シン(後)
私は、距離を詰めない。
それだけで、
この戦いは、さっきまでと形を変えた。
シンは一歩も動かない。
追ってこない。
(……追えない)
正確には、
追う理由が見えない。
走馬は、死を起点に思考が加速する。
致命の未来が見えた瞬間、
最適解を選び続ける能力。
だから――
殺意のない行動は、
“読む対象”にならない。
私は、巻物を使わない。
刃も投げない。
罠も張らない。
ただ、動く。
粉末を撒く。
煙でもない。
視界阻害でもない。
床に落ちた粉が、
空気をわずかに変える。
「……?」
シンの視線が、揺れた。
初めてだ。
完全異常耐性があっても、
異常を“与えていない”以上、
反応しようがない。
(異常じゃない)
(ただの環境変化)
私は、紐を張る。
絡めない。
縛らない。
ただ、位置を示す。
シンの足が、
わずかに止まる。
その一瞬。
私は、気づいた。
(走馬は――)
(選択肢の中から最適を選ぶ)
(でも)
(選択肢が“生死”しかない前提だ)
私は、空を蹴る。
攻撃しない距離。
触れない間合い。
ただ、
邪魔をする。
拳の軌道に、
手裏剣を投げる。
当てない。
掠らせない。
視界に入れるだけ。
シンの身体が、反応しかけて――
止まる。
(殺意がない)
(回避の必要がない)
思考が、
一瞬、空白になる。
私は、その空白に踏み込まない。
忍びは、
相手の“判断”を奪う。
「……」
シンの眉が、初めて寄った。
困惑。
それは、
この男にとって初めての感覚だ。
「攻めないのか」
「うん」
私は答える。
「今は」
次の瞬間。
私は、地面に手をついた。
――土遁。
だが、潜らない。
地面が、柔らかくなる。
足場が、不安定になる。
それだけ。
身体強化があっても、
踏ん張るための“基準”が失われる。
シンは、踏み込めない。
走馬が、
「死ぬ未来」を探す。
――ない。
殴っても、
蹴っても、
当たらない。
当たっても、
致命にならない。
判断材料が、消えていく。
「……なるほど」
シンが、低く言った。
「俺は」
拳を握る。
「殺す戦いしか、知らない」
私は、頷く。
「忍びは」
一歩、下がる。
「殺さずに、終わらせることもある」
その瞬間。
シンの動きが、止まった。
完全に。
走馬が、
働かなくなった。
死の未来が、
一切、見えない。
選ぶべき“最適解”が、存在しない。
私は、そこで初めて近づいた。
一歩。
二歩。
間合いに入る。
首元に、手を添える。
「――」
言葉にしようとした、その瞬間。
「面白い。だがソレは悪手だな」
声が、近い。
速い。
反応ではない。
割り込まれた。
次の瞬間、
鋭利な感触が首筋をなぞった。
刃――否。
拳に沿わせた“意図的な殺線”。
だが。
傷は、つかない。
身体強化された皮膚が、
そのすべてを拒む。
(――っ)
思考が追いつく前に、
拳が伸びる。
まっすぐ。
無駄のない軌道。
腹部を、えぐられた。
衝撃。
想像を絶する膂力。
腹と背中が、
一瞬でくっついたと錯覚する。
空気が、抜ける。
視界が、白く飛ぶ。
――意識が、途切れた。
ほんの一瞬。
地面に倒れる感覚すら、
理解が遅れる。
「……」
シンの声が、上から落ちてくる。
「走馬は“まだ使ってない”」
淡々とした口調。
「使うまでもない、が正解か」
私は、咳き込みながら起き上がる。
身体は、つながっている。
骨も、内臓も。
だが――
衝撃だけが、内部を揺さぶっている。
「しかし」
シンは、拳を軽く振った。
「よく鍛えられている体だ」
視線が、私を測る。
「たいていのやつは、真っ二つなんだがな」
嘲りはない。
事実を述べているだけだ。
私は、呼吸を整える。
(……なるほど)
(“殺さない戦い”は、通じない)
相手は、
殺す以前の強さで立っている。
走馬は、まだ見せていない。
身体強化だけで、これだ。
私は、立ち上がる。
意識は、はっきりしている。
「続ける?」
私が聞く。
シンは、初めて口角を上げた。
「当然だ」
地面が、軋む。
彼が踏み込む。
今度は――
逃げる余地がない。
この戦いは、
まだ始まったばかりだ。




