことだ」
「他人任せか。家臣を何だと思っている。殿ならば、止めようとしろ」
徐々に強くなる口調。殿はその度に、身の危険が高くなっていることを感じる。いくら勝幸でも、きっとわしを殺してしまうだろう。何故そんなことをされねばならぬのか、というじわじわと滲み出る恨みと共に、わしはそうされるべき人間なのだ、と納得する気持ちがある。
殿には分からなかった。何故親典があの時殿を後継者として名を呼んだのか。
「お殿様」
名を呼んだのは、影に隠れる小娘だった。
「遠慮なさらないで、良いのですよ。今なら、捨てられても辛うございません」
すっと現れたそよ風が、小娘の頬を掠め、こぼれ落ちている髪を揺らす。
「何を言うか」
「良いのです。私は、まだここに来て間もない。今なら、きっと手放しても悔いは残らないでしょう」
握っていた裾を離し、胸の前で手を重ねる。
「馬鹿なことを言うな」
「いいえ。私は、お殿様に役立たずの烙印を捺されてもよろしいのです。私は、家にいてはいけない子でしたので、そこから出ることができれば、何処でも良かったのです……」
何故、そんなことを言うのか。きっとそれが、側室になりたいと志願した理由なのだろう。だが、それを聞いている余裕はない。
「誰でも良かったのです、結局は。……お殿様の身が危険ならば私、この身に変えてお守りします」
殿はその言葉に、強く拳を作った。そして、勝幸の方を見る。一人、兵が刀を構えている。命令されればいつでも斬りかかれる、そう言っているようだ。
「戻る気がないのなら、ここにおれば良い。だが、一つ言っておこう。わしは二度と、『誰でも良かった』とは言わせぬ。ここで良かったと、必ず言わせてやろう」
小娘が言葉を発する前に、いや、言葉に被さるように、殿は声を張る。
「勝幸! お主にやる女は一人もおらん! もう二度と、後悔などさせん!」
それは、殿の決意だった。これまで、何人の側室を棄ててきたであろうか。その中で、その後を行方が分かったものは一人もいなかった。勝幸が言ってきたもので、初めてだった。きっと彼女は、後悔しているだろう。殿の側室となったことを。近所の男と結ばれた方が、ましな一生を送っていただろう。
もう二度と、“側室に”後悔などさせたくない。
殿の真剣な眼差しに、勝幸も声をあげる。
「何だその顔は! 側室に特別な感情でも抱いたか!」
「“大切なもの”のいないお主には、分からぬことよ」
言い返す言葉もなく、口をつぐむ勝幸。後ろで待つ兵に声を掛ける。――行け、と。
「典影、お前は残酷だ。側室を持つことで変わることを期待した俺の気持ちをどうしてくれよう」
勝幸が呟くように言う。瞳には、微かな憂いが滲んでいた。ぐっと瞼を下ろしてしばらく、ゆっくりと開けた。
刀を持った兵は、馬の勢いを速め、どんどん殿に近づく。殿は微動だにせず、小娘が前に出てこないよう手で制止している。
ここで、わしの命は尽きるのか。……そう思うには、とても早すぎた。まだ、やるべきことが、守るべきものが沢山ある。もう二度と、後悔はさせないと決意したばかりであるというのに。
手を伸ばせば、刀の先端が殿に触れることができる距離まで、兵は来ていた。もう、すぐ後には斬られているだろう――。
その時、何かが殿の隣を通りすぎて行った。
止まれ!
そう言ったのは、勝幸と、殿であった。
だが、その思いが伝わることはなかった。
兵の腹には短刀がぐっさりと刺さっている。鎧の隙間を縫って刺され、まるで鎧をも刺し通したように見える。兵はゆっくりと倒れ、主人を無くした馬は鳴き声を上げながらそこらを走り回る。
刀は殿の頬を掠め、雨のように真っ直ぐに流れる。
「……止まれと、言ったのに」
殿の視線の先には、全身黒ずくめの女――くノ一が立っている。城で別れたはずが、殿をつけて来ていたのである。その身軽さから、殿の危険を感じてすぐに飛び出てきて、兵に短刀を刺したのだ。
くノ一は兵を軽々と担ぐと、
「聞け、羽柴一行。今すぐ城に帰り、戦の準備をしろ」
と言った。その言葉に、殿と小娘も驚く。
「兵を負傷させたことは謝ろう。だが、今はこんな喧嘩を長々としている暇が無かった故に」
「久しいな、あねさ」勝幸が言った。「その話、詳しく聞いている暇はあるか」
「無い、のちに話そう。一つ言うとしたら……相手は京極竹四郎、島門王国を治める、ここらでも強い権力を持ったお方だ」