相応しき者(序二段)
塔の影は、夜みたいに濃かった。
見上げれば、途中から輪郭が霞む。
雲に呑まれているのか、
それとも、雲のほうが塔にまとわりついているのか。
判断がつかない。
その足元。
誰かが用意したような平らな地面の上で、
レイザーとシンは、無言で向き合っていた。
風が止んでいる。
火遁の残り火はすでに消し、
魚の串も片付けた。
甘い匂いも、湖の湿り気も、今は遠い。
あるのは、
これから始まる戦いを前にした、
研ぎ澄まされた沈黙だけだった。
私は二人の影に忍び込みながら、
静かに呼吸を落とす。
忍法・影忍び
存在を削る。
気配を薄める。
二人には“そこにいる”と分かる程度に気配を残し、
外からの認識だけを、きれいに閉じる。
塔の窓。
あの黒い穴のどこかに何かがいるのなら、
まずは見せない。
見せないまま、見る。
忍びにとって、
これほど都合のいい位置はない。
レイザーが、ゆっくりと肩を鳴らした。
「……一応、言っとくけどよ」
彼は口元だけで笑う。
「俺、強いぜ」
シンは、何も答えない。
だが、視線がわずかに細くなる。
分かっているのだ。
レイザーの空気が違う。
以前のレイザーは、
相手の手札を読み、
位置をずらし、
その瞬間の綻びに刃を差し込むタイプだった。
だが、今の彼には、
そこに“踏み込む意志”がある。
湖の件。
料理。
ダスト狩り。
私とのやり取り。
そういった全部が、
彼の中で一つの方向にまとまり始めている。
「……来いよ」
先に言ったのは、レイザーだった。
挑発というより、確認に近い。
シンは、わずかに首を傾ける。
「お前からじゃないのか」
「カウンター屋だからな」
レイザーは肩をすくめた。
「相手が来なきゃ、始まらねぇ」
その瞬間。
シンが、消えた。
いや、消えてはいない。
詰めた。
身体強化。
走馬。
それに、今までとは違う“間”の潰し方。
直線で詰めているのに、
真っ直ぐ来ているように見えない。
足の置き方と肩の向きで、
正面の像を何度もずらしている。
(近距離だけじゃない)
私は、そう感じる。
以前のシンは、
近づいて殴ることに迷いがなかった。
むしろ、それ以外を必要としていなかった。
だが今の詰め方は違う。
中距離で、
“次の一手を複数持っている者”の歩き方だ。
シンの右拳が揺れた。
――届かない。
距離にして、拳一つ分。
なのに。
レイザーが、首を捻る。
その直後、
拳圧が頬をかすめた。
「……っ」
レイザーの髪が、数本、宙を舞う。
シンの拳に、
黒く薄い揺らぎがまとわりついていた。
《魔装グリッチ》
拳の“判定”だけを伸ばす装備。
刃ではない。
射出でもない。
ただ、拳が届く範囲だけが、不自然に伸びている。
拳二つ分。
それだけの差が、
近距離では致命的になる。
「面白ぇな」
レイザーが、頬をぬぐう。
「拳が伸びるのか」
シンは淡々と答える。
「自分の体を信じてる」
「なら、拳の先も自分の体でいい」
シンプルだ。
シンプルで、
そのぶん恐ろしい。
レイザーが、今度は口元をはっきり歪めた。
「……いい」
「ますます、殴り甲斐がある」
彼は懐から、ひとつのアセットを呼び出した。
衣でも鎧でもない。
食べ物。
黄金色に揚がった、厚い塊。
《デラックスカツ》
魚のすり身を重ね、
火を通し、
濃いソースを染み込ませた一品。
揚げ物の匂いが、
一瞬だけ空気を緩める。
「お前、戦闘中に食うのか」
シンが訊く。
「食う」
レイザーは即答し、
大きくかじった。
咀嚼。
飲み込み。
その瞬間、彼の呼吸が変わる。
深く、
静かで、
長い。
胸郭の動きが安定する。
視線の揺れが消える。
《呼吸補正》《集中維持》《地形対応》《持久制御》
複数のバフが、
彼の身体の内側へじわりと広がっていく。
「……食でバフるの、完全にお前の影響だぞ」
彼は私がいる影へ向かって、半ば文句みたいに言った。
私は答えない。
シンもまた、懐から細い缶を出した。
銀色のスプレー缶。
先端を軽く押すと、
白い泡が、くるりと盛り上がる。
《クリームスプレー》
彼は迷いなく舌で掬った。
その途端、
腹部の浅い古傷が、
見る間に塞がる。
超回復。
そして、
空気に甘い香りが混じる。
先ほどの泡クリームとは少し違う。
イチゴの匂い。
試作中の、甘い変種。
レイザーが、ほんの一瞬だけ眉を寄せた。
近づきたくなる。
その距離に入ってしまえば、
シンの間合いだ。
(魅了)
直接の異常ではない。
匂いによる、選択の偏り。
厄介な作り方を覚えたものだ。
シンは缶をしまいながら言う。
「お前に教わった」
これは、レイザーに向けた言葉だった。
だが半分は、私にも向けられている。
「食べることは、強さに直結するらしい」
レイザーが鼻で笑う。
「らしい、じゃねぇよ」
「今のお前、明らかにご機嫌だろ」
「そうかもな」
そこまで言って。
今度はレイザーが動いた。
踏み込みは、低い。
腰の回転で打つんじゃない。
体重そのものを、相手に投げる。
ジョルトブロー。
飛び込むようにして打ち込む、
ストレートやフックの変形。
拳の技術というより、
“質量の衝突”に近い。
さらに彼は、そこへ移動系のバフを上乗せしている。
加速。
圧縮。
一点化。
《ジョルトカウンタ》
受けて返すための技なのに、
もう“返す”ためだけの拳ではない。
相手が前へ出る勢い。
自分の飛び込む勢い。
その両方を、ひとつの拳に重ねる。
攻撃力は、彼自身の五倍。
相手の力の十倍を“借りる”。
成功すれば、
一撃で流れを折る。
その代わり、
空振れば終わる。
全体重を預けた拳は、
外した瞬間に“無防備”になる。
諸刃。
いや、
両刃そのものだ。
シンが、迎えにいく。
魔装グリッチで伸びた拳が、
先にレイザーを捉える――はずだった。
だが。
レイザーは、そこに合わせて拳を滑り込ませる。
真正面ではない。
意識の外側。
「――っ!」
衝突。
鈍い音。
空気が、圧で潰れる。
シンの上半身が、わずかに揺れた。
初めてだ。
あのシンが、
“止められた”のではなく、
押し返された。
レイザーも無傷ではない。
ジョルトカウンタの直後、
片足が半歩、流れる。
隙。
そこへ、シンの左が入る。
短い。
だが、深い。
レイザーの脇腹にめり込み、
彼の身体が横へ滑る。
それでも、倒れない。
「……いいね」
レイザーが、息を吐く。
「今のは、効いた」
シンも、口元だけで笑った。
「お前も、変わったな」
塔の影が、長く揺れる。
まだ、ほんの序盤だ。
二人とも、
互いの“新しさ”を見せただけに過ぎない。
私は影の奥で、静かに息を整える。
(ここから)
本番は、ここからだ。




