第2話 観測という名の呪縛
沈黙が、草原に落ちた。
喋るスライムと、失敗作扱いの転生者。
この組み合わせは、どう考えても異常だ。
普通なら、ここで混乱する。叫ぶか、逃げるか、それとも「これは夢だ」と現実逃避するか。でも――俺は、不思議と落ち着いていた。まるで、この異常こそが正しいと、身体が理解しているかのように。
「……お前、本当にスライムなのか?」
問いかけると、粘体が小さく揺れた。
「定義上はね」
スライム――いや、もう"スライム"という呼び方は正確じゃない。《失敗作》が書き換えた、"重要NPC"。それが、にゅるりと形を変える。
粘体が伸び縮みし、やがて人の影に近いシルエットへと変化していく。まるで粘土細工を眺めているようで、でもそれよりも遥かに滑らかで、生命感があった。
「でも、さっきまでの僕は"チュートリアル用の敵"だった。君が役割を書き換えるまでは」
静かな声。そこに、非難の色はない。ただ、事実を述べているだけ。
「……」
やっぱり、俺のせいか。
【《失敗作》】
【状態:安定】
【備考:再定義の影響が固定されつつあります】
固定。
つまり――もう元には戻らない。俺が書き換えたものは、この世界の"新しい現実"として定着していく。
「なあ」
俺は、目の前の存在を見据えた。人型に近くなった粘体を。
「お前、名前は?」
「名前?」
スライムは、一瞬だけ動きを止めた。まるで、予想外の質問を受けたかのように。
「今まで、そんなものはなかった。敵に名前はいらないからね」
少しだけ、声の調子が落ちる。寂しさが滲んでいるようにも聞こえた。
「……じゃあ」
俺は、少し考えてから言った。
「セラでいいか?」
理由は特にない。音の響きが良くて、短くて、呼びやすい。ただそれだけだ。
スライム――セラは、人型のシルエットの中で目のような部分を丸くした。
「……それが、僕の名前?」
「ああ。嫌なら、別のに変えてもいいぞ」
しばらくの沈黙。
風が吹き、草が揺れる。その音だけが、二人の間に流れていた。
そして。
「ううん。いい」
セラは、少しだけ誇らしそうに、粘体全体を小刻みに揺らした。まるで喜びを全身で表現しているかのように。
「名前、気に入った」
その瞬間――視界に新しい表示が現れた。
【セラ】
【状態:重要NPC → 仮固定】
【関係:未確定】
「……仮固定?」
俺が呟くと、セラは人型の肩らしき部分をすくめる。完全に人間の仕草だった。
「君と僕の関係が、まだ決まってないってことだよ」
「関係?」
「仲間になるのか。利用し合うだけの関係か。それとも――」
セラは、そこで言葉を切った。
「ここで切り捨てるか」
空気が、少し重くなる。
俺は、無意識に拳を握っていた。
仲間。
この世界での、最初の。
だが同時に――こいつは、世界が俺を"調整"するために送り込んだ存在かもしれない。チュートリアル用の敵が、いきなり会話できる存在になること自体が、罠である可能性。
「……正直に言う」
俺は、大きく息を吐いた。胸の中に溜まっていたものを、全て吐き出すように。
「俺は、勇者じゃない。人を助ける使命も、世界を救う気もない」
「うん」
セラは、ただ静かに聞いている。
「自分が生き残ることで精一杯だ。綺麗事を言える余裕なんて、ない」
セラは、じっと俺を見ている。顔のない人型のシルエットなのに、その視線を感じた。
「それでも?」
「それでも――お前を切り捨てる気はない」
即答だった。
理由は、単純明快だ。
「世界に用意された役割を、もう一度信じたら――俺はまた、脇役に戻る」
失敗作。
想定外。
削除予定。
そんなレッテルを覆すには。
「俺は、俺自身の選択を信じるしかない」
セラが、ゆっくりと形を変える。今度は、明らかに嬉しそうに。粘体が波打つように揺れていた。
「……決まりだね」
その瞬間――世界が、反応した。
【関係確定】
【セラ:重要NPC → 同行者】
【備考:想定外の進行が発生しました】
世界が、ざわついた。
風が、ぴたりと止まる。遠くの空が、わずかに歪んで見える。まるで、この世界という舞台装置に亀裂が入ったかのように。
「……何だ、これ?」
セラが、人型のシルエットを上に向けた。空を見上げているのだろう。
「来るよ。世界の"修正"が」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに――
【警告】
【想定外要素が許容量を超過】
【修正プロセス起動】
「修正……?」
嫌な予感しかしない。それも、最悪の部類の。
大地が、低く唸った。振動が足元から伝わってくる。
草原の向こう側――空間そのものが、音を立てて裂けた。まるでガラスにひびが入るように。いや、それよりももっと根源的な何かが、壊れていく音。
【エンフォーサー出現】
【役割:逸脱要素の排除】
「……なんだ、あれ」
人型。
だが、人間ではない。
白い仮面のような、のっぺりとした顔。表情はなく、目も鼻も口もない。ただ、そこに"顔があるべき場所"があるだけ。
感情のない、機械的な声が響いた。
「――対象確認。逸脱個体:ユウト。逸脱度:高」
背筋が、凍りつく。
まるで、死神に名を呼ばれたような感覚。
「うわ……世界直々の刺客かよ」
セラが、俺の前に滑り出た。盾になるように。
「下がって。あれは、普通の戦闘用じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「存在を消すための装置」
笑えない。本気で笑えない。
【エンフォーサー】
【脅威度:測定不能】
【備考:通常手段での対処不可】
「……完全に詰んでないか?」
「普通ならね」
セラが、人型のシルエットをこちらに向けた。
「でも、君は"普通じゃない"でしょ?」
エンフォーサーが、一歩踏み出す。
無機質な動き。感情も、殺意も、何もない。ただ、プログラムされた通りに動く機械のような――いや、それ以上に冷たい何か。
「逸脱を確認。修正を開始する」
その瞬間だった。
【《失敗作》反応】
【対象:エンフォーサー】
【提案:役割再定義(高負荷)】
頭が――割れるように痛んだ。
「っ……!」
思わず膝をつく。視界が歪み、吐き気が込み上げてくる。
世界が、激しく拒否している。この対象を書き換えることを。まるで、触れてはいけない何かに手を伸ばしたかのように。
「無理するな!」
セラの声が、遠くで聞こえる。
「これを書き換えたら――君が、壊れる!」
それでも。
俺は、歯を食いしばった。奥歯が軋むほどに。
「……ここで退いたら」
エンフォーサーが、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その動きは機械的で、でも確実に、俺の存在を"修正"しようとしている。
「俺は、一生"想定外"のままだ」
だったら――
「一回くらい、世界を裏切ってやる」
意識が、深く深く沈んでいく。暗闇の中へ。
【《失敗作》強制発動】
【対象:エンフォーサー】
【内容:役割の上書き】
【警告:世界への負荷が臨界点に達しています】
世界が――悲鳴を上げた。
それは音ではなく、感覚として伝わってくる。この世界という存在そのものが、苦しんでいる。
【エンフォーサー】
【旧役割:逸脱要素の排除】
【新役割:観測者】
エンフォーサーの動きが、ぴたりと止まった。
仮面のような顔が、ゆっくりと――まるでスローモーションのように、俺の方を向く。
「――観測、開始」
それだけ言い残し、エンフォーサーは霧のように消えた。まるで最初からそこに存在していなかったかのように。
*
エンフォーサーが消えた直後――世界が、奇妙な沈黙に包まれた。
静かすぎる。
風の音も、鳥の声も、何もかもが止まったかのような、不自然な静寂。
【通知】
【観測対象:ユウト】
【状態:目的達成条件に接近】
「……は?」
俺の意思とは無関係に、見覚えのないログが次々と流れていく。まるでプログラムのデバッグ情報のように。
【観測目的:】
【 世界における"失敗要素"の蓄積と再定義】
【 想定外進行への耐性評価】
「観測……目的?」
セラが、はっとしたように俺を見る。人型のシルエットが、わずかに震えていた。
「ユウト……それ、たぶん」
「俺が、何のためにここに来たか――だよな」
頭の奥が、じわりと熱を持つ。
思い出せない。女神との会話も、転生の瞬間も、全てが靄の向こうにある。
けれど――分かってしまった。
「俺は勇者じゃない」
「救世主でもない」
拳を、ぎゅっと握りしめる。
世界が欲しかったのは、正しい答えじゃない。完璧な成功物語でもない。
「……間違い続けた結果、それでも世界が成立するかどうか」
セラが、静かに言った。その声は、どこか悲しげだった。
「君は、テストケースなんだ」
「失敗して、壊れて、それでも進めるかを確かめるための――実験体」
俺は、乾いた笑いを漏らした。笑うしかなかった。
「なるほどな……そういうことか」
だから、加護もない。
だから、削除予定だった。
だから、俺だけが"書き換えられる側"じゃなく、"書き換える側"になれた。
「世界を再定義するために、俺は転生させられた」
全てが繋がる。全ての辻褄が合う。この絶望的なほどに完璧な、罠のような論理。
セラが、少しだけ悲しそうに揺れる。
「……後悔、してる?」
俺は、首を振った。
「いいや」
拳を、さらに強く握る。爪が手のひらに食い込むほどに。
「むしろ、ちょうどいい」
世界に選ばれなかった人間が、世界の欠陥を突き続ける。
失敗作が、失敗を武器にする。
「失敗作が、失敗を証明する役目なら――」
空を見上げる。青く、広く、どこまでも続く空。この世界の天井。
「最後まで、やってやるよ」
【観測ログ更新】
【対象は目的を自覚しました】
【進行を継続します】
世界が、また一段――俺を"問題"として、しっかりと認識した。
もう逃げられない。
でも、逃げる気もない。
「ねえ、ユウト」
セラが、人型のシルエットを揺らす。
「ん?」
「君、どこへ行くつもり?」
俺は、空を見上げたまま答えた。
勇者が向かう王都とは、真逆の方向。物語の地図に、名前すら載らない場所。世界の隅っこ。
「世界の外れだ」
「そこに、何があるの?」
俺は、はっきりと答えた。
「世界が隠した、失敗の山」
成功だけで作られた世界には、必ず捨てられたものがある。不要とされたもの。削除されたもの。忘れ去られたもの。
「そこに、俺みたいなのが集まってる気がする」
セラは、少し笑った。人間のように。
「……ほんと、厄介な主人公だね」
「今さらだろ」
こうして――
失敗作と、元チュートリアル敵は、物語の外側へと歩き出した。
勇者の知らない場所で。
神々が目を逸らした方向へ。
誰も行かない、世界の果てへ。
草を踏みしめる音だけが、静かに響く。
世界を壊す物語は、もう――止まらない。




