追わぬ者
縁側から見える立派な桜の木を見つめる殿は、今年は花見はできそうにないな、と軽く肩を落とす。毎年行っていた花見ができなくなるのは残念だが、そんな時に攻められれば、対応に遅れてしまう。これからは常に気を張っている必要がありそうだ。
「お殿様、本当によろしかったのですか」
後ろを歩いている晴尚が言った。腕を組んで振り向いてみると、その表情は曇っていた。
晴尚の言いたいことは何となく分かっている。それでも殿は、「何がだ」と聞く。
「綸太郎を参謀にしたことです。これまで私が行っていた参謀を、宗織ならまだしも綸太郎に任せるとは。少し彼を良く見すぎではないかと」
「大丈夫じゃ晴尚。敵はまだ来ん」
横目に彼を見てから、殿は再び前へ向き直り、歩き出す。
集会で人が一か所に集まっていたためか、廊下で人とすれ違うことも、部屋から楽しそうな会話が漏れてくることもない。
集まった兵らは、殿抜きで討論しているのだろう。殿自身が幼いころ、当時の殿――父・親典が退出した後の部屋を覗いた時、兵のみで何かを話しているのを何度か見た。内容はよく分からなかったが、何となく、当時勃発していた他国同士の争いについてだったことは覚えている。
侍女や召し使いはこの時間、昼食の準備に取り掛かっているはず。そのため、人が少なく感じるのだ。
「国を統治して数日で他の近辺の国を攻めようと、お主は思うか。まずは統治した国に兵を回し、完全に我が物しなければならない。規則も、信仰しているものも、全てを己の国と同じにしなければならない。よって、島門王国が動き出すのはまだ先だということだ」
晴尚はなるほど、と頷く。
「じゃが、安心はできん。今の状況では、攻められてしまっては正直勝ち目はないだろう。幸博殿の協力を求め、島門王国に攻め込まれないよう手を回さねばならない。もし幸博殿が拒否すれば、別の者に手を貸してもらわなければならなくなる。兵が集まるまでは油断するな」
その夜、殿はしばらく行っていなかった側室の部屋に向かった。
出会ってもう五年になる彼女は、側室の中でも一番長くここにいる。体の相性が良いというところもあるが、彼女とはまるで友人のように気軽に話すことができるのだ。一緒にいてまったく退屈しない。
一度は彼女と結婚するべきだと思ったほどだ。
「とても、久しぶりね」
顔を合わせるのも、こうやって夜を共にするのも、実に一週間ぶりだ。
「少し城が騒がしかったけれど、何かあったの? 聞いた話によれば、殿の友人の勝幸殿が戦を仕掛けてきたらしいけれど」
「話が大きくなりすぎだ。噂というのはすぐに尾ひれがつく」
そう言いながら、殿は着衣を脱がせる。見慣れた体だ。母親譲りだという二の腕のできものを見せたくないと、初めは服を脱がなかったが、何度も体を重ねるとそれも気にならなくなるのだろう。女の象徴を何度も見られれば、二の腕はまだ可愛いものだと感じる。
「兵を連れてきたのは確かだ。だが、それはわしが姿を見せるよう仕組むための、言わば小道具だ。奴に本当に戦をする気はないであろう」
「勝幸殿はそれほど殿に会いたかったのね。本当、仲が良いこと」
嬉々として彼女は笑う。どう返事をするべきか悩んだが、「そうだな」とそれらしい言葉を言っておいた。
そうして二人は、偽物の愛を愛でるのだ。互いの体を貪り、どれだけ拭っても滲み出てくる汗を堪えながら、温もりを求めて体を動かす。相手の息や体温を感じる度に、体が敏感になっていく。下から上へ、内側で何かが這い上がっていくような感覚。いつもなら悪寒か何かと思ってしまうそれが、今は快感に成り変わる。くすぐったくて仕方がない。
殿が彼女に強く覆い被さり体勢を整えているとき、頬に冷たい感覚があった。何かとそれに手を伸ばす間もなく、殿は彼女の頬に顔を向ける。覆い被さった際に触れた彼女の頬は、濡れていた。目尻から伸びる一筋の線は、耳の上を通り頭皮に隠れる。
「……何故」
これまで無かったことだが、殿は自分でも驚くほど冷静だった。つい先日に小娘が同じものを流していたからだろうか。だが、口づけをしようとは思わない。
殿の言葉をきっかけに、彼女は声を漏らして泣き始めた。殿の背中に手を回し、離れないでと強く抱きしめる。そのまま続けるわけにもいかず、殿は抱きしめたまま彼女を押しつぶさないように枕に頭をつけた。彼女は殿の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす。
しばらくその状態で、時を過ごした。その間、殿は自分が泣かせるようなことをしたかと、ずっと頭を回転させていた。
「ごめんなさい、殿。私、明日にはここを出るわ」
儚い声で、彼女はそう言った。声は震え、小刻みに息を吐いている。
「突然どうしたのだ。何か理由があるのか」
「……母が、倒れたの」
その言葉で、殿はすべてを察した。
彼女――千代は、家族を養うためにここに来た。早死にした父の代わりに稼がなくてはならないからだ。だがこの時代、男性と女性では貰える金に差があった。いくら懸命に働いても、父が持ち帰ってきてくれた給料をもらうことはできない。四人の子供を持つ母の負担を少しでも軽くするために、千代は体を売ることを決意したのだ。
母が倒れた今、彼女を看病する人どころか弟や妹の面倒を見る人さえいない。千代が帰らなければ、このまま全員終わってしまうかもしれない。
そのため、千代は今すぐにでも実家に帰らなければならないのだ。
「そうか。それは、……残念だ」
「本当は今すぐにでも家に帰りたいの。弟や妹のことが心配で心配で……。でも、ここを離れることを、したくない。きっと、一度ここを出れば、もう二度とここへは戻ってこれなくなるから。殿に愛されていなくても、楽しかった。ここでの生活が、とても楽しいの。愛されることを望んでいるわけじゃない。ただ私は、ここにいたいの、ずっとここにいられれば幸せなの。でも、私はここを去らなければならない……」
「そこまで気を落とすことはない。いつでも戻ってこられるだろう」
そう言いながら、殿は千代の頭を撫でる。千代はゆっくりと頭を上げ、「戻ってきても良いの……?」と、瞳を潤わせて言った。
「当たり前じゃ。お主が側室でなくなれば、そのときは、友として歓迎しよう。友として会話し、友として酒を交わす。そんな未来も悪くなかろう」
微笑む殿を見て、千代も思わず微笑んだ。瞳に溜めた涙を一粒二粒流し、殿の胸元を濡らす。
いなくなってしまう女に種を植え付けることができるわけはずが無く、二人は互いの熱で温まりながら、最後の夜を過ごした。
翌朝には去ってしまうであろう彼女を見送ることしかできない殿は、その後ろ姿を想像し、自分の不甲斐無さに顔を顰めるのだった。
【お詫び】
いつも「側室への愛」を読んでいただき、ありがとうございます。
残り一ヶ月でこの作品を投稿して一年になります(途中、長期の更新停止がありましたが)。そんなときに、見逃せない誤字を発見しました。
登場人物の読み方です。
歴史上の人物の名前は時々読み方が分からないものがありますが、この作品に出てくる人物の名前も、ルビを振らなければ分かりにくいものがあります。その為、最近は一話ごとに初めて出てくる名前にはルビを振るようにしていました。
「晴尚」
彼は、殿の近くで彼を支えてくれています。執権として、時には参謀として……。
そんな彼の名前が、「はるなお」から「はるひさ」に変わっていたことが発覚しました。
読んでいただいていた方には本当に申し訳ないことをしました。
「直せばいい」
そうなのですが、個人的にも好きな人物なので、そのことを伝えずに黙って直すことができず……。後書きを借りて伝えることと致しました。
本日平成三十年十月十九日に、晴尚のルビを「はるひさ」に統一します。恐らく皆様、そちらで覚えているのではと考えたからです。
原因は、長期の更新停止だろうと思っています。
その間に彼の名前が変わってしまったのではと考えています。
これからも晴尚、殿と小娘、そして側室への愛をよろしくおねがいします。