一線の向こう
小娘としばらく何も話さずに歩いていると、いつも以上に弓を構えた兵が櫓に構えているのが見えた。
これは、小娘と少しでも仲を深める良い機会だったのではないかと思う。まだ夜を共にしていないのは、小娘が他の側室と違って、性への欲求を満たすためだけに来たわけではないからだろう。変わった奴は、それなりに中身を知ってから探る必要がある。だが、小娘は例え殿のことを嫌いになっても、側室であることを止めたい、とは言わないのではないかと、殿は少し思う。むしろ、人を、顔さえ会わせるのも嫌になるほど嫌いにならないのではとも思う。感情が淡白だと言えばそうだが、それをはっきりと言うにはまだ早い。
「弓を構えておられますが、敵でもいらっしゃったのですか?」
視線を斜め上に向けながら言う小娘の視線の先には、櫓がある。端から見ればそう思うのはよく分かる。まさか、あれが今回友人を迎える飾り付けだとは思いもしないだろう。
殿は笑うだけで返答を済ませた。小娘は気付いていないのか無視をしたのか、殿を見ようとしない。真っ直ぐに櫓を見つめているだけだ。
直接門に向かって迎えるのでも良かったが、突然兵を進められたら止めようがない。普段はあまり行くことのない櫓に向かっているのは、彼らを観察するためである。
梯子を登り、家臣の手を借りて登りきる。重たい服を着て大変だろうと小娘に手を差し出すが、その前に家臣が小娘の手を握った。何処に向ければ良いのか分からなくなった手を柵に置き、
「大丈夫か」
と声をかける。すると小娘は、
「ここは女が来るような場所ではないようですね」
と苦笑した。
遠くに見える、敵の侵入を防ぐために建てられた壁の向こうへ視線を伸ばす。
国を囲むようにして横に延びるそれは、百年二百年の歴史を見守ってきたどころではない。残された書記によると初代帝王の若かりし頃、帝王の暗殺がそこいらで企てられていると噂され、いつしか噂で留まらなくなった。そこで帝王は、国外からの侵入者を防ぐために壁を築いた。使者のお陰で、海を越えた先に敵の侵入を防ぐための長く大きな壁が存在することは聞いていたので、それを参考に建てることにした。
元々山や森などの緑に半分囲まれている状態なので、残りを防ぐように建てればそれで済んだ。そうして建てられたのが、片影の壁である。皇帝の名がつけられたそれは、しばらくは安寧をもたらしたが、国民の不満を買ったことはこの国の誰もが知っている。
壁の先には、確かに兵士が見えた。馬に乗っており、体を灰色に包んでいる。見えはしないが、背中に刀でも背負っているのだろうか。
「勝幸に動きは」
「ありません。門番を襲う様子も無く、殿を待っています」
殿はそれを聞くと軽く笑い、勝幸らしいな、と言った。
隣国の王の長男である彼は、自由な男だと次期国王として少し呆れられているが、行動力がある、と殿は言う。殿の息子の中に次期に相応しい男がいなければ彼を指名したい、と酒の席で言ったほどだ。だが、そうだと言っても彼は、人を殺すような真似はしない。
命を奪おうとも、我人生は栄えず血に染まるのみ――。
どれだけ人を殺しても、人生は最盛期を迎えたりはしない。ふと振り返ると、手が赤く染まっているだけであろう。
後にそう言葉を残しただけのことはある。ただこの言葉は、人を殺したことを後悔して言ったことを忘れてはいけない。
殿は隣に立った小娘に、あの先だと指して見せる。小娘は目を細めるが、よく見えないと言う。目が悪いのかと思ったが、身長が足りないために兵自体が見えていないのだと、爪先で立っているのを見て分かった。
櫓の端で字を連ねている記録係に声をかける。
「矢は飛ばせそうか」
「時おり強い風が吹きます。加えて、今日は東風があるので、矢は乗りにくいかと」
殿は顎に手を当てて、立て掛けてある弓を見つめる。練習時に使っているものとは違い、軽いので引きやすい。風に乗れば、壁までは優に届くらしいが、家臣がそう噂しているだけであって、殿は一度も壁まで届いたことはない。そもそも、ここから壁に向かって矢を飛ばすなど、城下町にいる人々に危険を与えてしまうことになる。家臣の噂通りに動くのも悪くはないが、きっと一度も矢を飛ばすことはできないだろう。その為に、記録係にそのような事実を作り上げることを手伝ってもらっているのだ。彼はいつでも、矢は飛ばすべきではない、という主旨のことを話してくれる。
背後で、小さな溜め息や残念がる声が聞こえる。殿は事情を知っている記録係と顔を合わせると、口を真一文字にきつく結び、瞼を下ろした。記録係はというと、瞼を下ろしたのを確認してから、顔を下ろして書記に努める。
「殿、どうされますか」
振り返り、顎に手を当てて考える。
殿は、もちろん顔を出そうとは思っている。だが、それが何かの罠だった場合、きっと負傷は避けられないだろうと考える。武器を所持していれば、向こうの怒りをより立たせることになりかねない。かといって軽装で行けば、――。
例え弓を背負って門に向かう場合のことを考えても、民にそれを見られれば、戦が始まるのかと、不安を与えてしまう。
ここは、王として胸を張るべきか。
そう決意して、ふと今の民の様子が気になった。殿の元に羽柴参上の知らせが来たということは、民が交替で行う門兵がいち早くそれに気付いたからである。もし、いつもは殿の友人としてやって来る羽柴が、兵を引き連れて一人の戦士として来たところを見たら、門兵はいつも通り羽柴を通すだろうか。否、そんなことをする奴は、門兵にはなれない。
要するに、民は門兵からの話を聞いて、羽柴勝幸が兵を引き連れてやって来た、ということを知っていても可笑しくない。
今さら殿が弓を持とうが持たまいが、民が不安を抱いていることは変わりない。
尚成、と一人の家臣の名を呼ぶ。雄々しい声で返事をする。
「これから勝幸に会いに行く。お主らは民の様子を見ておけ。もし、戦争だといって戸惑う民を見つければ、大丈夫だと宥めよ」
尚成は頭を下げて、了承したと体で表した。父が亡くなる前から家臣の長として活動している尚成だが、そろそろ年なのだろう、結わえられた髷の髪の量が少ない。
梯子を降りようとしたとき、小娘が小走りでこちらに来た。眉を八の字にしているので、殿は見たことのない、珍しい顔だと、心配そうにしている小娘をじっと見る。
「お殿様、私も行きます」
すると小娘は、殿の裾を掴んできた。身長差があるため、殿は少し下に引っ張られるが、僅か十歳の少女の力などでは倒れるはずがない。だが殿は、体を支える足がふらつくのを感じた。
「駄目だ。お主はここにいろ。それか、部屋に戻れ」
「いいえ、戻りません」小娘は首を振る。「何かあれば、私はとても困ります」
――わしに好意を抱いたというのならば、それは不要な感情だ。
いつもなら、そう言い捨てて降りることができた。だが今は、小娘を見つめることで精一杯で、口が開きにくいのである。
白粉を塗らぬとも白く綺麗な肌。風でしなやかに靡く黒髪。黒く清んだ瞳。弾力のありそうな潤んだ唇。
顔の部位全てを見つめ、殿は何も言わない。
「お殿様?」小首を傾げる小娘。
殿は淡く朱に染まっている頬を手を伸ばし、指先で触れた。少し力を入れると、人形のように軽く動く。
ゆっくりと顔を近づけ、雪のような肌をまじまじと見つめる。
柵に手を掛けて体を乗り出し、直後、小娘の頬に唇を付けた。
風に当たっているせいか、頬は冷たい。軽く、乗せるように口付けをし、目があってから、
「お主の名は、お主によく合っておる」
と呟いた。小娘は立ち尽くし、微動だにしなかった。まるで、動かなくなった機械のように。
それから、殿は梯子を下りて門に向かった。
ふと思い出すのは、先程の出来事。何故突然、あのようなことをしてしまったのか。幼い子供を好む趣味はないが、これではそう思われても仕方がないのではなかろう。これまでにない年齢の側室故に、緊張し、それを小娘への好意だと勘違いしたのだろうか。そもそも、側室に対して緊張するとは、どういうことか。
殿は、深く混乱していた。とても、これから友人に会うとは思えないほど。