シノ(後)
引かない。
それだけは、最初から決めている。
忍びは、勝てる戦いだけを選ばない。
ましてや――負けが見えている相手から、目を逸らすことなどありえない。
シンの拳は、相変わらず正確だった。
速度も、威力も、衰えていない。
時間が経過している。
それは、肌で分かる。
床に刻まれた無数のひび。
空気に残る、衝突の余韻。
呼吸の回数が、確実に増えている。
(……削れてはいる)
だが、致命には至らない。
走馬。
死を先読みする思考。
それは、戦闘が長引くほど、
“慣れ”という形で洗練されていく。
私は、それでも試し続ける。
現実に存在した忍術。
派手さのない、地味な技。
だが、確かに「人を殺さず、制するため」に磨かれてきたもの。
撒菱、逆木、目潰し。
蜘蛛走り、隠れ身、壁走り。
一つひとつは、防がれる。
かわされる。
読まれる。
それでも、
組み合わせた瞬間に意味が変わる。
空間が、少しずつ歪む。
「……いい」
シンの声に、疲労はない。
むしろ、楽しげですらある。
「まだ、そんな手があるのか」
私は答えない。
忍びは、説明しない。
拳が来る。
今までよりも、重い。
身体強化。
踏み込みが、深すぎる。
(……危ない)
判断が、ほんの一瞬遅れた。
肩口に衝撃。
骨が、悲鳴を上げる。
続けざまに、腹部。
視界が、跳ねる。
足元が、消える。
私は、地面を転がった。
生命の丸薬が、内部で働き始める。
だが、回復が追いつかない。
忍耐の丸薬が、意識を縛る。
逃げ場はない。
ただ、状況を“理解し続ける”しかない。
(……限界が近い)
筋肉は、すでに悲鳴を越えている。
関節は、いつ外れてもおかしくない。
それでも。
私は、まだ、
奥の手を使っていない。
シンが、距離を詰めてくる。
今度こそ、
確実に終わらせに来ている。
私は、逃げない。
膝をついたまま、
顔を上げる。
「……うん」
声は、震えていない。
私は、目を閉じる。
アイズではない。
忍びとしての、
**もう一つの“目”**を、開く。
魔眼。
それは、この世界の魔法体系に含まれない。
アセットでも、魔行でもない。
忍術として、
“見る”という行為そのものを拡張する技。
視界が、反転する。
色が、消える。
形が、意味を失う。
代わりに見えたのは――
意志の流れだった。
シンの中に、一本、太く刻まれた命令。
生きろ。
戦え。
倒せ。
それは、身体強化よりも、
走馬よりも、
深い場所にあった。
私は、それを掴む。
状態異常ではない。
感覚操作でもない。
「絶対命令の、上書き」
忍びの声は、低く、静かだ。
「――自害せよ」
世界が、止まった。
シンの身体が、
一瞬、固まる。
完全異常耐性は、反応しない。
これは異常ではない。
命令だ。
シンの腕が、
自分の喉へ向かう。
筋肉が、
自分自身を殺そうと動く。
「……っ!」
走馬が、暴れる。
死の未来を、
必死に回避しようとする。
だが、命令は、上書きされている。
死にたい。
だが、死ねない。
究極の肉体。
超反射。
自分を殺す動作すら、
“最適ではない”と弾かれる。
矛盾。
身体が、震え、
動きが、乱れる。
「……はは」
シンが、初めて苦しそうに笑った。
「これは……」
膝をつく。
「……きついな」
私は、息を吐く。
魔眼は、長く使えない。
視界が、急速に戻る。
色が、戻る。
音が、戻る。
その瞬間、
アイズが、淡々と告げた。
【魔法対戦:時間超過】
【結果:無決着】
領域が、解ける。
現実が、戻ってくる。
シンは、その場に座り込み、
大きく息を吐いた。
「……参った」
私は、立ったまま、何も言わない。
「殺せなかった」
「殺されなかった」
シンは、空を見上げる。
「……興味が、わいた」
立ち上がり、
私を見る。
「俺も、ついていく」
レイザーが、思わず声を漏らす。
「……正気か?」
「正気だ」
即答だった。
「こんな戦い、久しぶりだ」
私は、少しだけ考える。
「……邪魔しない?」
「しない」
迷いのない返事。
それだけで十分だった。
私は歩き出す。
レイザーが少し遅れて続き、
その後ろを、シンが並ぶ。
――今もなお。
あの絶対命令は、解けていない。
自害せよ。
その命令は、
シンの奥底に、確かに残り続けている。
それでも。
「……はは」
背後で、シンが小さく笑った。
苦しさを含んだ声。
だが、どこか楽しげな響き。
「面白いな」
命令に縛られ、
それでも前に進める身体。
「こんな状態で、歩いてるのは初めてだ」
走馬は、働いている。
身体強化も、解けていない。
それでも、
死ねない命令と共存しながら、
彼は笑っている。
私は、振り返らない。
忍びは、
背中で語る。
三人分の足音が、重なる。




