決意の先
城に戻った三人は、それぞれの部屋に戻る予定だ。
くノ一は、「そろそろ散歩の時間かの」と老婆のようなことを言って、また外へ出ていった。
勝幸と別れ門から城に戻るとき、やはりと言うべきか、民が不安げに殿を見つめていた。何ともないのは見て分かる、問題は、くノ一が姿を現していること。
殿が門へ向かっているとき、くノ一は隣にいなかった。そして、門へ向かう彼女を見た者もいなかった。つまりくノ一は、殿のばれぬよう門へ向かったことになる。
何も問題が無かったのなら、帰りもくノ一はいないはずだ。わざわざ姿を見せて、共に城に戻ることはしないから。
くノ一が殿と共に戻ってきた理由、それは、何か危険なことがあった、ということだ。殿は知らなくとも、民の間ではそういう解釈が既に広まっていた。そしてその解釈は今回にぴしゃりと当てはまったのだ。
民は不安になりながらも、その真意を聞くこと無く、噂話として城下町の人から人へ語る。殿はそんなことになっていると露知らず。
殿も部屋に戻ろうと思ったが、小娘を部屋まで送ろうと考え、後ろを歩く。だが、小娘はそれにしばらく気付かずにいたようで、居ないと思っていた殿の姿に驚きの声を上げた。
「何を驚いておる」
「いえっ、その……まさかお殿様が後ろにおられるとは思いもしなかったので」
「わしが後ろにいては不愉快か」
「滅相もございません」
小娘は胸に手を当て落ち着いたのを確認してから、前を向いて歩を進める。殿は小娘の隣を歩こうとはせず、何故か従者のように後ろを歩く。
始めはそのまま歩いていたのだが、付けられているようで気分が優れなくなるので、小娘は振り返って言う。
「お殿様、どうして後ろを歩かれるのですか。隣に居るほうが、まだ落ち着きます」
殿は顔を庭に向け、腕を組んでいた。小娘に目を向けることなく小さく唸る。
「……ここの廊下は狭い。並んで歩けば、向かいから来た者の邪魔になるだろう」
今まで目があっていたはずなのに、殿から合わせてこない。いつもは小娘と夜を共に過ごそうと、心の中を覗き込むように目を合わせてくるのに。
いくら見つめてもこちらを見ない殿に、小娘は首をかしげる。
「お殿様?」
殿は横目で小娘を見、「何だ」と言ってからまた目を逸らす。
それを見た小娘は、それ以上何も言わなくなった。口を閉じ、憂いを帯びさせて目を少し伏せる。
城に戻ってきてから、空模様ははっきりとしなくなった。
鼠色の雲が空を覆い、太陽の光は射し込まなくなった。山の向こうから黒い雲が覗いているのを見ると、今夜にも雨が降るだろうと予想できる。
そんな空を観察しながら、ふと、小娘が何も話さなくなったと気付く。視線は感じないので、殿はちらりと目を向ける。すると小娘は、首を地面に向かって垂らし、袖を顔に近付けていた。それはまるで、泣いているようであった。
「どうした、そのような体勢で」
「気にならないでください。ただ、そのような目で見られるのが苦手なだけなのです」
「そのような目、とは」
問うてから、これは聞くべきでは無かったと後悔した。今こうやって『そのような目』を恐れているのに、深堀りするようなことは小娘を傷つけてしまう。心が落ち着いてからの方が良かった。
だが小娘は、話してくれた。「黒い瞳が欠けた月のように見える目のことです。丸いのに欠けているように見えるそれを見ると、何故か目元を濡らしてしまうのです。こんな醜い姿、お殿様に見せるわけにはいきません」
そう言っている途中にも、袖では抱えきれなかった涙の粒が一つ二つと床に落ちた。
殿は小娘に向き直る。いつもは瞳の奥に、言葉では言い表しにくい、殿からすれば小娘の方が泣きたくなってくるような目を向けていたのに、今はその目を向けるどころか背けている。
殿は、ようやく自分が小娘よりも上に立てるのではないかと考えた。それが、殿に不思議な高揚感を与える。
「何故、それが苦手なのだ」
問うが、小娘は答えない。袖で顔を隠したまま、ぴくりとも動かない。
(小娘のことだ、ここからいくら質問をしても返答はないだろう)
そう思いながら殿は、指先で音を刻んでいる。それはだんだんと早くなっていき、殿の高揚感を更に高めていく。
どうすれば良いかと考えたが答えが出てこず痺れを切らした殿は、小娘の両手首を掴み、ぐっと上にあげた。小娘は驚いた表情をしたが、その目からはやはり涙が流れている。
顔を隠すことのできなくなった小娘は、顔を背ける。
「お殿様、何を……」
小娘の言葉を、殿は自らで塞いだ。
別に黙ってほしいわけではない。ただ、体が衝動的にそういうことをしてしまったのだ。
二人は、唇を重ねていた。
(何を、しているんだろうか)
殿自身でさえ、何故こんなことをしてしまったのか分からない。小娘の涙を見た途端、心の奥にある黒くてぼやけている何かが、殿に告げたのだ。唇を重ねよ、と。野生の動物が生きるために獲物を見つけた途端に駆け出すのと同じように思う。それを、本能と言うのだろうか。
ゆっくりと唇を離す。小娘に睨まれたり怒鳴られたり、悪ければ頬を打たれるのではという考えが脳を過ぎる。
少し顔を離して小娘の顔を見てみると、涙は止まっていた。そしてその目は、これまで見たことのないほど見開かれていた。殴ってくる様子はなく、少し安心する。むしろ彼女は呆然とし、殿をじっと見つめているだけであった。
ほんのりと漂ってくるのは、側室と体を重ねているときに感じる、あの匂い。何故今匂うのかは分からないが、それは殿の性欲を掻き乱す他無い。柔らかい側室の肌、唇から洩れる喘ぎ声、そしてナカの温かさ――。
小娘の腕を強く握りしめ、殿は言う。
「今夜はお主と共に夜を過ごそう、待っておれ」
ゆっくりと手を放し、殿はそこで小娘と離れた。依然、小娘は立ち尽くしていた。