春風の知らせ
二日後、新しい側室が晴尚に連れられて顔を見せに来た。
次の側室が来るまで、以前は少なくとも三ヶ月ほど期間があった。だがそれも、時が経つにつれて短くなっている。子供だって何人居るか分からない。おそらく、最近体を重ねたあの女も、放っておけば妊娠するだろう。
「お殿様、晴尚です」
障子に影が映り、声を掛けてくる。隣にも影があるのだが、殿が思っていたよりも身長は小さかった。真っ直ぐ前を見ているのが影でも分かる。
入れ、と入室を許可する。その日のためにと新しい服を用意してくれたが、ただ重いだけだ。動く気にすらなれない。
擦れる音と一緒に障子が開く。始めに晴尚の姿が現れる。
「お早うございます、お殿様」
体の三分の一は障子で隠れている。細い眼に凛々しい眉。晴尚の方が沢山の側室を持っていても可笑しくはないのだが、彼は妻さえも居ない。側室が居るという噂さえも耳にしないので、彼は一人の女性だけを愛すと誓っているのだろう。そんな彼を、殿は羨ましく思う。
失礼します、と頭を下げてから敷居を跨ぐ。畳に擦れる音が静かな部屋に響く。
隙間から覗く空は、既に冬の雰囲気を持ち合わせてはいなかった。寒さで美しくなる空は、当分見られない。
晴尚に続いて新しい側室も、頭を下げて入る。一ヶ月前にやって来た女は随分と年を食っていた――とは言っても二十四歳だ――が、若い女は居なくなったのだろうかと考えていた。だが、そんなことは無かった。新しい側室は、可愛らしい顔立ちをしている。汚れの無い顔に浮き出た唇には明るい色の口紅を塗っている。
「お主が、新しい側室か」
こちらに来て立ち止まる前に、言葉が出た。殿の前に並ぶと、晴尚が紹介をする。
「お殿様、こちらはお雪、御年十歳でございます」
「なんと」
殿は驚きを隠せなかった。若い女が来たと思ったら、まさか十歳の小娘だとは。そんなこと、誰が思い付いただろう。これまで若くても十二歳だったのに、彼女に側室として勤めを果たせるのだろうか。
「この娘しかおらぬかったのか」
問い掛けると、晴尚は首を振る。「この娘が、自ら志願してきたのです。殿の側室になりたい、と」
「このような娘が、か」
小娘の顔を見るが、目が合うことは無い。何か、見えないものを見ているようで、きっと、どれだけ移動しても彼女の視線の先に入ることはできないだろう、と考えた。
小娘は結局、最後まで何も話さずに部屋を後にした。
自分から側室になりたいと言って来る女が居ないわけではない。そういう女は、必ずこの場で媚を売ってくる。性欲だとか、良い暮らしだとか、高い地位だとか。そういうものを求めてくる。だがあの小娘には、そんな様子が一切無かった。とても、自分から志願したようには見えない。
何故、人間を捨てるようなことを自ら行うのか。これまで、そんなことを気にしたことは無かったのに、ふと疑問に思う。まだ十歳の小娘が、性欲だけを興味に側室になったわけあるまいし、子供を欲しがるには早すぎるのでないか。できることをできる内にするべきである。
親は反対をしなかったのだろうか。もし殿が父親なら、絶対に止めろと言いたい。だが、自分にそんなことを言う資格があるだろうか、と少し不安になる。
翌日、殿と小娘は結の儀を行い、互いに恋愛感情はなく、子孫を残すためだけの関係になると誓う。それを、ここでは「偽寵の詔」と呼ぶ。文書にして残し、もし愛することがあればそれは契約違反となり、もう二度と顔を合わせることが許されない。あの女ともこれを誓った。
「貴方のことを、あたくしはきっと愛せませぬわ」
彼女の心は一体、この一ヶ月の間にどのように変化してしまったのだろう。愛せないと言ったり、愛してほしいと言ったり。もしこの事がバレれば、もう二度と彼女とは会えない。それを知った上で、妻と別れて自分を選べと言うのだ。簡潔にいうならば、「駆け落ちしろ」、そう言っているのである。
ちらりと隣に立つ小娘を見る。軽めの灰色の着物に、同じ色の布を被っている。
この場で身に付けるもので、白は絶対に禁止である。その色を着てきた者は、全員その場で契約が破棄され、その後二度と会っていない。顔が見えないようにするのは、自分が側室であることを心に置いた上で、羞恥心を持って式に挑むようにするためである。顔を隠して、恥ずかしがるよう事前に伝える。側室が、堂々とした顔で結の儀に立つことは禁物だ。顔を上げて良いのは正妻だけだ。
「互いに、愛さぬことを誓うか」
式を取り締まるのは晴尚。その言葉に殿は頷く。
「汝は」
小娘は少ししてから、小さく頷いた。「愛さぬ想いがあろうとも、お殿様との子を授かることができますように」
後から思えば、それが初めて聞いた小娘の声だった。声は高く、とても十歳とは思えないほど落ち着いている。
儀はすぐに終了し、殿と小娘は部屋に戻った。同じ部屋にたった二人。仲を深めるために触れ合うようにと、晴尚が決めたことだった。これは任意なので、二人きりになりたくなければならなくても良い。けれど、大抵の側室は快く受け入れる。
いつもは乗り気になどならないのだが、今回は小娘から話を聞きたかった。
「お主は何故、ここに来たいと志願したのだ」
問い掛けに小娘は、少し微笑みながら答える。殿にはそれが笑みには見えない。
「私のためでございます。愛してくれなくて構いません。お殿様との子供を授かれるだけで満足でございます」
「子供を授かれば、もう自由に生きることはできまい。それでもか?」
「それでもです。子供を授かれば、私はきっと自由になれます」
話が噛み合っていないことに殿は当然違和感を感じたが、指摘はしないでおいた。とりあえず、この小娘は変わっている、それだけは分かる。