男の子(後編)
扉が開いた瞬間、
少年は振り返らなかった。
驚きも、警戒もない。
「……ああ」
手を止めることなく、
一定の速度でボウルをかき混ぜながら、
彼はそう呟いた。
「いらっしゃい」
それは確認でも、問いでもなかった。
確信だった。
この場所で、
もう幾年も数えきれないほどの時を過ごしてきた者の声音。
甘い匂い。
それにつられて人が現れる。
この流れを、
彼は何度も見てきたのだ。
「だいたい、東から来る」
しゃりしゃりしゃり、と。
金属がボウルの内側を擦る音が、途切れない。
彼は、こちらを見ない。
見なくても、分かるのだろう。
「……中、どうぞ」
促されるまま、
私たちは建物の中へ入る。
甘い匂いが、さらに濃くなる。
作業台の上には、
無数のボウル。
床には、
同じ形の箱が、几帳面に積み上げられている。
冷気が、
足元を撫でる。
「冷却箱だよ」
少年は、淡々と説明する。
「ここに入れると、
ずっと、美味しいまま」
……ずっと。
その言葉が、
この場所の異常さを、静かに示していた。
「僕も、最初は歩いてた」
彼は、ようやく視線を上げる。
穏やかで、
どこか遠い目。
「西へ」
「何かあると思って」
施設にいたころの知り合い。
一緒に話していた人たち。
「……みんな、いなくなった」
それでも、歩いた。
「そんなある日ね」
再び、手を動かしながら続ける。
「甘いものを食べてたときに、
ふと思ったんだ」
「これって、
どうやってできてるんだろう、って」
牛乳。
それを、アセットで回転させる。
冷却。
分離。
幾度も繰り返される試行錯誤の末。
「クリームが、できた」
だが終わらない。
「でも違った」
組み合わせるという発想に至るまで、
どれだけの時間を費やしただろうか。
合成。
「砂糖を入れて、混ぜる」
「アセットでやると、
何故か、美味しくならない」
理由は分からない。
フェムトデバイスの仕様なのか。
それとも、
“手”という工程が必要なのか。
「だから、手で混ぜる」
しゃり、しゃり。
「ずっと」
しゃりしゃりしゃり。
完成したクリームは、
冷却箱に入れる。
「気づいたらさ」
少年は、少しだけ笑った。
「匂いにつられて、
人が来るようになった」
話をする人。
黙って食べる人。
「……でも、みんな、また歩き出す」
それでも、
彼は残る。
「ある日、分かったんだ」
「これが、僕の役目なんだって」
誰かに言われたわけじゃない。
命じられたわけでもない。
「もう、どれほどの時間が経ったか分からない」
「でも、大丈夫」
「混ぜてるときは、
考えなくていいから」
しゃりしゃりしゃり。
一定の音。
「……召し上がれ」
出来上がったばかりのクリームが、差し出される。
白く、
なめらかで、
甘い香り。
丸薬を口内に忍ばせながら、
私は、一口、口に運ぶ。
……美味しい。
ただ甘いだけじゃない。
時間そのものを溶かしたような味。
レイザーも、黙って食べる。
「……これは」
言葉を探す。
シンは、ゆっくりと口にした。
「……手間の味だ」
少年は、ほんの少しだけ、嬉しそうに笑った。
「僕は、これからも混ぜ続けるよ」
「匂いが、誰かを連れてくる限り」
しゃりしゃりしゃり。
その音は、
この世界のどこにも向かわない時間そのものだった。
そして。
扉の外から、
別の足音が、近づいてくることを。
まだ、誰も知らない。




