儚い桜
部屋でゆっくり、晴尚が持ってきてくれた茶を飲んでいると、走っている足音が聞こえ、こちらに近づいてくるのが分かった。障子に影が映ると、勢い良く障子が開く。
「失礼します」男は息を荒らげている。「隣国の羽柴勝幸殿が、殿に会いたいと申しております」
殿は少し眉をひそめた。来客はよくあることなので、眉をひそめる理由はそこではない。何故走って報告するのか、殿はそこに疑問を持った。
至った結論はこれだ――「要求を言うてみよ」。
何か、慌てるほどの要求を出されたのならば、走って報告に来るのは納得できる。このようなことは稀にあるが、羽柴から来ることはこれまで一度もなかった。仲はそれなりに良く、問題事も起きていないので、その理由は全く検討がつかない。
はっ、と返事をすると、男は内容を話す。
「この国にある食糧の六割を渡せと申しております。羽柴は殿と会って話すことを望んでおられます。それでさえ断るようならば、おそらく兵士に攻め込ませるつもりでしょう」
羽柴は、その時のためかのように、兵士凡そ五千を連れて参ったと、男は言った。
殿はため息をつくと立ち上がり、もう少し扉を開けて男の隣を通り過ぎ、廊下に足を踏み入れた。薄雲がかかり、青いはずの空はその色を無くしている。淡く差し込む日光は優しい。久し振りに正妻と散歩でもしようか、そんなことを考えていたところだった。平和な一時を過ごさせる気すらないのかと、殿は瞼を下ろし、羽柴の姿を思い出す。気に入って伸ばしている髪を高い位置で一つに纏め、男ならもう少し筋肉が欲しいと感じる華奢な体つきをしている。訓練が足りないからだと、とある時言うと、お前にはお前の限界がある。これが、俺の限界だった。ただそれだけの話だ、と機嫌を損ねたように言ったあと、
「そうやって俺を馬鹿にしていると、いつか痛い目に会うぞ」
と、楽しそうに言ったのは、まだ一ヶ月前の事だ。
顔を会わせなかった一ヶ月の間に、一体何があったのだろう。
「会うくらいならば、良いではないか」
気配もせず、声が聞こえた。声の主は、報告してきた男ではない。顔を左に向けると、全身を黒で包んだ女――くノ一が立っていた。穴の空いた被り物をし、それからは細く長い一筋の髪が流れている。できるだけ肌を見せぬために、腕や足だけでなく、顔でさえ目以外も隠している。眦は細く延び、薄ら開く瞼から覗く漆黒の瞳は、微かな光でさえ吸い込み輝く。
「他人事になると、口が達者になるな」
「褒め言葉として有り難く頂いておこう」
下腹に手を当てて、深く頭を下げる。体の線がはっきりと分かるほどきつめの服を着ているので、胸や胴、太腿の辺りは男の誘惑を誘う。
だが殿は、目の前に現れた女を見てすぐに品定めをするほど、女には困っていないし、女に興味があるわけでもない。それに加え、くノ一は幼い頃からずっと近くにいる。家族同様のこの女に、どうやったら勃つのだろうか。
「会えと言うならば、お主が行ってはどうだろう。勝幸も、お主のような女なら喜んで相手してくれることではないだろうか。確か、そろそろ側室を作ることを検討していると聞いた」
すると女は腰に手を当てて、
「では、その前に殿を誘惑してみようかの」
と、体を捻って見せた。殿は笑った。
腕を組んで笑う殿と、殿を誘惑するくノ一を見ている男が、「殿、ご決断を」と、真剣な眼差しで言う。だから殿はもう一度、大きな声で笑った。
「真剣な顔で言うことではないぞ、継邑。そんな顔をしなくても、わしは勝幸に会う。友人が顔を見せろと言うておるのに、それに逆らう友人が何処にいようか」
櫓に向かう殿に、慌てるようすは見られない。これからあるかもしれなかった幸せな一時を過ごさせてもらえなかったことは機嫌を損ねる要因の一つだが、いつかできるだろうと考えれば、もう損ねている理由はない。
庭に植えた桜の木々が、沢山の蕾を付けだしている。毎年、城の全員で花見をするのが楽しみである。樹齢三百年にもなる桜の木は例え花が咲いていなくとも圧巻だ。
このままずっと廊下を歩いて、春になろうとしている冬の、最後の姿を眺めていたいが、そうはいかない。
友人に会わなければ、部下が命を失うことになるかもしれない。自分の安らぎのために部下の命を捨てることは、例え心が闇に染まった何処かの国の殿であってもしてはならないことだろう。
どれだけ考えても、やはり羽柴が何故機嫌を損ねたのかは分からない。羽柴の名前さえ口にしたことがないのに、こちらの方が羽柴の城に突撃したいほどだ。
「お散歩ですか?」
前を歩いてきた小娘が、そう声を掛けてきた。着ている内に、十二単が身に染みて様になっている。
「友人が参ったので、顔を出そうと思うてな。何だ、機嫌が悪いようで、仕方なく宥めに行くのだ」
その時ふと、殿はある提案をする。
「お主も来るのはどうだろう。友人に新しい側室を紹介するのも悪くない」
小娘は口を小さく開けたまま、殿を見つめる。思い出したのは、弓道場でのこと。これは、また断られるのではないか、と思った。
だが小娘は、口角を上げて、「お殿様がお望みならば」と小首を傾げて笑った。