1-2. カントリーハウス1
早朝の澄み切った青空の下、田園風景が地平の彼方まで続いている。
計算され尽くされた景観は、自然に生まれたものではない。
人が手間暇かけて、創り出した芸術作品だ。
帝国人のガーデニング趣味は国民的なものだが、領主クラスになるとその規模も大きくなる。
見渡す限り視界に入る全てが、フローマス伯爵の私有地だった。
港湾都市として有名なフローマスだが、郊外に建てられた領主のカントリーハウスは市街部から隔離されている。
潮風に代わりに、新緑の香を乗せたそよ風が肌をなでる。
「君達はさ、もう少し伝統に敬意を払うべきじゃないかな」
頭から水を滴らせ、コリン青年は提言した。
コーヒー色をしたセミロングの髪と、覇気のないエメラルドグリーンな瞳。
二十代前半ながら、未だに学生と間違えられる。
きっと頼りなさそうな雰囲気が原因だろう。
身に着けているのは屋敷から支給されたテイルコート。
濡れてしまったが、この程度ならすぐ乾く。
現在のコリンは、ゲスト付のフットマンという立場だった。
「え? 何の話?」
いきなりスケールの大きな話を始めたコリンに、水鉄砲を構えて距離を取っていたメイドの少女が首を傾げる。
メイド長の実妹で、年は十歳前後。
ツーサイドアップにまとめた髪型がトレードマークだ。
ジュニアスタッフの採用は、帝国のカントリーハウスでは珍しくない。
「帝国には二つの国民がいる。そんな言葉を聞いたことない?」
「ないよ」
妹メイドが即答する。
それはそうだ。
勉強嫌いな妹メイドが、元大蔵卿の著書を読んでいるはずがない。
「つまりは上流階級と労働者階級のことなんだけどさ」
帝国は徹底した階級社会だ。
貴族やジェントリの属する上流階級と、労働者階級には大きな隔たりがある。
本来なら二つの階級では何の交流も共感もなく、互いの習慣や思想、感情を理解しない。
今でこそフットマンとして使用人階級に身を落としているコリンだが、元々は貴族階級の出身だった。
つまり、妹メイドとは生きている階級が違うのだ。
コリンが思うにヘイウッド邸のメイド達は、どうも上流階級への意識が欠けている。
「誤解しないでほしいのは、決してご先祖様の七光りで偉ぶるつもりはないんだよ? でもね、貴族に対する敬意とか、少しはあってもいいんじゃないかな?」
「何で? 貴族ってだけなら、シェリーちゃんも同じじゃん」
「ああ、うん。誤解があるとは予想してたけどさ」
シェリー嬢は、十歳にしてヘイウッド邸の当主代行である。
しかしながら、シェリー嬢の遊び相手役を務める妹メイドにしてみると、普段から一緒にいる友達感覚なのだろう。
貴族に近すぎる位置にいるメイドは、仕える相手に自分自身を同一視してしまいやすい。
その危険性を理解するには、妹メイドは幼すぎた。
さらにもう一つ誤解がある。
コリンの実家とヘイウッド家は、両家とも確かに領主階級の貴族だった。
しかし、決して同一の階級ではない。
貴族の中にも歴然とした格付けはあるのだ。
帝国民のおよそ95%は、労働者階級である。
もちろんメイド自身はこの階級に含まれる。
カントリーハウスでは、階下の人々と呼ばれていた。
4%が中産階級。
ここから先がメイドを雇う側の階級になる。
残り1%が貴族階級となるが、貴族なら誰でも豪奢な生活を送っている訳ではない。
「もしかしてさ、貴族ならみんな一緒とか思ってない?」
「え? 何か違うの?」
「ほらね。そこが大きな誤解なんだよ」
貴族のうち99%は、実は領主階級に仕えている騎士階級だ。
準貴族とも呼ばれる彼らは、経済的には中産階級にさえ劣ることが珍しくない。
本当の意味での、貴族の中の貴族。
それこそが爵位持ちの上級貴族だった。
つまりは女王陛下より所領の管理を任された、地方領主である。
序列は下から順に、男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵。
シェリー嬢の実父はフローマス伯爵だが、コリンの祖父はスリス公爵である。
さらに嫡孫であるコリンは、スリス公爵一族の中でも潜在的な地位が高い。
爵位を継ぐ可能性がほぼ有り得ないシェリー嬢に比べて、その差は大きいのだ。
「家柄なんて馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないけど、そこにはやっぱり歴史的な重みがあるんだよ。俺もそれを背負ってる。つまり何が言いたいかと言うとね、公爵家出身である俺に、少しは手加減してくれてもいいんじゃないかな?」
「……えいっ」
「ひゃあっ」
目の前の刃に対して、身分など無意味だ。
紳士らしく理論整然と命乞いをしたコリンだったが、妹メイドの水鉄砲が情け容赦なく水を浴びせ掛ける。
「やったー! 三回先取制で良かったよね? これで今週のトイレ掃除はコリン兄ちゃんで決まりね!」
「待て! ちょっと待って! ようやく俺も慣れてきたところだから! 大体さ、そっちはこの水鉄砲に慣れてるんでしょ? 俺なんて今日、初めて触ったんだよ? 少しはハンデとかあっても良くない?」
早朝からヘイウッド邸の庭園で、コリン達が何をしていたのかと言えば、トイレ掃除の当番を賭けた水鉄砲対戦だ。
本来なら妹メイドの当番なので、コリンが賭けに応じる理由などなかったのだが、安い挑発に乗ったのが失敗だった。
おかげでびしょ濡れだ。
必死に抗弁するコリンを流石に哀れと思ったのだろう。
やれやれといった感じで、妹メイドが譲歩する。
「コリン兄ちゃん見苦しいな~。でもそこまで言うなら、五回先取に延長してあげてもいいわよ」
「よっしゃ! 帝国軍人をなめるなよ!」
既に水鉄砲の射程も把握済み。
大人気ないと思って本気を出していなかったが、ここまで来たらそんな余裕も言っていられない。
水を補給して、所定位置に付く。
「三、二、一でスタートね。三! 二!」
「コリンお兄ちゃん、何をしているデスか?」
「ふおおおおおッ、シャ、シャルロちゃんっ?」
ヘイウッド邸の正面扉が開いて、冷めた目をしたシャルロ少年が顔を出した。
三つ編みにまとめられた銀髪に、ほんのり桜色に透ける白い肌。
澄み切った大きな蒼い瞳に、ちょこんと整った目鼻が可愛らしい身に付けているのは黒を基調にしたワンピースに、白のエプロン。
美少女ばかりが集められたヘイウッド邸においてすら、シャルロの愛らしさは別格だ。
これで男の子だと言うのだから、信じられない。
「えい!」
「わぷっ」
妹メイドの水鉄砲が、的確にシャルロの顔面を捕える。
「な、何をするデスか!」
「うへへ。濡れ濡れになったシャルロちゃんもえろ可愛い」
「もう! 真面目に働いて下さいなのデス!」
「分かってるって。じゃあ、コリン兄ちゃん、時間切れってことで延長戦はなしね。トイレ当番よろしく~。後の玄関掃除は、あたしに任せて!」
断言しよう。
誰も見ていないのに、妹メイドが働くはずない。
適当に水を振りまいて終わりにする気満々の妹メイドに見送られ、コリンはシャルロと連れ立って屋敷内に戻った。
手早く運動着からテイルコートに着替えるコリン。
そのまま早歩きで蒸留室へ向かう。
「遅い! 何やってたのよ!」
アーリーモーニングティの用意をしてくれていたメイド長に叱られてしまった。
すらりとした長身に、ロングにした栗色の髪が似合っている。
美人で仕事も出来るのに、可愛い少年少女には目がないという残念なお姉さんだ。
「ん? 何で二人とも濡れてるの? 今日は晴れよね?」
「あは。さすがに完全には乾かなかったのデスよ」
「まーたあいつの仕業ね」
シャルロの苦笑いに、メイド長が正確に犯人を推測する。
ヘイウッド邸の起こる問題の大半は、妹メイドが犯人だ。
とりあえず妹メイドを疑っておけば間違いない。
「はい。それじゃこれお願いね」
渡される紅茶セット。
朝の快適な目覚めをサポートするための、必須アイテムだ。
朝食までの小腹を満たすため、軽いビスケットも添えられている。
シャルロとコリンでは持っていく先が違う。
相手の好みに合わせて紅茶のブレンドは調整されているので、取り違えないように注意が必要だ。
シャルロはシェリー嬢の担当。
コリンは客室の担当だった。
ちなみにメイド長は、緊急事態でもない限り接客をしない。
本人が言うには「あたし向いていないから」
とのことだ。
コリンも全面的に同意する。
彼女に接客を任せたら、いつ流血沙汰になるのか知れたものではない。
主人を起こしにいくのは毎朝のルーチンワークなのだが、今日のシャルロは様子が違った。
遠慮がちにコリンの袖が軽く引かれる。
「あの、コリンお兄ちゃん、少しお願いがあるのデスよ」
「ん、なに?」
「たまにはわたしと、担当を交代しないデスか?」
「シャルロちゃんのお願いだし、俺は別にいいけどさ……」
ちらりとメイド長の様子を伺う。
予想通り、彼女の判断はノーだった。
「駄目よ、シャルロちゃん。シェリーお嬢様のお部屋にケダモノは入れられないわ。それにシャルロちゃん以外が起こしに行くと、シェリーお嬢様は一日ご機嫌斜めになっちゃうんだから」
「はい、分かったのデスよ」
結局は素直に頷くシャルロ。
しかし、気乗りしない様子がどうにも引っ掛かる。
蒸留室を出たタイミングで声を掛けてみた。
「今朝はまたどうしたの?」
「いえ、昨夜のシェリー嬢様、妙にすんなりと自室に戻られたのデスよ。これは何か企んでいるパターンなのデス」
「あー、そういえばそうだねー」
そうは言っても、仕事は仕事だ。
後から様子を見に行くよと伝えて、ひとまずコリンはシャルロと別れて客室へと向かった。