側室になるということ
一通の文を手に、殿がいるであろう部屋へ向かっている従者――興継は、誰かの声を耳にする。それは誰かと変哲のない会話をしている、という雰囲気ではない。会議をしているというか、討論をしているというか――とにかく、何か言い合っているということは分かった。
興継は早足でその声のする方へ向かう。案の定、それは殿の部屋からだった。
「このような文が届いた以上、お殿様を外へ出すことはできません。どうか、幸博様の元へ行くのは来週へ延ばしてください」
「わしが白鳥殿に負けると、お主はそう考えておるのか。白鳥殿は下品で有名じゃ、ただそれだけのこと。百合の滲みは、血であって血ではない」
何やら聞いてはならない話を聞いてしまったような気がするが、ここまで来てしまっては引き返すことはできない。
小娘から受け取った文を取り出す。急ぎなのかは聞かなかったが、届けてほしいと頼まれたならできるだけ早くに届けるべきだろう。文を懐へ戻す。
まだ聞こえてくる声に一度足を止めたが、うじうじしていても仕方がないと思い込み、
「殿、興継です。文を届けに参りました」
と、相手に声が聞えなかったということが無いように、いつもより声を張って言った。
「入れ」
そう殿の声が聞こえてから、襖を開ける。
部屋にいたのは殿と晴尚だった。ゆったりと体を肘掛に預けている殿に対し、晴尚は前のめりで殿に話しかけているようだ、いまだに体が前に傾いている。二人の視線を集め、興継は体を強張らせたが、懐に入れていた文を差し出した。
「こちら、お雪様宛の文でございます。お雪様から、殿に渡して欲しいとのお言葉を受け、渡しに参りました」
「ご苦労」
殿の代わりに晴尚が文を受け取り、殿に手渡した。文の形は至って単純、四つ折りされた紙が封筒に入っている。封筒には何も書かれておらず、少し汚れが目立つ。
「わしに読めと、小娘は言っておるのか」
殿の言葉に、興継は頷く。直接そう言われたわけではないが、文を届けておいて中身は見ないでください、と言うのなら、小娘は頭の部品を一つ無くしてしまっているのかもしれない。
興継が頷いたのを見て、殿は封筒から文を取り出す。晴尚は正座して、静かにその様子を見ている。殿の視線が上から下へ、そして下から上へと移動する様子を見つめ、この時が終わるのを待つ興継。兵として戦っているわけでも、鍛えることが趣味でもない殿の体には程よく筋肉が付いている。体の線が見えづらい服装をしているが、隙間から覗く筋が美しく色気を放つ。興継は自らの腕と比べ、その差に項垂れる。
二、三度見直してから、殿は笑みを漏らした。その表情に、晴尚と興継は眉を寄せる。
「晴尚、小娘に感謝をするんだな」そう言いながら文を封筒に入れた。「門を出ると白鳥殿に攻撃される可能性があるから出るな、と晴尚は言うんだな。なら、国内は安全じゃろう」
「お殿様、文にはなんと」
殿は立ち上がり、晴尚を見下ろすようにして言う。
「手紙の差出人は小娘の父、娘を側室として受け取ったことを感謝しているようじゃ。暇つぶしも兼ねて、明後日、下町へ出る。ついでに、小娘の家族に顔を見せに行こうと思っているが、晴尚も来ぬか」
こうして、下町をふら付くことを目的としてそこへ出かけるのはいつ振りだろう。長の仕事として出歩くことは多々あるが、散歩することを目当てに城を出ることはそうそう無かった。江へ贈る髪飾りを買いに出かけたのが最後だろうか。
「久しいな、こう長閑な街を見るのは」
最近下町には下りてきたが、勝幸が兵を連れてやってきたこともあり、少しざわついていた。
民の生活を見守るのも、殿の役目だ。仕事を淡々と熟すのも、国を背負う者として大切なことではあるが、それだけでは民は付いてこないだろう。こうして顔を見せて民の暮らしを見て触れ合うのも、大切なことだ。
「お雪様を連れてこなくてもよろしかったのですか」
「晴尚、お主は身を買われた後に家族に顔向けをすることができるか。――まだ汚れ物になっていなくとも、いずれはなるであろうその身を、親に見せることができるか」
微笑んでいる殿の口から出てきた言葉とは思えないほど、それは少し卑俗な言葉だった。
「……お殿様、そのような事は」
「分かっておる。じゃが、誰も聞いておらんだろう」
殿は腕を組み、足を止めた晴尚に顔を向けることなく歩を進め続ける。優しく下ろされた瞼に隠された眼光は、下町を照らしていない。壁の向こう側の会ったこともない人の行く先を照らすことができれば、願ったり叶ったりなのだが、殿はそんな力を持ち合わせてはいない。
「側室になることで暮らしが裕福になるのなら、金を払っていなくともそれは身を売っていることと同じ。家族のためであれ自分のためであれ、顔を合わせることは辛いだろう。役に立たなかったかの娘もそう思っておったに違いない。そうでなければ、這いつくばってまで壁を越してここへ戻ってきたであろう。自分は家族のことを愛おしいと思っていても、帰りづらかったのだ。身を売っていながら一人も身ごもれなかった、哀れな娘よ。自分から出ていけば、家族に泣いて縋ることができたが」
「……とても、お殿様らしくない言葉ですが」
後ろから聞こえた晴尚の言葉に、殿は思わず吹き出す。「そうじゃな。愛を捧げることが大事じゃとついさっき話したばかりだというのに、どうしたものやら。下町に出ると、殿としての威厳を見せたくなって、思ってもいないことを考えてしまう。……下町に出るのは、控えようかの」
「今でも十分控えておられますよ。これ以上となると、民はお殿様の顔を忘れてしまうでしょう」
「ふ、それも良い。威厳を見せるために悪を滲み出してしまう長など、誰も好みはせん」
――以下、隣国にて後に発見された手記による。
『国を治めし殿は、民を何だと思っておられるのか。子孫繁栄のための側室でさえ、少しも愛されない。私もその一人である。殿に捨てられることの意味を、彼はまだ理解していないのだろうかと思うほどだ。ただ、正妻の江様に髪飾りを贈られたことに関しては、殿が可愛いらしく見えて仕方がない。』