竹馬の友
よくよく考えてみると、側室の両親に顔を見せに行くということは、これまで一度もしてこなかったし、そう考えることもなかった。だから、それだけを理由にして下町に出ているのことに、殿は罪悪感を覚えた。これでは、他の側室に失礼では――?
人がまばらにしかいなかった道を抜け、左右に民家が並ぶ大通りに出た。中央には堀の深い川が流れ、それを中心に左右対称に町が伸びている。下町の通りでも川が流れているのはここだけで、『歌仙通り』と呼ばれる理由の一つであったりする。歌を詠むのが上手い老人が夜な夜なこの通りを徘徊していた、というのが一番の説だが。大人になればそれは何ともない話なのだが、小さいころはそれに恐怖を感じていた者が多かったに違いない。『河川』が『歌仙』になった、という話が現実味があるが。
「お雪様の実家がどちらにあるか、ご存じなのですか」
晴尚が殿にそう問う。
「いいや、知らぬ」
やはりですか、と彼は小さく息をつく。
民が殿の顔を知らないわけがなく、町に出れば彼はそれだけで注目の的となる。腕を組み堂々と歩く姿は、まさにこの国を治める長である。町をふら付く民の中には、頭を下げて道を譲る者もいた。それに多少の快感を覚えるとともに、自分はそれをされるべき人間なのかと、心を抉りたくなるような違和感が生まれる。
「確かに、小娘に家の場所も何も聞かずに来てしまった。晴尚、お主知らぬか」
「知っていれば今頃私が案内しているでしょう」
「それもそうじゃな」
最悪、道行く者に聞けば何とかなるだろうとは思う。だが、そうすれば小娘の実家はしばらくあまりよろしくない噂で身を強張らせることになるかもしれない。人の噂というのは恐ろしいもので、いつか殿にさえよからぬ噂ができてしまうかもしれないので、人に家を尋ねることはよしておきたいものだ。
しかし、小娘の実家が分からなければ、ここへ来た意味はない。
「しかし、ここで引き下がるのは惜しい。ただ目的もなく下町を歩くというのは」
「町の様子を見ておくのも、殿の仕事です。問題が溜まってはいますが、気休めに町を歩かれるのも宜しいかと。このまま城に帰られては、外へ出たいと言われかねないでしょう」
「わしが幼児のような駄々を捏ねると言っておるのか」
「今ここにいるのは何のためか、ご存じでないと」
すると晴尚は悪戯に微笑んで見せた。世話のかかる殿を持ったものだと言わんばかりの表情、――殿はそれ以前に、久しぶりに見た晴尚の笑顔に、頬の緩みを我慢することができなかった。幼いころに初めて見た彼の笑顔を思い出したのだ。幼いころから端正な顔立ちをしていた彼が初めて笑ったその時、殿は思った、彼とはきっと良き友人になることができるだろうと。
「久しいな、お主のそんな顔を見るのは」
その言葉の意味がよく分かっていない晴尚は、曖昧に頷く。「一体、何のことを言っておられるのか」
「気にすることではない。主にはいつも世話になっておるなと思うてな」
晴尚は首を傾けることしかできない。いつもと変わらないと思っているのだが、殿は何かを感じたらしい、と霧のような結論を出して、晴尚は顔を前に向ける。
突然感謝の気持ちを述べられても、どう反応すれば良いのかと戸惑ってしまう。殿に仕えることが当たり前だと思いながら仕事をしてきた晴尚にとって、それは感謝されるようなことではない、決して。むしろ仕わせてもらっていると思ってしまう。だから、感謝すべきなのは晴尚の方だったりする。だがそれを口にすれば殿はきっとこう言うだろう。
――「そんなことはどうでもよい。もしその事が無くとも、わしは晴尚を指名しておっただろう」
そう言われて喜ばない者がいるだろうか。自分は必要とされているのかと心から思うことができる。殿は、それだけの力を持っている。
民は、殿が悠々と町を歩いているように見えるだろう。下町を歩くことの少ない殿の姿を見て、何も起こっていないと錯覚する。だがこれを散歩と言うには、背負っているものが少し大きすぎるのだ。
勝幸の怒り、京極竹四郎の進軍、そして、白鳥海丞からの手紙――。
これらの問題を解決しないことには、ただの散歩をすることなどできないだろう。
国の頂点に立つ者として、国を守ることは義務である。ただ民を見下ろしているだけでは、長は務まらない。
「お殿様、お殿様」
河原沿いに歩いていると、背後から殿を呼ぶ声がした。振り返ると、一人の男がいた。
「後ろからのお声掛けをお許しください。姿を見かけたものですから、つい」
特に顔見知りということはなく、殿はそれを一部の民だと認識した。
「よい、何か用か」
「先日は我が愛娘を受け入れていただきありがとうございます。家族皆、娘がお殿様のお役に立てることに誇りを持っております」
そう言って深く頭を下げる。この男が殿の側室の父であることは分かったが、それが一体誰なのか――。先日、という言葉から、殿はそれに気付くことができた。
「――主は、雪の父であるか」
今回殿が下町へ下りる訳となった小娘宛の手紙を送ってきた、小娘の父であった。
男は、「そうでございます」と大きく頷いた。
「名乗るのが遅くなってしまい失礼しました。私、雪の父の鷹右と申します」