ガラス玉に思ふ
子供の頃 住んでいたアパートの 隣の部屋には、
なっちゃんという 女の人が住んでいた。
〝なっちゃんは、無口で意地っ張り
だけど、なっちゃんは、寂しがり屋で甘えん坊。〟
同じアパートに住んでいる人達は皆、
なっちゃんの事を「怖いね。」とか、「親の顔が見たいね。」とか、
「一日中、家に閉じこもって何してるんだろうね。」とか、
「不気味だよね。」なんて言うけれど、本当は違うの。
なっちゃんには、家から出られない理由があるんだよ。
なっちゃんはね、目が見えないの。
だから、アパートの急な階段は嫌なんだって。
もし、降りている途中に足を踏み外しちゃったら、
そこからどこまでも落っこちちゃいそうで、怖いんだって。
何かに足を引っ張られて、
真っ暗な闇の中に引きずり込まれちゃうんだって。
「支えてくれる人がいたら良いのにね。」って私が言うと、
「そうだね。」って小さな声で答えて、困ったように笑うの。
コンピューターを目の前にして、
キーボードを物凄い速さでカタカタと打ち込みながら、
なっちゃんは笑顔を見せてくれるの。
いつの時か、「何してるの?」って聞いたら、
「ん? これはね、遊びだよ。
この機械をね、こうやってカチャカチャ弄ってね、遊んでるんだよ。」
そう答えてくれたけど、それ、嘘だったよね。
だって、遊びなら真顔ではしないし、
集中して、それこそ、息を止めてまでする事じゃないもんね。
画面には、よく分からない文字がびっしりと書き込まれていて、
私には、それが何だか分からないけど、
何か凄い事をしてるんだろうな、って事だけは分かるの。
だけど、それを皆に知らせないのは何故?
だって、悪い事じゃなくて良い事をしてるのに、
それも、とっても凄い事をしてるのに、秘密にしたいから?
皆をあっと驚かせたいから?
……ううん、違うよ。
なっちゃんはね、本質的な所で人を拒絶しているの。
人だけじゃない、この世界を構成しているものも一切、拒絶してる。
時々、なっちゃんの横顔を見ていると、無性に、抱きしめたくなるの。
抱きしめて、守ってあげたくなるの。
そうしないと、なっちゃんが壊れちゃいそうで、
例えば、フッと一瞬だけ目を閉じて、次の瞬間には、
次に目を開けた時には、目の前からいなくなっちゃいそうで、怖いの。
怖くて、悲しくて、凄く、寂しいの。
だから今日も、なっちゃんの部屋に遊びにいくの。
私のお父さんとお母さんはね、そんな私を最初は咎めていたけど、
今はもう、何も言わない。
そう、何も言わない。
なっちゃんは今日も、
キーボードを物凄い速さでカタカタと打ち込みながら、
私がインターホンを鳴らすと、
「入って。」と鈴の音みたいな声が聞こえてきて、
小さく笑って迎え入れてくれるの。
あ、今日は、黄色のタンクトップを着てるんだ。
何だか、なっちゃんのイメージとは正反対な気がする。
だけど、凄く可愛いな。
ちょっぴり青の色素が混じった、内側にカールしている黒毛も、
不健康なくらい、真っ直ぐな白さを保ち続ける肌も、
パッチリとした大きな瞳も、形の良い耳も、口元に浮かんだ微笑みも、
全部がなっちゃんだ。
あぁ、今日もいつも通りだ。
なっちゃんは、今にも泡に変身して、
パチンと弾けてしまいそう。
危険な綱渡りは、今日も続く。
なっちゃんの笑顔は、綺麗なのに、痛々しくて、儚い。
扇風機は、ブゥーンと機械的な音を立てながら、
一定のリズムで左右に首を振っている。
テレビは、長い間使われていないからか、
画面にも外郭にも、埃が薄く被っている。
太陽の光は、時折、窓を通って射し込んでくるけれど、
この部屋は、いつも薄い闇に包まれてる。
電気は無い、あるけど、なっちゃんは使わない。
本棚には、難しそうな本が、いつも同じように、
まちまちに置かれている。
倒れている本もあれば、立っている本もある。
だけど、私には読めない字ばかりで、つまんない。
なのに、何故か、毎日、足しげく通っている。
なっちゃんは、あんまり喋らない。
ひたすら、よく分からない文字を打ち込んでいるだけ。
時折、飼っているカナリアが、ピィッと小さく高く鳴くの。
その声は、狭い部屋によく響いて、でも、一瞬のうちに、
フッと消えちゃうの。
微かに残る余韻を味わおうとするけれど、
そうすると、ギュッと胸が締めつけられて、
切なくて、苦しいの。
それでも、なっちゃんと一緒にいる時間が嫌いじゃないのは、
たぶん、今から言葉にするのが正しいかは分からないけれど、
素直に思うのは、なっちゃんの傍にいるとホッとする、って事。
沈黙が、ゆっくりと部屋を覆っていく。
重苦しくない、包み込むような優しい沈黙。
だからね、葵は今、とっても幸せなの。
なっちゃんはね、いつも、「消えてしまいたい。」なんて思ってるけど、
その心は、悲しくなるくらい、強いの。
いつ消えてしまっても、世界は変わりなく廻り続けるのに、
そんな事を物ともしないなっちゃんは、
凄く、強いと思う。
だけど、強い人ほど、弱くて脆いんだ。
だから、アパートの人達は皆、嫌ったり遠ざけたりしているけれど、
葵の目には、気高く美しく映るんだ。
なっちゃんが何をしようとしているのか、そんな難しい事、
葵には分からない。
だけど、これだけは分かるの。
葵はなっちゃんの事、ずっと応援していたい。
たとえ、世界がなっちゃんを見放して、
どこかに棄ててしまったとしても、
私は、なっちゃんの事が大好きだから。
無機質な瞳に僅かな光を湛えて生きているなっちゃんを、
私はいつまでも覚えてる。
忘れない。
ずっと、いつまでも、私はあなたにエールを送り続けるよ。
今、この世界に、あなたはいない。
なっちゃんは、永い眠りに入ったの。
いつ目覚めるかは分からない。
だけど、またいつか、目を覚ましてくれるって信じてる。
だから、それまで、なっちゃんが遺してくれたプレゼント、
大切にするね。
なっちゃんは私のために、3-Dの中で楽園を作ってくれてたんだ。
ある日、私がいつものように入ってみると、
なっちゃんは静かに眠っていた。
揺すってみたけど、起きなかった。
寝顔は、何かを終えた達成感に満ちていて、安らかだった。
なっちゃんが創った楽園には、
甘いアイスクリームがあって、香ばしくて美味しいチキンがあって、
ふわふわのベッドがあって、
葵の好きな絵本も本棚にぎっしりと収められていて、
森の中には綺麗なお花があって、
美しい小鳥も木々の間に沢山棲みついていて、
優しくて面白い人が、街には沢山住んでいる。
パン屋さんも、魚屋さんも、八百屋さんも、
CD屋さんも、本屋さんも、どんな店も揃ってる。
満たされた世界、全ての祝福を受け入れた世界。
だけど、そこには、なっちゃんはいない。
駄目だよ、なっちゃん。
なっちゃんの居場所は、なっちゃんの世界にあるんだよ。
私はいつまでも待ってるよ、ずっと、この部屋で。
だから、早く戻ってきて。
コンピューターという機械が登場する点では、少々現実的ですが、
それ以外の構成や全体的な展開は、なるべく童話に近い形にしたつもりです。
3-Dという超現実的な単語が登場する童話は嫌だ!
……という苦情は一切受け付けておりません。(笑)