第1話 失敗作の覚醒
草の匂いが、鼻腔を刺激する。
湿った土の香り。生命の息吹。そして――どこか懐かしい、夏の終わりを思わせる青臭さ。
風が頬を撫でていく。遠くで鳥が鳴いている。高く、澄んだ声。この世界にも、鳥がいるのか。
「……夢じゃ、ないんだな」
呟きが、空気に溶けて消える。
もし夢なら、もっと都合よく作られているはずだ。痛みはぼやけ、感覚は曖昧で、こんなにも克明に渇きを感じることはない。喉が、じりじりと焼けている。
俺――ユウトは、見渡す限りの草原に、たった一人で立っていた。
異世界。
転生。
そして、女神。
頭では理解している。理屈では納得している。だが、心がまだ現実を拒んでいた。まるで身体の一部が置き去りにされたような、奇妙な違和感。
だから俺は、まず目の前の現実を――この世界のルールを、確かめることにした。
「ステータス」
心の中で呟く。
瞬間、視界に半透明のウィンドウが浮かび上がった。淡い青白い光。ゲームで何度も見た、あの画面。それが今、現実として目の前にある。
【名前:ユウト】
【レベル:1】
【職業:なし】
【スキル:《失敗作》】
職業欄を、何度も見返す。
勇者でも、戦士でも、魔法使いでもない。
せめて農民とか、商人とか、そういう平凡な職業があってもいいのに。
「……異世界転生して、無職スタートかよ」
笑おうとした。でも、喉が引きつって、乾いた音しか出なかった。
そこでようやく、女神の言葉が重みを持って蘇ってくる。まるでノイズ混じりの古い録音を再生するように、脳裏に響いた。
――あら、失敗ですね。
――本来は削除予定だったスキルです。
――それでは、生存をお祈りしています。
「……雑すぎるだろ、マジで」
祈られても困る。というか、祈る立場だった俺が祈られる側になるなんて、冗談にもほどがある。
その時だった。
――ズキン。
頭の奥を、何か鋭いものが貫いた。
針のような痛み。いや、もっと深い。脳髄に直接触れられたような、得体の知れない感覚。
「っ……!」
思わず目を閉じる。視界が歪み、世界が揺らいだ。
そして、聞こえてくる。
【《失敗作》起動】
【条件:世界定着完了】
【対象:周囲の構造】
【処理:解析中……】
機械的な音声。いや、音声ではない。直接、脳に響いてくる情報。
「……また、お前か」
嫌な予感しかしない。だが、止める方法も分からない。拒否するコマンドも、キャンセルボタンも、この世界にはない。
次の瞬間――世界が、二重に見えた。
目の前の草原に、無数の文字情報が重なる。まるでAR(拡張現実)のように。いや、それよりもっと強制的に、視界に焼き付けられる。
【草】
【役割:背景素材】
【重要度:低】
【備考:物語進行に影響なし】
【地形:草原】
【使用目的:移動・戦闘エリア(序盤)】
【出現モンスター:スライム、ゴブリン(予定)】
「……これ、ゲームの仕様書かよ」
いや、違う。ゲームなら、こんなにも空気の匂いが生々しいはずがない。足元の草を踏みしめる感触が、こんなにもリアルなはずがない。
俺は一歩、前に踏み出した。
足元で、小さな石が転がる。
何の変哲もない、ただの小石。
――そう思った瞬間、目の前に表示が現れた。
【小石】
【レア度:SSR】
【重要度:測定不能】
【説明:物語を大きく分岐させる起点(予定)】
【備考:触れることを推奨しません】
「……小石が、SSR?」
思わず拾い上げてしまう。
手のひらに乗せると、ひんやりとした感触。普通の、どこにでもあるような、灰色の石。
なのに――直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。
まるで、触れてはいけない何かに手を伸ばしてしまったような、背筋を凍らせる予感。
その瞬間だった。
ドォォォォン……!
空気が震えた。
腹の底に響く、重低音。大地そのものが唸りを上げたような、圧倒的な音圧。
反射的に視線を上げる。
王都の方向――地平線の彼方に、巨大な光の柱が天へと伸びていた。雲を切り裂き、空を貫き、まるで天と地を繋ぐ架け橋のように。神々しく、圧倒的で、美しかった。
【イベント発生】
【名称:勇者召喚】
【成功率:100%】
【失敗分岐:存在しない】
【備考:物語の主軸イベント】
「……あっちは、完璧か」
乾いた笑いが漏れる。
あれが、正規ルート。
世界に選ばれた主人公。
神々が用意した、完璧な物語の始まり。
剣も、魔法も、仲間も、運命も――すべてが最初から用意されている。まるで舞台の上で、すべてのスポットライトを一身に浴びる主役のように。
一方で、俺は。
【ユウト】
【役割:未定】
【重要度:測定不能】
【備考:想定外要素/イレギュラー】
【警告:物語の安定性に影響を及ぼす可能性あり】
「……想定外、ね」
妙に腑に落ちた。
生前からそうだった。クラスの中心人物でもなく、問題児でもない。誰かの記憶に強く残ることもない。いつも"その他大勢"の一人。
脇役。
モブ。
通行人A。
「異世界に来ても、結局それかよ」
でも、それならやることは一つだ。
正規ルートには、近づかない。
勇者に関わらない。
物語の外側で、静かに生きていく。
勇者の物語に巻き込まれれば、俺は"ノイズ"として排除される。それだけは、本能的に理解していた。
だから俺は、王都とは逆方向へ歩き出した。
草を踏みしめる。一歩、また一歩。ただ前へ進む。
どこへ向かうかは分からない。でも、少なくとも物語の中心からは遠ざかれる。
――そのはずだった。
三歩目を踏み出した瞬間、世界が反応した。
【強制イベント発生】
【理由:想定外要素の補正処理】
【内容:序盤戦闘イベント】
【備考:回避不可】
「……おい、マジかよ」
草むらが、ざわりと音を立てる。
まるで何かが蠢いているように。
【モンスター:スライム】
【脅威度:E】
【役割:チュートリアル用敵キャラクター】
【備考:初心者向け/戦闘訓練用】
草をかき分けて、半透明の粘体が姿を現した。
ぷるぷると震える、水風船のような身体。
スライム。RPGの定番モンスター。
「チュートリアルって……俺、説明してくれる奴いないんだけど」
逃げようとした。でも、身体が動かない。
武器もない。魔法も使えない。戦う術が、何一つない。
――その瞬間だった。
【《失敗作》強制発動】
【対象:スライム】
【処理:役割の再定義】
【警告:世界の整合性に影響を及ぼします】
「え?」
世界が、書き換わった。
目の前のスライムの表示が、リアルタイムで変化していく。まるでプログラムが上書きされるように。
【スライム】
【新役割:重要NPC】
【説明:主人公に選択肢を提示する存在】
【備考:物語分岐の鍵】
スライムが、ぴたりと動きを止めた。
粘体がゆっくりと形を変え、顔のようなものが浮かび上がる。目、鼻、口。まるで人間の顔を模したように。
「――きみ、勇者じゃないね」
普通に、喋った。
流暢な日本語で。
「……は?」
言葉が出ない。思考が追いつかない。
スライムが、まるで人間のように首を傾げる。
「世界の匂いが違う。君からは、"用意された存在"の香りがしない。まるで、舞台に紛れ込んだ観客のような――いや、もっと別の何かだ」
俺は、乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「その通り。俺は失敗作だ。削除予定の、エラーみたいなもんだよ」
「へえ」
スライムが、にこりと笑った。人間のように。
「面白いね、君」
その瞬間、すべてが繋がった。
このスキルは――《失敗作》は、強さを与えるものじゃない。
敵か味方か。
主役か脇役か。
成功か失敗か。
生か死か。
そういった、世界が定めた境界線そのものを――無視する力だ。
「……なるほどな」
だから、削除予定だったんだ。
こんなものが存在すれば、物語は成立しない。神々が作り上げた完璧なシナリオが、根底から崩れてしまう。
スライムが、静かに問いかけてくる。
「ねえ、ユウト。君はどうする?」
「正規ルートに戻る? 勇者の物語の一部になる? それとも――」
俺は、はっきりと答えた。
「全部、壊す」
勇者のための世界。
神々が管理する物語。
完璧に設計されたシナリオ。
「失敗作が一番厄介だってこと、証明してやるよ」
その瞬間――
【《失敗作》】
【状態:安定化完了】
【備考:世界が対象を"問題"として認識しました】
【警告:物語の予測不可能性が上昇しています】
世界が、俺の存在を認めた。
排除すべき対象ではなく、対処すべき問題として。
光の柱が立つ王都では、勇者の物語が始まっている。
神々が定めた、完璧なシナリオが。
でも、ここでは――
誰も知らない場所で。
誰も想定していない方法で。
失敗作の物語が、静かに動き始めていた。
風が吹く。
草が揺れる。
そして俺は、スライムと共に――正規ルートとは真逆の方向へ、歩き出した。
読んでくださってありがとうございます。




