正妻
部屋で文を認めている小娘の元に、一通の文が届けられた。障子戸の隙間から小さな音を立てて入ってきた文を手に取り、確認する。見た様子では誰が差出人なのか分からない。中から紙を取り出し、四つ折りにされた紙を開ける。それを読み終えた小娘は、文を届けてくれた障子戸の向こうにいる従者に、こう言った。
「お殿様に、渡していただけますか」
先日までの曇り空とは一転、今日の空には青が広がっている。
また一人の側室に別れを告げた殿は一人、縁側に座り桜の木を眺めている。ちらほらと開いてきている桜の蕾が、寂しい木に彩りを加え、本格的に春の訪れを感じさせた。木の隙間から見える空も相まって、天気の良さが際立つ。
次の側室が来るのも時間の問題だ。それまでに、殿は小娘との関係をどうにかせねばならない、と考えている。
小娘は他の側室と異なっている。新しい側室とは出会ってすぐに体を重ねているのに、小娘はどうだろう。未だに小娘の部屋にさえ入っていない。唇は重ねたが、あれを一歩進んだと言ってよいのか分からない。
(奴はどうにも手が出しづらい)
腕を組む殿は、そう思いながら空を見上げる。
そもそも、第一印象が『変わった奴』なのだ。子供を授かれば自由になれる、という訳の分からないことを言った。ふつう、子供ができれば生活は子供中心になり、自分のことは後回しになってしまう。側室になれば暮らしは裕福にはなるが、自由が保障されるものではない。小娘は何かはき違えているのだろうか。
「お殿様、ここにいらしたのですね」
滑り足で近づいてくる者の正体を、声で知ることができた。先ほどまで足音すらしなかったのだが、殿に声をかけた途端、気配を露わにした。
「部屋におられなかったので探しました」
顔をそちらに向けると、いつも通り整った顔を持つ晴尚がすっと腰を下ろした。片膝を立たせ、その上に腕を乗せる。
「そう堅苦しくするな。久しぶりにゆっくり話すか」
殿は微笑み、隣に座るよう促す。始めは遠慮していたが、少し戸惑いながらも腰かける。
幼いころはこの庭で、追いかけっこをしたものだ。年の離れた二人は、この城で育った。晴尚の父は先代に使える部下であった。約十年前の戦に巻き込まれ死亡したが、晴尚は父を尊敬している。父が亡くなった今でも晴尚がここで暮らしていられるのは、先代――親典の優しさのおかげだ。
晴尚の父は、してはならないことをしてしまった。もしそれが許されていなければ、晴尚も今ここにはいなかったかもしれない。
「今年も花見をされる予定ですか?」
桜の蕾を見つめながら、晴尚は問う。殿は腕を組み、「難しいだろう」と言った。「今の状況では、とてもできるものではない。呑気に花見をしている暇があれば、先日のような集会は行われていなかったろうに」
「殿でいるのも楽ではないですね」
その言葉は、部下から上司への言葉ではなく、友人への言葉のようであった。幼いころから二人で遊ぶような仲であったので、ふとした時にそのような言葉がでてしまう。殿の方も、国の主としての仕事を全うする中で、そればかりに心が向いているわけではないので、晴尚の言葉は、心に懐かしい思いを抱かせる。温かく、安心するような。あの時の殿には、それが分かるはずもない。
「国の長を務めるのが、わしが生まれ持って得た役目。先代のために、国民のために国を守らなければならないのは当然なのだが、やはりそれだけでは気が滅入る。……我が子にもこの、誰かのために辛くならなくてはならない、という何とも理不尽な思いをさせようとしているのだ。人というのは、優しさだけでは生きていけない」
「……お殿様、それは少し間違っておられます」
顔を横に向けると、晴尚と目があった。二重ではっきりと見える黒目が、殿を強く捉えている。
二人の間をゆっくりと通る、春の温かい風が、頬を撫でた。
「確かに、側室はお殿様の血を受け継いだ子を残すために、何人もいます。元気で明るい男の子を産めば、将来はいつまでも安定すること間違いなしです。それを目当てにやってきた側室も少なくありません。ですが、お殿様。……そこに、愛はありますか?」
「……愛、か」
「お殿様もご存じの通り、私は本当はできてはいけなかった子です。人間として生を受け、母の胎内で育ち、世に産まれてきてしまった。生を受けること自体許されなかった私が何故生を受けたのか。それは、私の父と母が、愛し合ってしまったから。愛してはならないのに、愛することを止められなかったから」
彼の少し寂しそうな横顔に、殿は顔を背ける。そうして、幼いころに聞いてしまった彼の出生を思い出す。怒号、絶叫、悲鳴、流涙……。その部屋は、いくつもの感情が入り混じっていた。命を誕生を素直に喜べない、醜い人間の姿を、その時目の当たりにした。
「愛とは、そういうものなのです。止められないもの。ですが、必ず愛が認められるわけではない。認められない愛もある。……お殿様は、誰を愛しても認められるのです。それ故、お江様を正妻に取られても、誰も文句は言わなかった」
江を正妻として迎えたあの日のことを思い出す。元は側室としてここへやってきた彼女を正妻として迎え入れ、全国民にそれを伝達した。殿のご結婚に文句を言う国民がいないはずがなく、二人は祝われながら夫婦となった。文句は垂れないが素直に喜ばない者が少数いたが、見て見ぬふりをした。
「お江様がもうすぐ出産されます。そのための準備は既に整っているようで」
「それにわしは立ち会った方が良いのだろうか」
正妻の出産が初めてのため、どう振る舞って良いものか分からない。かといって殿より年下の晴尚が答えを持っているはずがないのだが。
「殿のお好きなようにされれば良いのでは。ですが、これは私の意見ですが、女は子を産むときの痛みで顔が歪む姿を、旦那には見られたくないものではないのでしょうか。隣にいてほしいと思う方ももちろんいるでしょうが、お江様はきっと、先者でしょう」
つい納得してしまう殿。確かに彼女なら、そう言うだろう。
「殿はどうしてあの方を、愛して、正妻として迎えいれたのか、私にはよく分かりません」先程までよりも強い口調で、彼は言い放った。「正妻として迎えられ、誰かに祝福されたのは事実です。ですが、それをしなかった者もいた。それを、ご存じですよね」
視線を合わせてきた晴尚の瞳を見つめる。彼は不思議そうに、だが訴えかけるように、殿の奥底を見ているようだ。
殿はあまりにも彼が真剣な瞳なので、思わず笑ってしまった。そんなに真剣になることか、と。
「知っておる。先代がこの場にいれば何を仰るだろうと眉をひそめていた者がいることも知っておる。江の身分も、性格も、見た目も、とても国王の妻になるには相応しくないことは、わしも分かっておるよ。こんなことを言っていたと江が知れば、わしは殺されるだろう。じゃが、わしは彼女を愛してしまった。それは、先ほどお主が言ったことと同じじゃ。愛は止められぬもの。彼女への愛は、他の側室への愛とは異なってしまった。だから、彼女を正妻にした。だたそれだけのことじゃ」
晴尚は悟ったように目を見開いた。
先ほど自分が言っていたことをそのまま返されるとは考えていなかったのだろう。きっと彼は、欲しかったのだ。殿と江の間にはとても裏切ることのできない何かがある、江は今もずっと殿の何かを握っているのだ、という、江を悪者にできるような言葉を。
だが、殿はそれを言わない、言えないのだ。愛する者を批判するような言葉を。
殿のばれてはいけない秘密のようなものは、何一つ握られていない。握られているのは一つ、殿の心であろう。
俯いてしまった晴尚を見て軽くため息をつくと、殿は立ち上がる。
「久々に以前のような話すのも楽しいな。お主はどう思っているかは知らぬが」しわを払って直し、腕を組む。「これを決めておかねばならないな。幸博殿の元へはいつ向かおう。お主の都合による。明後日か明々後日か、その辺りが好ましいが」
「殿、それに関してですが」
晴尚は凛々しい眉をこちらに向けた。いつもの晴尚だ。
「来週でもよろしいでしょうか」
「来週? 何故じゃ」
時間が立てば時期を逃してしまう可能性がある。協力を求めることの大切さを分かっているはずなのに、何故そんなことを言うのだろうか。
すると、彼は懐から一枚の文を取り出した。
「これは」
文を受け取り、中を確認しようとする。すると、中から薄い何かが舞うように左右に揺れて落ちた。
押し花だ。その花で、その文の差出人を知ることができた。
殿はその花を見て顔を軽く歪ませるように微笑する。
「白鳥殿も、血を好むようになったか」
差出人は百合浜の白鳥海丞。落ちた百合は、少し赤く滲んでいた。