湖
西へ向かう旅は、いつの間にか会話が減っていた。
足音と、風と、土の匂い。
豆腐建築の残骸はもうほとんど見当たらず、視界にあるのは、均されたようで均されていない大地――ただの広がりだけだ。
「……ほんと、何もねぇな」
レイザーが欠伸を噛み殺す。
シンは返事もしない。歩幅も、呼吸も、一定で、まるで旅そのものが“作業”になっている。
私は、空を見上げた。
ここには宇宙がない。
雲の向こうも、星の向こうも、地球の常識みたいに広がっていない。
なのに空は青くて、風は冷たくて、妙に“正しい”。
(正しい、って何だ)
考えがそこまで行った瞬間だった。
風向きが変わる。
湿った匂いが、鼻腔に入った。
「……水?」
思わず声が出る。
レイザーが、目を細めた。
シンが、初めて歩みを緩める。
そして――視界が開けた。
そこにあったのは、境界のない青。
地平線が、途中から溶ける。
空と地面の境が、ひとつの線になって揺れている。
湖。
巨大な湖。
「……なんだよ、これ」
レイザーが、声を落とす。
驚きよりも、理解できないものを見たときの苛立ちが混じっている。
シンは一歩、前へ出た。
湖畔まで近づき、足元の土を蹴る。
湿っている。
だが、泥ではない。整えられた“湖の縁”だ。
「……不自然。この世界に湖はない」
私が言うと、シンは頷いた。
「ああ。少なくとも、俺が知る限り湖という単語は聞いたことがないな」
「何のために誰が作ったんだろうな?」
レイザーが問う。
暇な奴もいるもんだと笑って見せる。
私は湖面を見つめた。
波がある。
風に合わせて、規則的に揺れている。
そして――見えた。
水の中を、銀色の影が滑る。
一匹、二匹じゃない。群れだ。
「……あれは、魚か?」
レイザーが、子どもみたいに口を開ける。
シンも、眉をわずかに動かした。
この男が“驚く”のは珍しい。
私は、背中が冷えた。
(おかしい)
魚が生きるには、環境が要る。
水だけじゃない。餌が要る。循環が要る。
そして、ここは――微生物が存在しないはずの世界だ。
少なくとも、私が施設で聞いた“マジックアース”の説明では。
フェムトデバイスが世界を構成している。
必要なものは生成できる。
だが、自然の連鎖は基本的に存在しない。
なら、これは何だ?
誰かが、
“魚が生きる湖”という物語を、丸ごと埋め込んだのか。
(管理者……?)
この世界全体の管理者なのか。
それとも、どこかの誰かが、趣味で作ったのか。
趣味で、ここまで?
レイザーが、即席で作ったアセットで石ころを作ると、
湖に投げこんだ。
ぽちゃん、と小さな音。
波紋が広がり、魚の影が散る。
「あれ、食べれるかな」
その声は、妙に弾んでいる。
この世界で初めて見つけた“違うもの”に、子どもみたいに惹かれている。
シンも、湖面を見下ろしたまま言った。
「食えるなら、狩る価値はある」
二人は、この世界の住人だ。
異常を異常として恐れるより、利用できるかで判断する。
私は、目を細めた。
(……ここに、誰かがいる)
湖を作った者。
魚を泳がせ続ける者。
この“場”を維持している存在。
その気配は、見えない。
けれど、見えないからこそ――厄介だ。
私は、袖の中の巻物を確かめる癖を、途中で思い出した。
今は、もう確認する必要もないのに。
「……渡る」
私が言うと、レイザーが振り返る。
「ん、突っ切るのか?」
「俺たちは西へ行くんだ、当然だろう」
シンが淡々と背中を押す。
私は湖を見つめながら、言葉を飲み込む。
(湖を作った理由は分からない)
(でも、理由が分からないものは――)
忍びにとって、最も危険だ。
風がまた変わり、湖の匂いが濃くなる。
水面の向こうは、まだ見えない。
私たちは一歩、湖畔へ踏み出した。




