第八十七話:古井戸の変異
新宿への出発を控え、ミオは最後に一度だけ、庭の古井戸の前に立った。
かつて三人の師匠が噴き出し、ミオの運命を大きく変えた場所。
今はただ、冷たい石の縁が朝露に濡れているだけのはずだった。
だが、ミオがその縁に手をかけた瞬間、井戸の底から地鳴りのような重低音が響いた。
「え……? まさか、また魔獣が……っ!」
ミオは瞬時に身構えた。しかし、そこから溢れ出したのは、かつての禍々しい黒い霧ではなかった。 それは、目を開けていられないほどに純粋で、澄み渡るような純白の光だった。
「これ……霊素なの? でも、今までのとは全然違う……」
光の柱は天を突き、折原家の庭を幻想的な白銀の世界へと変えていく。ミオはその光の奔流の中に、懐かしい「三つの波導」を感じ取った。
獅子王の熱烈な輝き。 周防の静謐な煌めき。 影縫の底知れぬ深淵。
それらが井戸の底で複雑に絡み合い、一つの「門」を形成していた。
ミオの脳裏に、師匠たちの生前の記憶が、断片的な映像となって流れ込んでくる。
(これは……師匠たちが生きている間に、ついに行き着けなかった「境地」……?)
三人は生前、それぞれが最強を極めながらも、その先にある「世界の理」そのものを書き換える領域には届かなかった。
彼らは死してなお、ミオという器を通じて、その未踏の領域――**「神域の清掃」**の準備を整えていたのだ。
「……そっか。みんな、私にこれを見せたかったんだね」
白光がミオの肉体に吸い込まれていく。
かつての「完全同化」は、師匠たちの魂を無理やり繋ぎ止める「禁忌」の力だった。
しかし、今ミオの身体に馴染んでいくこの光は、師匠たちが遺した「純粋な意志の結晶」だった。
痛みを伴うひび割れはない。
ただ、自分の存在が世界そのものと調和していくような、絶対的な全能感。
光が収まった時、井戸の底には、三本の小さな「苗木」のような光が静かに根を張っていた。
それは、この家がこれからも「世界の守護」の起点であり続けるという、師匠たちからの最後の贈り物だった。
「待ってて、みんな。……新宿のゴミ、全部片付けてくるから。帰ってきたら、この庭でまた、一緒にお茶しようね」
ミオの背中から、白銀の翼のような霊素が広がる。
彼女は一歩、地を蹴った。 その跳躍はもはや物理法則を無視し、瞬く間に新宿の空へと彼女を運んでいった。




