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棲蛇

作者: たかむし

私はとても蛇が好きです。あの滑りのある皮膚を撫で恍惚とする夢を幾度見たことでしょう。夢から覚めても、変温動物の特有の体温を感じ、その至福のひと時を愛しむのです。そんな日は朝からとても元気で、家族から気持ち悪がられるほどでした。

 小さい頃から、蛇にとても興味がありました。初めて庭先でその姿を見た時、天からの使者が現れたのだと、興奮しました。私は家に飛び込むと、母親に、その使者の絵を描いて見せました。すると母は少し驚いたかと思うと、いつもの低い声で言いました。「蛇がどうしたの?」と。「へび」と言う生き物なのだ、とその時知りました。私には三人の姉がいましたが、彼女たちは皆、蛇と聞くだけで、怖がったり、嫌がったりしました。ですから、私は姉たちに蛇のことを話すことも質問することもできませんでした。それは母も同様でした。父はとても寡黙な人で、私は少し怖かった節もあり、何も聞くことはありませんでした。そういうわけで、私は小学校の図書室や市立図書館でたくさん蛇のことを学びました。私は時々スケッチブックを持って行き、図鑑の写真を模写しました(図鑑の貸し出しはありませんでしたし、もし借りることができても重いし、ましてや家族に見つかっては大変です!)。そんな私を見ていたのか、いつの日からか、図書館勤務のおじいさんが時々話しかけてくれるようになりました。私たちは時々、図書館の外に出て、蛇の話をしました。私はとても嬉しかったです。家や学校では、蛇の話をすることを嫌がられましたから。ある日、おじいさんは私に小さい蛇の置物をくれました。私は何度もお礼を言いました。でも、次の日からおじいさんの姿がなく、悲しかったのを覚えています(のちに図書館の方から聞いたのですが、おじいさんは心臓に持病があったらしく、あまり健康とは言えない状態だったそうです。私に置物を渡した日の夜遅くに緊急入院をしなければならない事態になり、その数日後に亡くなられたそうです)。大人になっても、私は蛇が好きでした。時間があれば、動物園に行き、爬虫類のコーナーで何時間もいました。じっとその様子を眺めたり、スケッチブックを持って絵を描いたり、蛇との時間を大切にしていました。あなたの望むものは?というアンケートがあれば、蛇に埋もれて眠りたい、と答えるかもしれません。しかしながら、私には相変わらず蛇の話ができる友達や同僚はいませんでした。もともとコミュニケーション能力が低く、周りから根暗で気持ち悪い、と言われていることも知っていました。ただ陰湿ないじめを受けたことはありません。きっと害がなかったのでしょう。空気みたいなものです。では今の時代、TwitterやらFacebookやらSNSを利用すれば、蛇のことをもうずっと永遠に近いくらいの長い時間話せる仲間が見つかるかもしれないと思いました。私は早速アカウントを作ってみました。それを作った時はワクワクと心が躍りました。仲間が見つかる!と大興奮したのです。そう、初めて蛇と出会ったあの日のような感覚が私を包みました。しかし、もともとが口下手なのに、何をどうそこで表記すればいいのか全く分かりませんでした。プツリと私の未来ある明るい蛇世界はあっけなくシャットダウンされました。結局、私の蛇の話を聞いてくれるのはおじいさんがくれた蛇の置物と愛犬のマルコだけでした。それでも私は彼らに話をすることが大好きで、口下手なくせに、蛇の話をする時だけは流暢に言葉を紡ぎ、次から次へとよくもまあそれだけ喋れるな、というほど話をしていました。ただし、とても小さな声でしか話せませんでした。家族に聞かれては大変ですからね。これをそのままSNSに載せればいいじゃないか、と思われるかもしれませんが、顔も知らない相手に対しては話をするのは少し恐怖でもありました。難儀な性格なのかもしれません。そんな相手だからこそ、話せる、と言う考えも分からなくはありませんが、私には向いていないようでした。とにかく、私の生活は蛇ありきでした。見た目はいたって普通なのですが、頭の中は蛇のことで毎日いっぱいでした。私はきっと幸福だったと思います。


 そんな蛇女(残念ながら巳年女ではないのです)の私に革命が起こってしまいました。なんでこんなことになってしまったのでしょう!と初めて蛇以外のことに思考回路が反応してしまいました。実は、好きな人ができてしまったのです。恥ずかしいです。本当に恥ずかしいです。恋愛なんて無縁だと思っていました。二十代後半にして、初恋だなんて本当になんてことになってしまったのでしょう。私の姉たちはみんな結婚し、子供もできて、末っ子の私一人だけが今も実家におります。姉たちは私のことを心配してくれていたのだけれど、蛇の趣味だけはやめてほしい、とも懇願されていました。恋愛とはなんぞや、の世界観の私は姉たちがそれに翻弄し、結婚し、というその状況を見ていてもあまりピンときませんでした。なぜか、私は姉たちから彼女たちの恋愛話をよく聞かされていました。きっと私が無口でただニコニコ笑って聞いていることに安心感を覚えたのでしょう。ここだけの話ですが、私は姉たちのラブストーリーをすべて蛇に置き換えて物語を作っていたため、始終笑っていたのです。ただそれだけのことです。しかし、その真実を姉たちが知れば、きっと血相を変えて私に恋愛話などしなくなったことでしょう。そんな私なのに、好きな人ができたのです。これを革命と言わず、なんと言えばいいでしょうか。人間に好意を抱いているのですよ!その彼は魚沼さんと言います。ええ。蛇ではなく、魚です。顔が蛇みたいかって?いいえ、そういうわけではありません。じゃあ、なぜ?彼は私が勤めている研究所に通っている営業の方で、主に薬品や器具などの納入を担当してくださっています。彼と少しお話をする機会がありまして(もちろん仕事の話ですけど)その話し方が、あの蛇おじいさんに似ていらっしゃるのです。笑った感じもとても優しくて。そして、たぶん、これが決め手なのかしれませんが、手がとても冷たいのです(書類を受け取る際に彼の手に触れてしまったことがありました)。蛇のあの感触に似ているのです。うわ、蛇様!私はそう感じた瞬間から、私の頭の中は半分蛇、半分魚、となりました。しかし、好きな人はできたけれど、そこから先どう進めばいいのかなんて私には分かりません。こんなことを相談できる友達も同僚もやはりいません。姉たちに相談しようかと思いましたが、なんだか恥ずかしくて打ち明けられません。蛇の話と同じように、マルコに、魚沼さんの話をしました。だからと言ってマルコが的確な答えを出せるわけがありません。蛇の置物にだって同じことです。私はため息をつくことが多くなりました。恋愛って、人を好きになるって、大変なのだなあ、と改めて実感しました。姉たちの喜怒哀楽の表情が思い出されました。しかしです!革命は、奇跡はまだ起こり続けたのです。神様、と言うものが存在するのであれば、それが神様の導かれた出来事であれば、私はもう感謝の限り、誠心誠意、神様に尽くせると思いました。そうです。私は『彼女』に出会ったのです。きっと、蛇をこれほどまでに思ってこその私だからこそ、神様がこの出会いをくださったのです。いえ、起こるべきして起こった事実なのかしれません。あら、じゃあ、神様必要なかった?分かりません。


 今日はかなり疲れていました。研究所の裏口のドアを開いた時に、入ってきた空気を思い切り吸い込んだ途端、咳き込みました。私は大した仕事はしていないのですが、大腸菌の管理に今日ほど疲れたことはありません。後輩のミスでインキュベーダー内の温度管理のシステムが誤作動し、増殖させていた大腸菌が全滅してしまったのです。責任は全部私に振ってきました。私は上司に平謝りをし、その研究を行っていた研究員にも何度も頭を下げ、その後、全滅した菌をその工程まで作り上げるための準備をしました。ただ順調に増殖するかどうかは明日にならないと分かりません。後輩はかなり落ち込んでいました。私は全精力を使うほどの笑顔を振りまき、大丈夫、そんな顔しないで。と慰めましたが、そちらの方が大腸菌よりも厄介だと思いました。そんなわけで、研究所を出た時には日付が変わっていたように思います。ふらふらと表通りへと抜ける通路を歩いていると、そこに植えられている垣根のところに何か見えました。一瞬、自分は相当疲れているのだわ、と思いました。でも、私は確信しました。蛇です!蛇がいたのです!しかも、透明なのです。皮膚が薄いのでしょうか?臓器みたいなものがすべて透けて見えました。そんな生物がなぜ蛇なのだ、と思うかもしれませんが、いいえ、この長年の私の蛇眼球からすれば、まさしく蛇以外の何物でもないのです。確信なのです。まさか!新種!こんな子見たことない!頭の中の蛇図鑑をすごい勢いで検索しました。でも、いない!大発見だったりするのかしら!疲れがすべて吹っ飛び、興奮し、頬が紅潮するのが分かりました。時間帯もあって、あたりに人影はなく、私一人がこの蛇を見ていました。私はゆっくりとその透明な蛇に近づきました。しゃがみこんで、恐る恐る手を伸ばし、その薄い体に触れてみました。ひんやり、ではありませんでした。ぞくり、としました。全身がビリビリするほどの冷たさだったのです。やだ!もしかして死んでいるのかしら?いいえ、心臓のようなものが動いているように思えるのですけど。自分の心臓の脈打つ音が大きく耳に響くのが聞こえました。助けなきゃ!これは大いなる使命です。私は鞄の中からハンカチを取り出すとその薄い今にも溶けてなくなりそうな体を包み、また鞄の中に丁寧にしまい込みました。これからどうすればいいのかなんて分からないけれど、私は研究所のロッカールームに戻り、蛇と財布以外を全部ロッカーに置いて帰ることにしました。本当は見直さなきゃいけない資料もあったのですが、それどころではありませんでした。私にすれば、仕事より蛇の方が大事です。蛇を守るように細心の注意を払い、のそりのそりと歩きました。たぶん、ものすごく奇妙な歩き方だったと思います。人が少ない時間で本当によかったです。でなければ、大丈夫ですか?と誰かに声をかけられるような不自然な歩き方をしていました。不審者そのものです。私は時計を見、終電を乗り過ごさないように、ゆっくり早く歩き走りました。ええ。表現がおかしいと思われるでしょうけど、そんな感じなのです。終電に間に合った私ですが、電車の揺れが、蛇に影響がないかと気が気でなりませんでした。タクシーにすればよかったかもしれない。私は電車の中で、硬直したかのように、鞄を固定して座っていたので、真向かいに座っていたサラリーマン風の男性に奇妙な目で見られました。

 私は家に着くとできるだけ静かに、そして迅速に自分の部屋に向かうため、階段を駆け上りました。父も母もとっくに寝てしまっているだろうから大きな音を立てるわけにはいかなかったのです。部屋のドアを開き、明かりをつけるとベッドの上にマルコが寝ているのが分かりました。マルコはいつも私の部屋にいます。私の帰る音に反応し、ピクリと耳を二、三度ほど動かし、顔を上げました。と同時に、尻尾を振りました。振るだけで飛びついてくるタイプの犬ではありません。若干、肥満気味なのもあるので、ベッドから飛び降りるのも一苦労なのでしょう。今日はどうやってベッドの上に上がったのかしら、とふと思いましたが、私は我に返り、すぐさま、鞄の中からハンカチを取り出し、それを広げようとした時でした。その隙間から、ものすごい勢いで何かが飛び出す感じがしました。一瞬、私は何が起こったのか分かりませんでした。そばにいたマルコが大きな奇声をあげました。私は驚いて、仰け反り、後ろに転んでしまいました。マルコの目がぐるぐると回り、狂ったように痙攣を起こし始めました。え、ちょっと、マーちゃん!私は起き上がり、マルコを抱きしめました。ちょっとどうして、何が起こったの?私は涙が出そうになりました。その時、母が私の部屋に入ってきたのです。

「ちょっと、すごい声がしたんだけど。どうしたの?マルコ、どうしたの?」

母が心配げに私の背後から声をかけてくれました。私は振り返り、首を振りました。

「わからない。急に奇声をあげたかと思うと、今度は痙攣しだして。どうしよう。どうしよう、お母さん」

私は母の顔を見て、つい、泣いてしまいました。私はマルコを抱いたまま、母に泣きながら問いかけました。ところが。痙攣が収まっていることに気づいたのです。

「あれ、痙攣してない。まさか、死んじゃったの!!」

今度はピクリとも動かないマルコの様子に驚愕しました。母も驚いて私の隣に座り込み、マルコを覗き込みました。

「もう、最子、しっかりして、息してるわよ。生きてる。痙攣も今はしてないし、明日病院連れて行きなさい。もうこんな時間。仕事、大変だったの?早く休みなさい。いいわね」

母は私の背中を一度軽く叩くと、部屋を出ていきました。私はマルコを見ました。いつも通りのマルコに戻っている、気がしました。私はホッとため息を吐くと、マルコを再び、自分のベッドに座らせました。そして、あ!蛇!と思い出したのです。慌ててハンカチを広げましたが、そこにはあの透明な蛇の姿はありませんでした。一騒動あったうちに何処かへ逃げてしまったのでしょうか。あんなに弱っていたのに?誤って踏みつけていたらどうしよう!私は顔面蒼白となり、ベッドの上やら下、机の下、本棚の隅、など捜索を試みました。

「危機一髪」

声が聞こえた気がしました。え?お母さん?床に這いつくばった状態で顔だけをドアの方に向けましたが、母はいませんし、ドアもきっちりと閉まっています。誰かが顔を出している形跡は見られません。マルコがじっと私を見ていることに気づきました。ん?マルコ?妙に表情があるように思えました。え?

「本当、死んでしまうかと思いました。どうやら成功したみたい」

喋っている。喋っているのはマルコだったのだ。ええええええええええ!?!?!私は今日、何度驚いているのだろう。心臓が壊れてしまいますよ!私は相当疲れているのかもしれません。マルコのそばに顔を近づけました。

「あら、あなたさま、びっくりしておいでですか?私の姿が見えるくらいですもの。そりゃ、声だって聞こえますよ。わざと話しかけているのですから。あなたさまは『稀のひと』ですね。幸運でした」

何を言っているの?マルコ。夢を見ているのでしょうか?私は自分の頬を両手で叩きました。痛い、目が覚めている。幻覚!?もう重症!?マルコを病院に連れて行く前に、私が病院に行かなきゃいけないのかもしれません。

「あ、申し遅れました。わたくしの名前は爬蛇子です。棲蛇です」

「は?ハジャコ?え?なんて?なに?は?え?どうなってるの?」

自分の声が異様なほど乾いて聞こえました。その様子がおかしかったのかどうか分かりませんが、マルコが笑い声をあげました。い、犬が笑っている!私はベッドに頭を埋めました。

「マルコさんに棲まわせていただいている、のです。犬は人間に一番近いらしいですね。元来、棲蛇は人に棲む蛇なのですけど、今回は緊急事態でしてね。この毛むくじゃらのふとっちょに棲まわせていただています」

何を言っているのかさっぱり意味が分かりませんでした。マルコがおかしくなったのか、私がおかしくなったのか。どちらにせよ、おかしな状況下にあることに変わりはございません。私は覚悟を決めて、というのは大袈裟ですけれど、顔を上げると、マルコに話しかけることにしました。

「は、ハジャコさん。えっと。その、マルコに住んでいるってその、マルコに影響はないのですか?その寄生とかそういうものではないのでしょうか」

マルコに話しかけるのはずいぶん変でした。もちろん、普段からマルコと蛇の置物にはよく話しかけていますけれど、いつもとは違います。だって、返答があるのですから!得体の知れない世界に飛び込むということはかなり覚悟がいりますでしょう?SNSでさえ、大好きな蛇について怖くて話しかけることができないなのに、こんな不可解な者に挑むことができるとは!そんな私に少し笑えます。勇気とは!こうして生まれるのかもしれないです。参考までに。

「寄生!心外です。寄生というのは宿主に害を及ぼすもののことをいうじゃありませんか!少なくとも、この爬蛇子は寄生などいたしませんよ!もちろん、そういう形を取る棲蛇もいます。でも、大部分の棲蛇たちは共存というか、共生というか。本来、害のあるものではございません。あなたさまのように、棲蛇に気づき、共に暮らしている人もいます。つまり、『稀のひと』であり、稀なのです。変な言い方ですね。『稀のひと』というのは私たちのことが見える人間のことです。ほとんどの方は見えません。存在すら知りません。だってそうでしょう?実際、あなたさまだって驚かれたじゃありませんか。稀のひとでさえ、これですよ。気づいてないだけで、棲蛇の棲家になっているひとはそのへんにだっていると思います。さて、最初の質問にお答えしますね。マルコさんに特に影響はないと思いますが、先程も言いましたが、私たち棲蛇は元来、人に棲む蛇です。ですから、あまり長い期間ここに棲みますと、影響が出てくると思います。つまり、私が害になってしまうことがあり得る、ということです」

害になってしまうことがあり得る、ということ。私は少し落ち込んでしまいました。その様子を見たのか、マルコはまた話し出した。

「わたくしはあなたさまを悲しませたくありません。私を助けてくださったのですよ。私が今なすべきことは、棲家となるひとを探すことです。毛むくじゃらのふとっちょに長居をする気はございませんのでご安心ください」

私はマルコを見つめました。この中に棲蛇というものが棲んでいます。それは蛇なのでしょうか。はい、蛇です。あの姿は蛇でした。不思議な、でもとても優しい感覚が私を襲いました。ああ、この感じはきっと、蛇に関わっていることへの幸福以外何ものでもないのだ、と実感しました。とりあえず、私はマルコのためにも、そして、このハジャコさんのためにも、新しい住まいを探さなくてはなりません。と思った時、ふと疑問が沸きました。私は素直にそれについて問いかけました。

「なぜ、弱っていたの?マルコの前に棲んでいたひとが意地悪だったとか?」

マルコは驚いたかと思うと、すぐに、うつむいて影を含むような暗い表情を見せました。

「わたくしは。自分でいうのも嫌ですが、棲蛇の中でも下級種族に位置してします。未熟者である、とうこともあるのですが、わたくしは間違って、『害のひと』に棲んでしまったのです。初めて棲むということができて一人前の棲蛇なのですが、最初から失敗をしてしまい、危うく命尽きるところをあなたさまに助けていただいたのです」

稀のひとの次は害のひと、ですか。私は大腸菌育成工程を記録しているノートの一ページを破りとると、そこに、稀のひと、害のひと、ハジャコ、マルコ、私、と記した。

「私の癖なの。図式化するのが」

その行動を見ていたマルコにそう断って図を描いた。

「害のひとって言うのは何なの?」

「棲蛇の天敵と言いましょうか。いえ、それもおかしな表現です。まあ、言えば、棲んではいけないひと、のことです。ひとにもあるでしょう?摂取しては命取りになってしまう、食材とか。そういう感じ、と言った方がいいですか?それもまたおかしいかもです。害のひとの方が、実は稀でして、昔昔に、棲蛇に棲まわれて、害を受けてしまったひとが、それらを排除するための抗体をもつ人間に進化した、とも言われております。大部分の棲蛇は害などありませんよ。本当です。たぶん、棲んだ棲蛇の性質が寄生系だったのでしょう。害のひとに入り込むのは容易ですが、抜け出すことが困難なのです。最初は気づかないのです。でも気づいた頃には自分の体が毒され、瀕死の状態になっているのです。私は幸運でした。あなたさまが助けてくださったのです。下級種族のわたくしはあなたさまに出会えて本当によかったです。蛇の恩返し、なんていうのもおかしいですが、なにかお礼というか、何かしてほしい事とかございますか?お役に立ちたいです」

「下級種族ってあなたはいうけれど、全然そんなふうには思わない。だって、そんな害のあるひとから脱したのもあなたの力だし、瀕死の状態からでもマルコに入ったのも実力だし。私としてはね、話ができるってことだけで、本当にすごいことなの。もう、本当にすごいことなの。だって、私、ずっとマルコに話しかけていたけれど、聞いてはくれていたかもしれないけれど、返答はなかったもの。だから、今、話ができるって本当に素敵なことなの。しかも大好きな蛇と話しているのだから。ありがとう、ハジャコさん、お礼なんていらないわ。そうだ、私に棲んでくれてもいいのよ?」

私は心の底からそう思いました。だって、蛇です。大好きな蛇が私に棲むのですよ。こんな幸運ってありますか?ああ、神様、仏様、蛇様。私は幸せです。マルコが喋らなくなったので、私は慌てて言葉を繋げました。

「もしかして、稀のひとにも棲んではだめのかしら?それも危険行為なのかしら?」

「いえ。命を助けて頂いた上に、居住先の提供までしてくださるなんてこんな光栄なことありません。なんていい方なのですか、あなたさまは。なんていいひとなのでしょう」

マルコは泣き出してしまいました。犬が泣くのを初めて見ました。当たり前です。泣く犬なんていうのはいないでしょう。私はよしよし、とマルコの頭を撫で、慰めました。

「嬉しいです。本当に嬉しいです。棲まわせていただけるのなら、是非お願いしたいです。あ、でも、わたくしは下級上、私が棲むことで、蛇の印が体の一部に現れてしまいます。ほら、ここ、けむくじゃらのふとっちょのここを見てください。一部が鱗化しています」

マルコは右の後ろ足をあげて私に見せてくれました。確かに毛の生えていない薄い皮膚の部分に鱗がべっとりとくっついています。私は再度震えました。

「嬉しいです。そんな一部が鱗化するなんて、この上ない喜びだわ。ねえ、ハジャコさん、私に棲んでください。私、すごく蛇が好きなの。だから、こんなかっこいい印がもらえるなら喜んであなたに体を提供するわ。だって!ほら、見て、本当にかっこいいんだけど!」私は興奮しながらマルコに話しかけました。偽物の鱗じゃない、本物の蛇の鱗が自分に宿るのです。こんな幸運!

「あなたさまはなんて素晴らしいひとなのでしょう。本当にお礼をさせていただきたいです。どうか、どうか。お願いします。爬蛇子、このまま、すんなり居座ることはできません」

私は懇願するマルコに少しだけ申し訳なくなってしまいました。だって私は好きなだけですもの。何もお礼を受けるようなことなんてしてないのですもの。

「じゃあ…」

私は初めて打ち明けることにしました。そうです。好きな人の存在を、です。まさか、人間ではなく、犬に棲んでいる蛇に最初に相談することになろうとは。我ながら、あっぱれ、と言ってあげたかったです。

「私、その、相談できる友達とか全くいなくて。どうしていいのかわからなかったのですけど、その、恋愛相談とかのっていただけますか?あ、その、いいんです、答えなんてなくても。さっきも言いましたけど、返答があるだけで本当に嬉しいのです」

私は少し恥ずかしくなってきて、だんだん声が小さくなりましたが、マルコは笑顔で、あなたさまのお話なら、この爬蛇子、いくらでもお聞きします。そして、話し相手になりますよ。と言ってくれて、今度は私が思わず泣いてしまいました。すると、マルコが私の頭を撫でてくれたので、おかしくて笑ってしまいました。表情を数分のうちにこんなにも変化させたのはいつぶりなのでしょうか。私はとても幸福でした。

 結局、私が眠りについたのは午前四時を過ぎていました。このまま、徹夜で仕事に行こうかと思いましたが、さすがにやめました。ハジャコさんと話をしたあと、私は風呂に入ったり、USBに落としておいた研究資料を再度チェックしたり(本当に見直したい資料はロッカーに置いてきてしまったので)と明日に備える準備をしました。仕事のことを考えると少し心が沈みましたが、なんせ、私は明日眠りから起きた頃には、体に蛇を宿し、その印として鱗を身につけているのだから、と思うと、自然と笑みが溢れてしまい、なにくそ、憂鬱事もなんのその!と吹っ飛ぶのでございました。睡眠は一時間もなかったと思います。それでも頭はすっきりしていて気持ちが悪いほどのいい目覚めでした。マルコは犬用のベッドで寝息を立てて寝ておりました。私は目を覚ますといつもの癖で、すぐに腕時計を左手首にはめようとした時でした。左の手首の一部分が三センチ四方くらいの範囲で鱗化しておりました。その鱗は薄く乳白色で、よく見ないと分かりません。でも、確かに鱗です。朝日に照らすと煌めいて見えました。ああ、なんて素敵なのでしょう。寝ている間に、ハジャコさんがマルコから私に引っ越ししたのでしょう。「おはようございます」その鱗が表情を伴い、喋りました。「棲み直し完了しました。体調は大丈夫ですか?お仕事頑張ってくださいね」私に最高の朝がやってきました!


 始発の電車で研究所に行くことにしました。本当なら、こんなに早く行く必要はないのです。ただ、私はロッカーに大事な資料を置いたままだったので、今日の作業工程について全く頭に入っていませんでした。この上、また失敗などしてしまったら私は立ち直れないかもしれません。でも…。私は揺れる電車の中で考えました。もしそうなったとしても、私は左手首を見つめました。私にはハジャコさんが棲んでいる、と改めて鱗の存在を確かめ、ワクワクしました。私の生活が一変したのです。コミュニケーションが苦手な私ですが、もう誰にでも話しかけたくなりました。私は左手首に腕時計をすることをやめました。少し違和感を感じ、不便に思いましたが、右手首に時計をすることにしました。左にしてしまうと、鱗が見えないもの!ハジャコさんは「私の印(鱗)が見えると、最子さんが恥ずかしい思いをしてしまうかもしれないと思い、そこにしたのですけど」と気を遣ってくれましたが、それでは、私が寂しいわ、ということで、右手首に時計をしているのです。「本当に蛇がお好きなのですね」とハジャコさんは笑いました。彼女との言葉のやり取りは私がブツブツ言って周囲の人間に気持ち悪がられないようにと、また配慮してくださって、私の頭の中で会話を行うことにしました。頭内会話と言っておりました。変な表現ですが。そういえば、どうやって、マルコと会話できたのか、と質問すると、

「犬にも犬の言葉がありますよね?そこを介して、ひとの言葉に変換して、話しているだけです。もちろん、蛇同士の言葉もありますが、さすがにそれは稀のひとでもなかなか理解するのは難しいですよ。まあ、最子さんならできるかもしれませんね。私がわざわざ人間の言葉に変換しなくても、理解できるかもしれません」

ちなみに、私の会話はそういう感じではないらしいです。ハジャコさんに言わせると、私の思考回路の中にハジャコさんが浮遊している感じらしいです。と言われてもよくわかりませんけど。まあ、蛇が体内に棲んでいる、ということです!それだけです!ハジャコさんは自分の事を下級種族と言っていますけど、こんなに普通に会話できるのですから、きっと謙遜していらっしゃるのだわ、と私は思っています。しかも、気遣いまでできるのですよ?私なんかよりかなり優秀なひとです、いえ、蛇です。


 研究所の裏門まで歩いていると、私に心臓が飛び出ることが起きました。そうです、もう本当に、私は昨日から心臓を酷使していると思います。ごめんなさい、私の心臓。

「おはようございます。藻神さん。お早いんですね」

声をかけてきたのはなんと、あの魚沼さんです。ちょっと!なんで来ていらっしゃるのですか!研究所はまだ2時間近くしないと研究員以外は出入りできませんよ。私は全身がビリビリと凍りつくような震えを感じました。そんなに感じなくても!と思うほどの緊張感でした。ん?違う、私の緊張じゃない?

「あ、お、おは、おは、おはようございます。あの、私は作業ミスがございまして。その、早めに来て、その、えっと。えー」

私は一生懸命に会話をしようと思いましたがなぜかうまく喋れません。もちろん、私自身が緊張しているから、ということもあります。でもそれとは違う何かが私を締めつけ、言葉を発せないようにしているかのようでした。魚沼さんは、そんな慌てふためいている私を見て、小さく笑うと、軽く手を上げた。

「あ、すいません、作業内容を聞くつもりはありません。あの、これを。私、昨日うっかりしておりまして、こちらの薬品をお渡しするのを忘れておりました。何度か携帯の方にお電話させていただいたのですが、連絡がつかなかったので。もし、必要不可欠なものであれば、と思いまして、こんな朝早くからやってきました。ご注文された本人に会えるとはちょうどよかったです」

魚沼さんは小さな白い箱を鞄から取り出すと私に差し出しました。

「こ、こんな朝早く、から、すいません。あり、ありがとうございます、ました」

魚沼さんはまた笑います。私の胸がきゅんとしてしまいます。私はその箱を彼から受け取る時、不本意にも彼の手に触れてしまいました。カッと体が発火したようになり、私は驚いて、その箱を取り落としてしまいました。魚沼さんもその熱さを感じたのか、同じように驚いた表情を浮かべていました。私は慌てて、落ちた箱を拾い上げると、もう一度お礼を言い直しました。彼は頷くと会釈をし、去って行きました。私はその背中をしばらく眺めていました。また触れてしまった、と思いました。そして、心臓をまたしても酷使しているのです。ああ、これが恋なのかしら?と。その時です、ハジャコさんの声が聞こえました。

「まさか、あの人が好きな方ですか?」

なんだか、とても暗い声色でした。私はその声の響きにドキリとしました。

「そうです。どうかしましたか?」

私は左手首の鱗に話しかけました。

「あの人は」

ハジャコさんは言葉をそこで切り、なかなか続きを話しませんでした。

「ハジャコさん?」

「あのひとは前わたくしが棲んで命を奪われそうになったひと、害のひとです」

青天の霹靂。これはただの偶然なのか、なんなのか。ああ、神様、仏様、蛇様。一体どういうことなのでしょうか!私の好きになったひとは害のひと。私は棲蛇を棲まわせている稀のひと。私はどうすればいいのでしょうか。私が混乱していることを察したのか、ハジャコさんが今度はとても優しい声で話しかけてきました。

「落ち込むことはございません。先ほどは驚いて、最子さんに異様な緊張感を与えてしまったり、体温上昇させてしまったりしてしまいました。申し訳ございません。わたくし自身が害のひとに直接触れるのがいけないだけで、最子さんが彼に触れることに関して全く問題はございません。それでわたくし、気づいたのです。昨日、最子さんと魚沼さんが触れた瞬間、わたくしの体が離脱できるとなぜか、直感で分かりました。ヒヤリとしませんでしたか?わたくしはあの瞬間に脱することができたのです。一瞬の間ですね。こういうことがあるとは聞いていましたが、わたくしは本当に幸運です。稀のひとはもしかすると害のひとをなにか中和する効果でもあるのでしょうか。そんなこと聞いたことないのですけど」

昨日、魚沼さんに触れたかしら?覚えてないのだけれど。

「わたくし、お礼と言ってはなんですけど、魚沼さんと最子さんが結ばれるようにしてみたくなりました」

突然の提案に、私は驚いて、思わず、ひゃ!と声を上げてしまいました。

「な、なにを、言い出すのですか!ハジャコさん!私はなにもそんな…」

結ばれるなんてそんなこと考えてもみませんでした。ただ、魚沼さんとは仲良くなりたいなあ、もっとお話がしてみたいなあ、とは思っていましたけれど、それ以上のことはなにも考えておりませんでした。

「そうなのですか?いずれ魚沼さんと性行為したいのだと思いました」

ぎゃああああああああ。なんたること!!!!!火が吹き出そうなほど顔が真っ赤になるのが分かりました。

「動物の本能たるものです。子孫繁栄。わたくしはそう思っております。人間の恋愛は生き物の中でも一番面倒臭い、とわたくしは思っておりますけれども、所詮、根底にはきっと子孫繁栄の意があるはずです。たぶん、発情したのですよ、最子さん」

「は、発情だなんて。は、は、ハジャコさん、か、か、考えさせてください」

「お気の召すまま」


 作業は思うように運びませんでした。仕方ありません。私自身が冷静ではなかったのですから。そうです、ハジャコさんの衝撃的発言です。なんたること。そのことばかりが頭の中をぐるぐるしていて何も集中できず、後輩がとても心配しておりました。私はその日、何度「ごめんなさい」や「すいません」と言ったでしょうか。覚えていられないほどの回数でした。また失敗されたら困るから、今日はもう帰ってくれ、と上司にまで呆れ顔で告げられた時は、本当にすいません、と頭をこれ以上下げられないというほど下げました。朝早くに来た私は一体何だったのでしょう。私はまとめた資料を後輩に、ごめんなさい、明日はちゃんとするから、と情けない顔で謝りながら、手渡しました。私は研究所を出ると、空白の時間を持て余してしまいました。私は左手首に視線を移しました。あ、違います、右手首に時計をしているのでした。時刻は二時を少し回ったところでした。こんな時間に家に帰ったら、母が驚くかもしれないなあ。母は近所のスーパーにレジのタイムパートに出かけていますが、もうそろそろ帰宅している頃だと思います。動物園に行こうかな。私はなんとなくそうと決めると、馴染みの動物園に向かうことにしました。動物園の最寄り駅までの切符を購入し、構内に入り、電車が来るまで、椅子に座っていました。吹いてきた風が少し冷たく、もうすぐ冬になるのかなあ、と思いました。冬になると冬眠する蛇のことを思いました。ああ、蛇。私は鞄の中から小さい図鑑を取り出しました。爬虫類図鑑です。ハジャコさんは今朝以来私には話しかけてきません。私の体の中で何をしているのでしょうか?私は左手首を見つめました。

「ハジャコさん、私には分からないのです。本当に分からないのです。恋愛というものがどういうものかどうか分かりません。恥ずかしいことですが、私は何も経験がないのです。蛇の生態などは勉強し、交尾についても刺激的で興奮してしまったこともありますけど、自分自身がその、そういう行為がしたいから、とか、そんなこと考えてもみませんでしたから、私、どうすればいいのでしょうか」

ハジャコさんは何も答えてくれませんでした。怒らせてしまったのでしょうか。私は仕事を失敗した事よりも、こちらの方がショックでした。せっかく蛇の友達ができたのに、一瞬にして失ってしまったのでしょうか。

「ああ、すいません。寝ていました」

ハジャコさんの返答に、体がピクリと反応してしまい、つい自分の周りをきょろきょろ見回してしまいました。

「仕事、大変でしたね。わたくしは棲んでいるだけなので、あなたさまの行動までどうこうとしてあげられるわけではありません。ごめんなさい。えっと、それで、どうしたらいいか、ですね。わたくしもつい興奮してしまいましてね。いえ、そのわたくしたち棲蛇は棲家が決まりますと成熟段階に入ります。そして、子孫を残すという本能が開花します。なのでつい。人間とわたくしとでは違いますのに、あのようなことを申してすいません。実を言いますと、すでに自分の卵をたくさん抱えております。ほら、最子さんの前に、魚沼さんに棲んでいましたからね。あの時成熟し、卵も育成していたのです。でも本当にわたくしも卵も死なずにこうして、最子さんの中で暮らせてよかったです。私が卵を放出して、血液に詰まらせ、あなたさまを死に至らしめるようなことはありませんからご安心ください。そうそう、わたしたち棲蛇は元来単為生殖種です。私の子供ができた際にはきちんと巣立ちさせます。さすがに最子さんの中にたくさん蛇がいるのは嫌でしょう?」

他人事のように、ハジャコさんの話を聞いていました。それでもハジャコさんが私の体内で子供を産む、ということに、背中のあたりがゾクゾクといたしました。小さい頃から大好きで片時も離れて痛くなくて、そして常に憧れていた蛇が今体内に棲み、そして、子孫の話をしているのです。

「ちょっと、待って。もしかして、ハジャコさん、私、蛇の子供を産む事ができるの?」

「いいえ、あなたさまが産むことはないです。生まれるのは幼棲蛇で、私の子供です。しかし…。試した事はございませんけれど、可能、かもしれませんね」

ハジャコの言葉に背筋が凍りつくような寒気を感じました。私はどうなってしまうのでしょうか。

「最子さんはとても蛇を愛していらっしゃいます。わたくしは人間と違ってたくさん卵を作ることができます。卵のひとつを最子さんの卵に組み込んでみましょう。もちろん、確証はございません。ただ、棲蛇は棲家に害を及ぼすものではございませんから、卵を組み込む行為で、最子さんが体調不良になることは考え難いです。もし、なんらかの影響が出たらやめましょうよ。これから、話すのもあくまで仮定の話です。最子さんと私の卵が融合したもの、融合卵ができあがるとしますね。そこに例えば、魚沼さんの精子が入り込み受精するとします。さあ、どうなるのでしょう?まあ、それをどうするかは最子さん、あなたが決めることです。もしくは、単為生殖種ですから、精子の役割をする極体を残し、そちらをあなたさまの卵を受精させることも可能、かもしれません」

私の思考回路のカラーがすべて変化しました。ざわざわと音を立て始めました。これは運命なのです。きっと。

「私が…蛇の子を産む」

「最高のシナリオですよ、最子さんなら、ちょうど勤め先もいい場所じゃないですか。人工授精もできるのでは?あなたさまは稀のひと。ですから、私の卵もしっかり見えるでしょう?なんだってできます。夢の卵です」

「私が…私は…」

私は自分でも信じられないほどの低い声を発していました。考える時間はまだたくさんあります、とハジャコさんが私とは正反対の明るい声で囁いた。

「私、魚沼さんと結ばれてみたい。というより、その蛇とひとの受精卵にとても興味があるの。今朝の話は動揺したのだけど、その先のこと、そう、子供のことなんて考えてもいなかったわ。そうね、子孫繁栄。私、今とても怖いの。でも、でも、嬉しいのよ。ハジャコさんの卵が欲しいです。そして、私の卵と融合してみてはくれないかしら。失敗しても、繰り返せばいいだけのことだから。私はこの先、子供を産むなんてこと考えてもみなかったけど、大好きな蛇のためなら、こんな素晴らしいことってないじゃないの?なるほど、私があのひとを好きになったのも、あなたに出会ったのも必然的だったのね。何もおかしなことじゃないのね。稀のひとと害のひと。やだ、本当どうなるの?それにあなたが加わるとどういう子供ができるのかしら?試してみたい。ハジャコさん」

私の中の本能が目覚めてしまいました。この出会いがなければ、この先だって、私は永久に処女のままで、蛇ばかり追いかけていたかもしれません。それはそれで今までと変わらず、幸せで何も文句なく、蛇マニアな女として一生を終えるでしょう。でも、希望がある、未来がある、私は新たな命を作り出せる位置にいるのです。なんて素晴らしいことなのでしょう。左手首の鱗がブルブルと震えたことに気づき、手首を見ると、鱗が乳白色から黄金色に変化していました。ハジャコさんも発情したのでしょうか。ん?すでに卵をたくさん持っているので放出でもしはじめたのでしょうか?私は自らの考えに鳥肌を立てました。たった一日で、こうも人生は一変するものでしょうか。するものなのですね。私が蛇を体内に宿してからまだ二十四時間もたっていないのに、子孫の話をしているとは、震えずにいられますか。こんなゾクゾクする未来。電車が来ても、それには乗らず、私はただ薄笑いを浮かべ、椅子に座ったままでした。電車の過ぎ去る風に包まれたと思った時、私ははっきりと欲望の声を聞きました。


「まず魚沼さんをどうにかしてみましょう。わたくしたちならできます。さあ、作りましょう、私たちの輝かしい子孫を」


 稀のひと、には、棲蛇が見える、という以外に別の意味がございます。棲蛇自身に心を奪われ、自らを蛇化してしまうひとのことです。これが本来の意味です。にしても、この棲家は本当にいろんな意味で「稀」なひとで、完全なる稀のひとなのです。まこと、人とは不可思議な生き物です。さて、どうやって男を落としましょうか。そのへん、彼女は全くもって不器用ですから、わたくしが一肌脱がねばなりません。脱皮じゃないですよ。え?冗談はそのくらいにしろ、と?そうですね。彼女自身が今度は完全な蛇体にならないうちに早く事を済ませてしまいましょう。ね?あなたさま。


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