内密
国の情勢を逐一殿に伝えたり、支給品の確認をしたり、貿易の手立てを行ったり。そういう細々とした仕事を行うのも、執権である晴尚の仕事だ。国を動かす権力を持つのは殿、国を動かすための手立てをするのは晴尚。殿の補佐を行うというよりは、殿の仕事を代わりに行っている、まるでゴーストライターのような立ち位置。
それでも晴尚は、この仕事に誇りを持っている。殿の役に立てることに、生きる意義を感じている。
百合浜の海丞から殿に宛てられた手紙を見た時、殿は明らかに顔を歪めていた。百合に染み込んでいた赤い滲みは確かに血だ、と晴尚は感じている。何度も見てきたそれを見間違えるわけがない。
だが殿はしばらくそれを見つめた後に、微笑んだのだ。
『――なにか。白鳥殿もようやく大人になられたか』
床に落ちた白百合を拾い、またじっと見つめる。途端に殿の表情は緩んだ。
殿は相変わらず、幸博の元を訪れようとしている。そう言って立ち上がるたびに、晴尚が立ち上がらないよう肩に手を置く。立つことさえも許そうとしない威圧的な態度をし続けて、ようやく殿は大人しくなったところだ。あれから一週間が経った今なら確かに大丈夫かもしれないが、もし殿に何かあったらと思うと、外へ出すことはしたくない。
しかしこれでようやく落ち着いて、仕事に取り掛かることができる。そう思ったところだ。
国に脅威が向けられているとはいえ、普段の仕事を疎かにすることはできない。それはむしろ国民に不安を与える行為となり、殿に対する不安を作ることになる。殿を支える身として、そうなることは避けたい。仕事が多くなるが、そんな中でも仕事をこなすことができる、それが執権だろう。
桜が雌蕊を見せ始め、城には彩りが加えられた。桃色は城下町からも淡く、しかししっかりと見えている。青い空を背景に揺れる桜はこの国に春が来たことを知らせ、桜の雨を降らせる。今年の花見は難しいと思われているが、晴尚からすればその準備を毎年楽しみにしていたところがあったので、少し残念だ。
「晴尚様!」
庭の向こうからした声に反応し、そちらに顔を向ける。それは桜の木を挟んだ塀の上におり、揺れる黒い二本の紐が、彼の帰還を教えてくれた。
「帰りましたか」
彼は音もなく地面に降り立ち、晴尚に歩み寄る。全身を黒に包まれ、顔も目元しか見えていない彼は、くノ一と同じような服装だ。ただ、体の線がはっきりと見えるようなものではなく、どことなく余裕のある服を身に着けている。口元を覆うのは黒い布紐で、余った分が風になびく。
「晴尚様からは初任務だったからちっと緊張したけぇ。でも、調査の対象がざっくりとしてたにぃ、割と簡単だったけん」
幼さの残る彼はまだ齢十二。忍びとして働き出してまだ間もない彼は、くノ一の弟子として少しずつ活動を増やしている。小娘が新しい側室として城に来ることを他の側室に流したということは、口が裂けても言えない事実である。
名は鬼助。先日の集会で覗き見をしていた忍びだ。
方言の残る彼は道に倒れていたところをくノ一に拾われてこの城にやってきた。最悪殿の後継者が生まれなかったときに彼を使えば良いではなかろうか、と冗談半分で言った言葉が採用され、今は弟子となっている。
「報告をお願いします」
晴尚がそう言うと、鬼助は告げる。
「百合浜の白鳥海丞は生まれた時から象徴として育って、神みたいに崇められとったけん。でも、どっちかって言うと、近所のおばちゃんに可愛がられてるって感じやったねぇ。生まれつき足が弱いみたいでずっと椅子に座っているし、小柄で、殿みたいに何か武術で長けているってことも無さそうやった。でもいつも余裕そうな表情してて、気は強そうって感じはしたけんな」
鬼助からに情報を、言葉で脳に焼き付ける。これから気を付けなければならない人物の情報は、小さなことでも手がかりになることがある。こちらが常に強くあるために、大切なことだ。
「海丞自身が戦うってことはできんやろうから、攻めてくるとしたらその部下やろな。そうなると、海丞は狙いやすくなるけん、案外、殺り時かもしれんけんね」
鬼助は楽しそうに笑いながらそう言う。幼くして持った純粋な残酷さは、彼がここで育ってしまったことという事実に基づく。これは、生きるために致し方なかったことだ。これからも彼は、そんな世界で生きていく。
百合浜と関わったことのないため、情報がとても少ない。殿は何やら知った風な口ぶりだったが、実際、殿も海丞には会った事が無いはずだ。いつも隣にいた晴尚が知らないのだから、顔も知らないはずだ。
小さな国と言っても、一つの場所を統治することは簡単ではない。それなりの権力と、信頼が無ければ成り立たない。先ほど鬼助が言った言葉――、可愛がられているのなら、その親しみやすさから信頼を得たのかもしれない。先代がどのような人だったのかという情報は無く、そもそも海丞が先代の子であるということも、こちら側からすれば定かではない。
まだ幼い鬼助にしては、これくらいの情報が妥当なのかもしれない。
「ありがとうございました、鬼助。僅かな褒美です」
そう言って、晴尚は懐から米の入った布袋を渡した。貿易で手に入れたこの米は、時間をかけて炊き上げると白い湯気を立たせ、その匂いに敵も翻弄されることから繰羅悧と呼ばれている。
鬼助は手に取って米だと気付くと目を輝かせて、「今晩はお握りを握るけん!」と両手で抱えて跳ねながら去っていった。それが繰羅悧だとは気付いてはいないようだ。
兵殺し米とも呼ばれるそれは確かに美味だ。しかしその名前の由来故に、戦を行う兵士の中では口にしてはならないものとされている。その言い伝えは民の中にも広がり、私たちが口にすることで戦に行った兵士が負けてしまう、との噂も立ち、口にされることは無くなってしまった。しかし、国内には繰羅悧を作って生活している民もいる。そう簡単に無くならせることはできないのだ。
兵を殺すか、民を殺すか。兵にしろ民にしろ、人を殺すことには変わりないのだ。