第5話 消せない失敗
その日は――やけに、静かだった。
風も弱く、焚き火の音も小さく、失敗者の集落には奇妙な"無音"が広がっていた。まるで、世界全体が息を潜めているかのような、不自然な静けさ。
「……静かすぎないか?」
俺がそう言うと、セラが人型のシルエットをゆっくりと回転させて周囲を見回す。
「うん。"世界のノイズ"が、消えてる」
「ノイズ?」
「普段は、どんな場所にも微細な修正ログが流れてる。世界を最適化するための、絶え間ない調整。でも今は……」
セラは、そこで言葉を切った。人型のシルエットが、わずかに震える。
「君の周囲だけ、真空状態」
その瞬間――背筋が、凍りついた。
【警告】
【観測対象:ユウト】
【状態:隔離処理開始】
「……来たな」
ミラが、即座に槍を構える。その動きに、一切の迷いはない。
「全員、下がって!」
だが――誰も、動けなかった。
なぜなら、俺の周囲だけが、空間そのものが歪んでいたから。
集落の風景が、まるでガラス越しに見るように遠ざかっていく。音も、匂いも、温度も――全てが、薄れていく。まるで、世界から切り離されていくかのように。
「……え?」
俺の声だけが、やけに大きく響いた。空虚な空間に反響する。
【個体指定修正開始】
【対象:ユウト】
【理由:逸脱要素の中核】
セラの姿が、少しずつぼやけていく。輪郭が曖昧になり、まるで霧の中にいるかのように。
「ユウト……! これ、エリア修正じゃない……!」
必死の声。
「個人単位だ!」
ミラが、必死に俺へと手を伸ばす。その顔には、恐怖が浮かんでいた。
「掴まって! 連れて行かせない!」
だが――
彼女の手は、俺の腕をすり抜けた。
触れることができない。まるで、俺が幽霊になったかのように。
「……触れない?」
「空間ごと、切り離されてる……!」
セラの声が、遠くなる。
世界は、俺だけを"別のレイヤー"に移動させていた。存在する次元そのものを、変えようとしている。
【転送先:観測層】
【処理内容:存在の再評価】
視界が、完全に白く染まった。
そして――
気づいたとき、俺は"何もない場所"に立っていた。
地面も、空も、壁もない。
ただ、無限に広がる白。
女神の部屋とも違う。あれは、まだ"部屋"という概念があった。でもここには、何もない。概念すら存在しない、ただの虚無。
「……またかよ」
声を出すと、自分の声だけが妙に響く。エコーのように、何度も何度も反響する。
【観測層へようこそ】
【対象個体:ユウト】
【役割:テストケース】
「……やっぱり、実験だったか」
心の奥底では、分かっていた。でも、改めて突きつけられると――胸が、重くなる。
「で? 今度は何だ」
虚無に向かって、問いかける。
そのとき――
白い空間に、黒い線が走った。
線は増殖し、複雑に絡み合い――やがて、形を成していく。
それは――"俺自身"の姿だった。
だが、表情がない。目も、口もない。のっぺりとした、マネキンのような存在。
【観測体】
【役割:最適化モデル】
【備考:世界が望む"正解のユウト"】
「……俺の、完成形?」
観測体が、無機質な声を発した。
「ユウト。君は不要だ」
感情のない、機械的な声。
「世界は、成功例で構築される。君の存在は、統計的に"無駄"である」
淡々と、事実を告げるように。
「失敗は、参考データとしては有用だが、永続化する必要はない」
つまり――
「……俺は、もう役目を終えたって?」
「そうだ」
観測体は、一歩近づく。その動きは滑らかで、でもどこか不気味だった。
「君が存在することで、世界の最適化効率は低下する。リソースの無駄遣いだ」
「よって――」
【処理提案】
【個体削除】
「……ああ、なるほど」
俺は――笑った。乾いた、空虚な笑い。
「世界にとって、俺は"バグのログファイル"か」
「正確だ」
観測体が頷く。
「記録は残す。データは保存する。だが、実体は不要。それが最も効率的な処理」
観測体が、また一歩近づく。
「安心しろ。苦痛はない。"存在していなかったこと"になるだけだ」
それは――この世界における、最大の死。
誰にも覚えられず、誰にも影響を与えず、最初から"いなかったこと"になる。記憶からも、記録からも、全てが消える。
「……ミラも、セラも」
胸が、きゅっと締めつけられる。
「俺のこと、忘れるんだよな」
「そうだ」
観測体は、何の躊躇もなく頷いた。
「それが、世界にとって最も合理的な結論だ」
一瞬だけ――心が、揺れた。
ここで消えれば、誰も傷つかない。
集落も守られる。
ミラも、セラも、失敗者たちも、平穏に暮らせる。
「……正解だよな」
理屈では、そうだ。合理的で、効率的で、誰も損をしない。
でも――
「それでもさ」
拳を、ぎゅっと握る。
「俺は、もう知っちゃったんだよ」
焚き火の暖かさ。
失敗者たちの、控えめな笑い声。
ミラの、真剣な目。
セラの、少し皮肉混じりの声。
全てが、鮮明に蘇る。
「世界が"無駄"って言うものの中に――」
はっきりと、言い切った。
「俺の居場所があるってことを」
観測体が、初めて動きを止めた。ほんの一瞬だけ、処理が遅れたかのように。
「……感情的判断だ。非効率的で、非合理的」
「そうだよ」
即答した。
「だから、俺は消えない」
一歩、踏み出す。白い床――床と呼べるものがあるのかも分からないが――を踏みしめる。
「世界が正しいなら、俺はとっくにいないはずだった」
「でも――」
もう一歩。
「まだここにいる」
拳を握りしめる。
「それだけで、世界の計算は間違ってる」
【《失敗作》反応】
【観測層にて起動可能】
頭が、熱を持ち始める。あの感覚。痛みの前触れ。
「……観測層まで来たのは、想定外だろ」
観測体が、わずかに後退する。初めて見せた、防御的な動き。
「警告。ここは、再定義不可領域――」
「関係ない」
俺は、観測体を真っ直ぐに指差した。
「お前が"正解の俺"なら――」
深く、息を吸う。
「俺は――」
【《失敗作》強制実行】
【対象:観測体】
【内容:役割上書き】
世界が――ノイズを上げた。
ビリビリと、空間そのものが震える。白い虚無が、揺らぐ。
【観測体】
【旧役割:最適化モデル】
【新役割:失敗例の保存記録】
観測体の輪郭が、崩れ始めた。まるで、砂の彫刻が崩れていくかのように。
「――保存……?」
初めて、観測体の声に困惑が混じった。
「そうだ」
俺は、静かに――でも、はっきりと言った。
「俺は消えない」
拳を、さらに強く握る。
「消えるのは――"俺を消そうとした世界の答え"だ」
白い空間が、ひび割れた。
ガラスが砕けるような音。いや、音ではない。概念そのものが、壊れていく感覚。
観測体は――データの塊となって、崩壊した。
【観測ログ更新】
【個体削除処理:失敗】
【想定外進行レベル:臨界】
【警告:システム安定性が危機的状況】
視界が、激しく反転する。
強い光。
耳鳴り。
全身を貫く浮遊感。
――次の瞬間。
俺は、集落の地面に倒れ込んでいた。
土の匂い。草の感触。空気の温度。
全てが、戻ってきた。
「ユウト!!」
ミラが、真っ先に駆け寄る。その顔には、涙が浮かんでいた。
セラが、震える声で言う。
「戻って……きた……本当に、戻ってきた……」
俺は、仰向けのまま空を見上げた。
いつもと同じ青。
でも、もう分かる。この空の向こうに、何があるのか。
「……今ので」
かすれた声で言った。
「世界、俺を消せなかった」
セラが、静かに答える。
「うん」
でも、その声には重みがあった。
「でも、代わりに――」
ミラが、俺の手を強く握る。その手は、温かかった。
「もう、隠せなくなった」
セラが、続きを言った。
「ユウト。君は今――」
【状態更新】
【個体:ユウト】
【分類:修正不能例】
「"消せない失敗"として、世界に正式に登録された」
俺は――苦笑した。
「最悪の称号だな」
でも。
焚き火の音が聞こえる。
誰かの、安堵の声が聞こえる。
ミラの手の温度が、伝わってくる。
「……悪くない」
世界にとってのバグ。
修正不能。
削除不可。
「失敗作としては――最高の評価じゃん」
こうして――世界は、俺を消すことに失敗した。
だが同時に、もう二度と無視できなくなった。
俺という存在を、認めざるを得なくなった。
物語は、ここから完全に変わる。
勇者の物語ではない。
神々の計画でもない。
「ユウト」という"消せない失敗"を中心に――世界そのものが、書き換えられていく。
これはもう、実験じゃない。
世界 vs 俺。
その戦いが――正式に、始まった。
風が吹く。
焚き火の炎が揺れる。
そして俺は、ゆっくりと立ち上がった。
まだ、戦いは続く。




