第八十九話:師匠たちの残り香
新宿の地下から戻ったミオを待っていたのは、何一つ変わらない世田谷の日常だった。 大きな戦いを終えたというのに、近所の公園では子供たちが走り回り、商店街からは夕飯の支度の匂いが漂ってくる。
「ただいま……」
誰もいないはずの折原家に、ミオは静かに声をかけた。 靴を脱ぎ、居間へ入る。以前ならそこで感じた「冷たい静寂」は、もうどこにもなかった。今のこの家には、新宿から連れて帰ってきた温かな光の余韻が満ちている。
ミオは縁側に腰を下ろし、庭にある古井戸を見つめた。 そこには、先日芽吹いたばかりの**「三本の光の苗木」**が、淡い輝きを放ちながら静かに佇んでいる。
「……あれ?」
ふと、視界の端で何かが動いた。 目を凝らすと、苗木から溢れ出した光の粒子が、空中でゆっくりと形を成していく。それは、実体を持たない、けれどあまりにも懐かしい「シルエット」だった。
一本目の苗木からは、腕を組んで豪快に笑う大男の輪郭。 二本目の苗木からは、本を片手に眼鏡を直す細身の輪郭。 三本目の苗木からは、影に溶けるように佇む小柄な老人の輪郭。
「獅子王さん……周防さん、じいじ……?」
ミオが息を呑む。それは意識のバックアップでも、幽霊でもなかった。 ミオが世界を浄化し、「折原流」を完成させたことで、この家そのものが師匠たちの意志を記憶する**「聖域」**へと変質したのだ。
彼らは何も喋らない。けれど、獅子王のシルエットが、ミオの頭を撫でるように手をかざす。周防のシルエットが、満足げに庭の景色を眺める。影縫のシルエットが、ミオの背中を頼もしそうに見守る。
「……ふふっ。そっか。みんな、ここが居心地いいんだね」
ミオの目から、自然と涙がこぼれた。けれど、それは寂しさからくるものではなかった。 もう、脳内での対話は必要ない。 彼女がこの家で暮らし、日常を守り、戦い続ける限り、師匠たちの「存在」は、この光の苗木と共に、永遠にここで生き続けるのだ。
ミオは立ち上がり、台所へ向かった。 今日は一人分じゃない。心の中にいる「みんな」と一緒に食べるために、一番大きな鍋を取り出す。
「今日の夕飯は、特売の肉でカツ丼にするよ! 文句言わないでよね、周防さん。……あ、キャベツもいっぱい刻むからさ」
台所から包丁の小気味よい音が響き渡る。 庭では三つの光が、夕暮れの風に揺られながら、幸せそうに明滅していた。
世界を救った最強の探索者は、今、世界で一番温かい「家族」のいる場所で、何気ない夜を迎えようとしていた。




