忍の勘
負傷した兵士を馬に乗せて、勝幸一行が去っていくの見守る殿は、彼への賠償と、この後に起こるであろう戦にどう対応すべきか考えていた。
眉間に皺を寄せ、意識が朦朧としている兵士の背中に手を添える勝幸を見て、普段の彼に戻ったと少し安心する。
その背中をじっと見つめるのは、瞳に愁いを帯びさせている小娘。何を考えているか分からない彼に、小娘はどう話しかければよいのか分からずにいる。殿はしばらく立ち尽くし、勝幸一行が完全に見えなくなるまでいるつもりだろう。
「娘、もしやお雪か?」
名前を呼ばれ、声のした方に顔を向ける。そこには、全身黒で身を包んだ女、くノ一が立っていた。腰に手を当て、胴から足まで滑らかな曲線を描いている。
このような美しい女を、小娘は知らない。何処かで会ったことがあるだろうかとしばらく考えてみるが、それでも出てこない。家の近所に幸という顔の整った子供が住んでいるが、目の前にいる女はそれ以上に妖艶な雰囲気を纏っている。
とりあえず返事だけしようと、「はい、お雪でございます」と笑顔を浮かべた。
「そうか、主が殿の新しい側室とやらのお雪か」
顎に手を当て、覗き込むようにして顔をじっと見つめてくる。近くで見ても、その色気が消えることはなかった。
(綺麗な、肌)
玉のように美しく、それでいて顎と耳下を繋ぐ線が鋭い。口元を覆っているおかげで引き締まっているのかもしれないが、女は元から細いのだろう。
「貴女は、誰ですか?」
見つめるばかりで名乗ろうとしない女に、小娘は問う。すると女は、「ふむ、小耳にも挟んだことも無いのか」と曲げていた背中を伸ばす。
「教えてやりたいのも山々だが、私は自らの名を忘れてしまった。そう言うよりかは、もう、そう名乗らなくなったと言った方が正しい。ここでは、女忍者として殿からの任務を遂行しておる」
くノ一が存在していたとは、と小娘は頷く。下町にいた頃にくノ一の話や噂を聞いたことはあったが、とてもこの世に存在するものとは思えなかった。女忍者は体が柔らかいから、まるで縄のようにしなやかな動きで敵を翻弄する、だとか、女故に持つ武器を使って敵を手玉に取ってしまう、また、世の中には壁を走ったり空を飛んだりすることができる女忍者もいると聞いたものだから、小娘はそれを聞くたびに、作り話だろうなと信じられないでいたのだ。
「それにしても」
くノ一は再び小娘の顔をじっと見つめる。
「主は若いな。殿は幼女にも手を出すようになったとは」
「口を慎め。幼女だろうが老婆だろうが、小娘がわしの側室であることには変わりない」
「おや、殿。聞いておったのか」
くノ一の表情が一瞬焦りに変わったが、すぐに微笑む。殿の方へ顔を向け、腰に手を当てる。
「説明せよ、京極氏の進軍について」
殿は深刻な表情で問う。それでも、くノ一は微笑んでいる。
その表情は、小娘にとっては初めて見るものであった。いつでも余裕のある表情を含ませていたのに、今はその余裕が見られない。それほど、京極竹四郎が敵になることに恐れを抱いているのだろう。
「まあまあ、そう険しい顔をするな」顔の前で片手をひらひらと舞わせて、殿を落ち着かせようとする。「進軍とは言っても、京極はまだこちらには向かっていない」
「……どういうことだ」
「おや。今、少し安心したかの?」
「ふざけるな」
相変わらずの険しい表情だが、図星のようだ。当たり前だろう、京極相手に敵う国など、この辺りには存在しないのだから。どれだけ兵を集めたとて、領地を奪われることは目に見えている。
殿は大きくため息をつく。視線を逸らし、右頬を掻く。
「詳しく言え」
「殿と別れた後、わっちの弟子がやって来ての。京極が隣国に兵を進め支配したと伝えに来た。その国は悧の国。ここと貿易を行っておる国の内の一つであり、この国の隣国でもある」
「……こちらに攻めてくるのも、時間の問題だと?」
「よく分かっておる」
くノ一は殿の頭を撫でる。殿はそれを強く振り払う。
「気安く触るな」
「おや、どの口が言っておるんだ。殿の幼い頃おしめを換えてやった恩を忘れておいでか」
それとこれとは関係ないだろう、と言いたいところだったが、何とかそれ堪える。この女と言い合っても、終わりが来ないことは、幼い頃からの経験で分かっている。どれだけ言葉を重ねても、くノ一も負けじと、だか余裕そうに言葉を返してくる。誰かが止めに入るまで終わらないのだ。
それを今でも分からないでいるわけではない。
殿は小さく咳払いをすると、
「中に戻るぞ。こんなところで待っていても、敵は来まい」
と、くノ一の肩を叩いた。付け加えるように振り返り、「お主は今夜、わしの部屋に来い」と言って、つかつかと歩き出す。
くノ一は、ふぅとため息をつく。その表情は、楽しそうだった。そのすぐ隣を通りすぎたのは、置いていかれまいと着物を少し持ち上げて早足で殿の後を追う小娘。
城に遣える者からの話で、小娘は殿の地位や殿自身に興味があるようには見えないと聞いた。ただ妊娠するのが目的で、きっと相手は誰でも良いのだろう、それならいっそ、娼婦にでもなれば良いのに――。そう言う者もいた。
だが、今の小娘の様子からは、それを微塵も感じなかった。壁の外の様子を少し見ていたが、小娘は殿を心配してついてきたように見えた。妊娠することだけを望んでいるのなら、殿の心配などするだろうか。
端から見れば親子。だが実際は愛す者と愛される者。
偽寵の詔を交わしていながらも、密かに恋心を抱く者も少なくはない。
(あの少女も、殿を愛してしまっているのだろうか……)
愛しても決して届かない思いを抱きながら、側に居るというのは辛いことだ。
何人も側室を持つが、殿は誰一人として愛さなかった。
愛したのはただ一人。殿の正妻である。
城に正妻がいないことを良いことに、側室たちは殿に言い寄っている。正妻として嫁ぐことができれば、側室以上の裕福な暮らしを約束される。それを狙っているのだ。
(主も、正妻の座を横取りしようと思うておるのか?)
小娘からはまだその気配を感じることは無い。だが、共に暮らして行くなかで、その気配は隠しきれなくなるであろう。
くノ一は辺りを見回し、誰もいないことを確認してから、殿と小娘の後ろを歩いた。