3-1. 回想(帝歴261年冬)
火の回りが意外と早い。
城館に火を放ったのは帝国軍ではない。
守備側であるはずのローアン騎士団だ。
むざむざ帝国軍の手に渡すぐらいなら、という事だろう。
消火活動に法兵連隊の大部分を回す。
この火災で一体どれだけの損失が出ることか。
頭の中で試算したウィルは、うんざりして顔をしかめた。
扉の前で、血煙を上げて敵兵が倒れる。
それなりに優秀な騎士だったのだろうが、覚悟だけでは埋められない力量差というものがある。
刃にこびりついた血を片腕で振り払った軍曹が、ウィルに道を空けた。
敵兵の屍を跨ぎながら、ウィルは書斎へと足を踏み入れる。
『お久しぶりです。ローアン伯』
奇跡的なことに、書斎までは火が回ってきていなかった。
壁一面の蔵書と、部屋の正面に据え付けられた机。
その椅子に座っているのが、城塞都市ローアンの領主だ。
戦火の直中だというのに、日常そのままの雰囲気で書物を読んでいる。
戦いの騒音が、やけに遠く聞こえた。
『やあ、ウィル殿か。あと数ページなんだ。すまないが、少しだけ待ってくれないか』
『ええ、構いませんよ。それぐらいの余裕はあります』
領主のページをめくる音だけが、静かに響く。
やがて読み終えたのだろう。
本を閉じた領主が、ゆっくりと顔を上げた。
『どのような本をお読みになっていたのですか?』
『ああ、ただの娯楽小説だよ。意外かい? 私はこのシリーズのファンでね。完結まで見届けられないのが残念だ』
聖本か何かだと思っていたウィルは、少し意表を突かれる。
領主が見せてくれた背表紙に書かれたタイトルは、流行に疎いウィルにも聞き覚えがあった。
帝国で人気の怪奇冒険ミステリーで、王国語版も出ていたとは驚きだ。
『さて、久しぶりだね。開城交渉以来になるのかな?』
『そうですね。本当はもっと早くこの日を迎えたかったのですが。ローアン伯のおかげで、下準備に随分と手間取りましたよ』
『まだ対話による交渉の余地はありそうかい?』
『残念ながらその申し出は遅すぎました。帝国の開城勧告に従わないとどうなるのか、他の諸侯達に見せつける必要があります』
『だろうね。まあ、当然の判断だ。それではせめて、最期ぐらいは格好付けさせてもらおうか』
領主が立ち上がる。
そして机に立て掛けてあった、抜き身の大剣を掴んだ。
刃面に刻まれた法術回路に、領主の法力が注ぎ込まれる。
攻撃力向上のみに機能を限定した、簡易的な竜騎士法術の一種だ。
「軍曹。お相手をして差し上げろ」
「は」
ウィルの指示で、軍曹が一歩、足を進める。
全身鎧の表面にはやはり、法術回路が刻まれていた。
ウィルが手帳のようなものを開くと、制御支援用の法術インターフェイスが展開する。
光の軌跡が宙に幾何学模様を描き出した。
帝国式の竜騎士法術は、二人一組での運用が基本だ。
天才と呼ばれる術士なら、コマンドをイメージするだけで法術制御する。
しかし、ウィル自身は、法術のスペシャリストという訳ではない。
本来のパフォーマンスを十全に発揮するには、制御支援法術によるグラフィカルインターフェイスの助けが必要だった。
制御支援法術の展開は、それだけ本気で相手をすることの意思表示。
ところが領主には、その辺りが微妙に伝わらなかったらしい。
決闘相手を心配するような台詞を口にした。
『大丈夫かい? その竜騎士、かなりの重傷じゃないか』
『心配には及びません。確かに幻狼の魔女から受けた傷は深刻です。しかしそのダメージを差し引いても、私の手札では彼こそが未だ最強ですよ』
軍曹の有様は、正に満身創痍という言葉がぴったりだった。
鎧も傷だらけで、法術回路群の半分以上から応答がない。
鎧の中身も、立っているのが不思議なほどの重傷だ。
特に失われたばかりの左腕は、法術で強制的に止血しているだけの状態だった。
それでもなお、ウィルの指揮下に、彼を超える単体戦力は存在しない。
魔女殺し。
それが軍曹の二つ名だった。
『いざ!』
先に動いたのは領主。
彼の全身全霊を掛けた踏み込みは、軍曹にとって哀しいほどに稚拙だった。
領主の優秀さは政治力で評価されるべきであり、個人の武勇としては凡庸の域を出ていない。
命のひとつやふたつを引き替えにしたところで、軍曹との絶対的な力量差は覆りようがなかった。
そうでなければウィルも、領主との決闘を受け入れなかっただろう。
剣を振るった軍曹は、一歩も足を動かしてはいなかった。
鮮血をまき散らしながら、領主が床に沈む。
致命傷だ。
こぼれ落ちた領主の大剣を、軍曹が蹴飛ばして相手を無力化する。
『言い残すことは?』
傍らに屈んだウィルが、領主の最期の言葉を引き取ろうとした。
命の灯火が消えようとしている領主を、軍曹が油断なく見つめている。
『娘は、娘だけは、どうか見逃してやってはくれないか』
息も絶え絶えな、最期の懇願。
領主の延ばした手が、ウィルの胸ぐらを掴んだ。
『お願いだ。幼いあの娘には、何の責任もない。希望ある子供の将来を、大人だけの事情で閉ざさないでやってくれ』
ウィルは微笑むと、領主の手に優しく自らの手を重ねた。
『分かりました。約束しましょう。貴方は、尊敬に値する強敵でした』
『ありがとう』
ウィルが軍曹に目配せして身を引く。
無言で頷いた軍曹の剣が領主の首を斬り飛ばし、彼を苦痛から永遠に救済した。
「少佐、本当に娘は見逃すのですか?」
領主の首を丁寧に包みながら軍曹が尋ねる。
ウィルは平然とした様子で答えてみせた。
「まさか。助命したところで感謝してくれるとでも? あり得ないな。帝国への復讐でも誓われて、抵抗勢力の旗印となれば新たな火種を生む。ならば私が指示すべきは、たった二つ。見つけろ。そして殺せ」
「は!」
直立した軍曹が、ウィルの指示に敬礼して応える。
領主に対して付いた嘘に、ウィルは全く心を痛めていなかった。
約束や契約は必ず守るという信条も、死人相手ならいくら曲げても構わない。
死にゆく相手に真実を伝えて苦しめたところで、ウィルにとってメリットはなかった。
「夜が、明けますな」
「吹雪も止んだか。これからが本番だ。軍曹、もう少しだけ付き合ってもらうぞ。限界はとっくに越えているだろうが、倒れるのはまだ待ってくれ」
「は。全ては少佐の意のままに」
戦況は既に掃討戦へと移っている。
組織的な抵抗は最早ない。
今後は地下に潜った残存勢力との、長期的な非対称戦になるだろう。
気の長い話だ。
ゲリラ化した敵との戦いは、何年も掛けながら地道に行うしかない。
民衆の人心さえ得てしまえば、そうした勢力も徐々に足場を失って雲散霧消するはずだ。
「さあ、儲けさせてもらおうか」
まずは目先の消火活動が最優先だ。
次に他家の連隊が、略奪行為をエスカレートさせないように牽制しておく必要がある。
城西都市ローアンは既に女王陛下の都市であり、市民は女王陛下の民だった。
無為な損失は避けなければならない。
戦争という最大の投資フェーズは完了した。
後には戦後処理という大仕事が待っている。
投資に対する利益回収は、さらにその先の話だった。