そのあと
この世界でも僕はパイロットで、この間の戦闘で僕は墜とされてしまった。
たまたま高度が低かったし、たまたま速度もそんなじゃなかったから、僕はそのまま何とかちかくの農道に機体をおろした。
キャノピィを開ける。じめっとした夏の空気が肌についた。そろそろ山に残照がかかって、蝉の声がうるさかった。
フライト・ジャケットを脱いで、僕は機体を確認する。
火はついてないから、多分爆発したりはしないだろう。爆発しても、周りに家もないから死ぬのは僕だけ。
翼に横になって、空を眺めた。星がまばらで、そのうち降ってきそうだった。いや違うな、僕がそこまで落ちてしまいそうだ。少し手を伸ばしたら、僕がもっともっと軽かったら。
──もしかしたら、あの向こうが天国かもしれないな、なんて。
地面に一回堕ちて、そこから天使なんかに連れられて空までまたあがってく。そしたらこんなにも悲しい星空の美しさも、どこか納得できた。
夜風が頬を撫でた。いつからか伸びてた髪をバッサリ切った後だから、微妙にちくちくした髪の毛が鬱陶しい。
髪をかきあげて、目を淡く閉じて。
来なくてもいいのに、そのまま寝てしまいたかったのに、遠く、ノイズみたいに僕を助けるためのヘリが近づいてくる音がした。
次に目が覚めた時には、僕は病室にいて、白いベッドと、白い壁と、とにかく何もかもが白くって、僕はいたたまれない気持ちになった。
窓の外は青空だった。それだけが唯一の救い。雲はあるけど、それも気になる程度じゃない。
窓際には花瓶があって、名前も知らない赤い花がさしてあった。誰か来たら、聞いてみよう。
「誰か」
久しぶりに声を出した気がする。自分の声も忘れてしまった。想像してたよりずっと高くって、そういえばこんな声だったかなって、薄ぼんやり思う。
しばらくして、白い服に身を包んだ女の人が入ってきた。長い髪で、物憂げで。
「どうしたの」
笑顔で僕に聞いた。泣き出しそうな声で。
「外に出たいんだ。出してもらえるかな」
「午後の検査がもうじき始まるから」
「検査?」
「うん、検査」
「それは、どんな?」
「貴女が誰なのか、それを突きとめるための」
僕のたまの願いはそんなことに邪魔されるのか。僕が誰かなんて、僕だけがわかってればそれでいいのに。最悪、僕もわからなくていい。また空に戻れればそれで。
「空には、いつ戻れるかな」
僕は聞く。
「パイロット?」
彼女が聞いた。
「うん」
「そっか、私も昔はパイロットだったよ」
「貴女も?」
「そう、私も」
そう言って窓の外を見た。変わらない景色がそこにはいて、僕は彼女に声をかけられなくなった。
「貴女は」
彼女が聞く。
「もう空に戻れないって言われたら、どう?」
泣きそうだ。泣いていたのかもしれない。
涙はなかったけど、多分泣いていた。
「僕は」
僕は紡ぐ。
「それでも、多分戻る」
「どうやって?」
「なんとかして」
「なんとかって?」
「なんとかは、なんとか。方法を見つけて、また戻る」
「そっか」
「うん」
彼女はそう呟いて、もう喋らなかった。ただにこりと笑って、その場に座って、糸が切れたみたいに力が抜けた。
そのまま寝息を立てたから、僕はベッドに戻った。
目を閉じる。遠くでエンジンの音がして、近くに基地でもあるんだろうって思った。
目が覚めた。
多分夢の中だからその表現が正しいのかはわからないけど、目が覚めたんだ。
高かった。
雲も遥か下に、まだ上がってるみたいだ。
エンジンが泣いてる。
それでも、僕は上がる。
そのうち、空が黒くなって。
そのうち、何も見えなくなって。
何も聞こえない。
何も、何も。
僕は。
夜の終わりみたいな色の空が、あんまりにも眩しかったから。
そのまま、動けなくなったまま僕はそこにいたんだ。
エンジンはとうに止まってて、油圧系も完全に落ちてた。
ビンゴ・ヒュール。帰る燃料も捨てていきたかった。
天国みたいだって、思った。
天使も神もいないけど、ここが天国なんだって思った。
ああ、できることなら。
永遠に、こんな世界で生きていられたら。
地上になんか戻らないで、ずっと。
ずっと、永遠に、いつまでも。
その日は、人と話すだけで終わった。
老人だった。男性。眼鏡をかけていて、目つきは妙に鋭い。
この人も、もしかしたらパイロットかもしれない。そんなにどこにでもパイロットがいるわけないのに。
老人は少し考え込んで、それから口を開く。
「名前は?」
「わかりません」
「歳は?」
「わかりません」
「生まれは?」
「わかりません」
「パイロットだな?」
僕は一瞬止まって、それから
「はい」
と答えた。
「認識番号」
「わかりません」
「所属」
「わかりません」
「機体はどうした?」
「農道に落ちたから、多分会社が回収したと思う」
「敵は?」
「トラクタの旧式が一機。僕の機体がボロボロだったから、落とされた」
「直前の任務は?」
「わかりません。確か、新型の何かを運んでた気がする」
老人はそこまで聞いてため息をついた。なにか言いたげに僕を睨む。なんだろう。言いたいことがあるなら言えばいいのに。
「中尉」
彼はそう言った。
「あんたの最終階級だ。中尉。MIA。直前の任務は首都の核攻撃。第七〇一戦術航空団所属。機体番号701011」
「それが?」
「それがあんただ、中尉」
「僕?」
そんなに色々と呼び名があったなんて知らなかった。しかも首都核攻撃の張本人ときた。
「大層な人間だったんだ、僕って」
「みたいだな」
「へえ」
どうでもいいことだ。
どうでもよすぎて、笑えてくるくらいに。
僕が誰かなんて、僕だけが知ってればそれでいいのに。
ただ、飛ばせてくれさえすればそれでいいのに。
僕はただ窓の外を眺めた。何も無い空だ。ちょっとつまらないな、なんて思った。
ふと、昨日話した彼女のことを思い出した。
泣きそうな声で、何かを諦めたみたいな目をした彼女だ。まるで生きてるみたいな感じがしなくて、
──もう、とうの昔に死んでしまっているみたいな
そんなことを言ったら彼女は笑うだろうか。怒りはしないだろうか。
部屋の隅、日の当たる場所に飾ってあった花が風でなびいた。昨日も見た花だ。赤くて、そういえばあの花も浮世離れしていたような。
「あの」
僕は聞く。
「あの花って、なんて名前なんですか」
老人は振り向いて、それから眼鏡の位置を調節した。ため息を一つ。なにか悟って、なにか諦めたみたいなため息だ。目の前で人が死んだみたいな。
「花の名前はわからない」
「誰に聞けばわかるかな」
「さあな」
それから彼は花の方を向いた。花は相変わらず風に揺られていて。
何も言わずに、何も。
何も言わずに、誰も。
その日も、夢を見た。
彼女の夢だ。遠い昔のことみたいに、僕の頭にこびり付いている。
学校みたいだった。
夕方だった。
彼女は窓際にいて、僕は机から顔を上げて彼女をみていた。
綺麗だ。
そう、思った。
彼女が何か言った気がする。
もうなんだか思い出せなかった。
夕の日に陰った彼女の顔はよく見えない。肩を震わせて、何か言いたげにそこに立っていた。
──本当は私だってわかっていたんだ。
誰かがそう言った。彼女じゃない。
僕が?
自分の声すら忘れてしまったのかもしれない。
ただ。
ただ、一つだけ。
彼女は、その時。
泣いていた。
朝の光が眩しかったからかもしれない。何かとっても悲しいことがあったような気もする。もう思い出せないけれど。
いつもの病室だった。
窓際の花が少し萎れかけていて、僕は枕元にあったペットボトルの水を少しかけてやった。これで幾日かもつだろう。
部屋の扉が開く。彼女だった。一昨日の白い服じゃなかった。オリーヴ・ドライのつなぎ。腰あたりにベルトがついていて、ブーツを履いている。
フライトスーツだ、と僕は思った。
僕が着ていたのとは少しデザインが違ったから、たぶ一般用かなにかなんだろう、彼女は僕のベッドの横まで歩いてきて、それから僕に
「中尉」
と声をかけた。
「外にあなたが乗ってたのと同じ機体があるの。久しぶりにどう?」
「いいのかな」
「なにが?」
「乗っても」
彼女は吹き出す。
「なにか面白かった?」
「ええ、とっても」
「どこが?」
彼女は少し間を置いて、それから
「パイロットが飛んでいいのかなって」
と言って、微笑んだ。
高かった。
青かった。
雲なんかもう遥か下に落ちて、僕らは二人きりになった。
何も聞こえなかった。
何も。
ただ、そこにいるという感覚だけがして。
僕の、
「僕の居場所は、ここなんだ」
「え?」
「やっぱり僕は、空にしかいられないんだ」
まだ太陽は高い。日差しがバイザー越しに目に刺さる。
「僕は、やっぱりここにしかいられない」
地上は、僕の居場所じゃない。
こんなにも不安定な場所が、僕にとっての唯一の居場所なんだ。
ここが。
この何も無い空が。
「でもいつか、僕らは降りなくちゃいけない」
燃料はやがて尽きるし、僕だってご飯を食べなくちゃ飢えてしまう。機体だって整備しなくちゃそのうちボロが出る。
「そんなのって」
僕らはただここにいたいだけなのに。ただこの美しい空間で、他に何も無い空間で、この広い、言うなればダンスホールみたいな空間で、ただ綺麗に踊りたいだけなのに。
「不自由だ」
重力に拘束されて、僕らはいつか地上に堕ちていく。
そのまま、翼なんて持ってないから。
僕らは地上に居続けるんだ。
飛べなくなったら、そうなるんだ。
「そんなの」
そんなのって。
「僕には」
耐えきれない。
降りてから最初に思ったのは、例えば日差しの強さだったり、乾いた風の匂いだったりした。
まるで夏みたいだ、まだ湿り気はないから、梅雨前みたいな。
彼女は先に降りてどこかへ行ってしまったから、僕はスタンバイ・ルームでコーヒーを飲んでることにした。テレビではどこかの国の、どこかの動物園の話が流れていた。どこかで見たことがある気がした。でも動物園の話なんてありふれた話、どこにでも転がってるから、あるいは僕の思い違いかもしれない。
ライオンの話だった。
──曇った空を見上げて、あるいは「ハヴ」が、雪の降りそうな空を駆けていった。
コーヒーを啜る。現実感のない味だった。缶のコーヒーよりはマシだと思うけれど、それでも。
──新型のエンジンに、新型の爆弾。新型の爆撃機に、護衛する戦闘機。
指がトリガを握る形になっていた。左手はスロットルに、足はフット・レバーに。目は空を見ていた。
見たこともないわからない空だった。ここよりもずっと色が薄くて、空気も汚れていて、これから壊れる色をしていた。
僕は。
彼女が、レーダ棟の屋上にいるのが見えた。
着替えたのだろう、白いワンピースに、麦わら帽を被っていて、手すりにもたれ掛かっていた。
階段を上がった先の空はとても青かった。
彼女はそこで、ただ空を見ていた。
入道雲だ。その上には、飛行機雲が一筋。
僕の機体だ。
そう思った。
「例えば」
不意に彼女が口を開く。
「こんな空の日に」
そこまで紡いで、彼女は目を閉じた。
綺麗だと思った。
「夏みたいだ」
僕は言う。
「そうね、夏みたい」
彼女はそう言って笑った。
泣いてるみたいに、笑った。
涙は見えないけど、僕にはそう思えた。
「泣いてるの?」
だから僕は尋ねる。
淡々と。
明瞭に。
端的に。
彼女は言う。
「そうかもしれない」
前を向いた。
口を歪ませて。
笑ってるみたいだ。
何かを諦めたような。
悲しい人だな、なんて。
寂しい人だな、なんて。
僕には彼女がわからなくて、だからせめて同じほうを向いていようと思ったから。
目の前には入道雲が浮いてて、その上をナイフみたいな翼の戦闘機が飛んでた。
それが、なんでか懐かしくて、僕は。
スロットル・アップ。ラダーを蹴飛ばした。機首を下にコンバット・マニューバ。そのまま落ちて、ギリギリで機首をあげる。地表ギリギリ。僕の顔がみえた。彼女の顔も。バイザー越しだったけど、多分笑ってた。心から、笑えてた。
それがとっても嬉しかったから、僕はにこりと笑って、そしてそれまでを思いだして少し泣いたんだ。
その涙が、多分これからの彼女に対する手向けだと思ったから。
遠くなっていく戦闘機が、段々と見えなくなって。




