第八十話:無意識の影
数日間の昏睡の間、ミオの魂は繰り返し同じ場所に引き戻されていた。真っ白な精神世界。そこには、まだ完全には消えきれずにいる三人の師匠たちの姿がある。
「……おはよう、師匠たち」
返事はない。 かつてなら「いつまで寝てんだ! 修行だ!」という怒鳴り声や、「お嬢さん、朝食の準備を」という冷静な催促が飛んできたはずの寝室には、埃の舞う静寂だけが満ちていた。
「……あ、そうだった」
ミオはゆっくりと上体を起こした。
心に冷たい風が吹き抜ける。けれど、日常は止まってくれない。
台所に立ち、目玉焼きを焼き始める。
ジュウジュウと小気味良い音が響く中、ミオは無意識に隣の空間へ問いかけた。
「獅子王さん、今日の肉の焼き加減……あ、肉じゃないや。卵、このくらいでいい?」
もちろん、返事はない。 いつもなら「半熟に決まってんだろうが!」と横から手が出てくるはずの空間は、虚無のままだった。
「……自分で判断しないと」
ミオは小さく息を吐き、火を止めた。
学校に行く準備を整え、カバンを肩にかける。
教科書を確認しながら、つい独り言が漏れる。
「周防さん、今日の時間割、これで忘れ物ないかな……」
返事はない。
「提出物のプリントがカバンの底で丸まっていますよ」という、眼鏡の奥からの呆れた指摘ももう来ない。
「……自分で確認しないと」
玄関で靴を履き、ドアノブに手をかける。
外の気配を探りながら、背後の影へ声を落とす。
「影縫さん、周りに変な気配とか……」
返事はない。 ただ自分の影が、無言のまま地面に伸びているだけだ。
「……自分で警戒しないと」
その日は一日中、その繰り返しだった。
美味しいものを見つけた時。 テストで難しい問題が出た時。 帰り道の夕焼けが綺麗だった時。
その都度、頭の中で「ねえ、見て!」と声をかけようとして、その度に師匠たちがもういないことを、ナイフで刺されるように思い出した。
夜。 一人分の食器を洗い終え、冷え切ったベッドに潜り込む。
「……今日も、師匠たちに何度も話しかけちゃった」
天井を見上げ、ミオは独りごちた。
声に出さなければ、寂しさに押し潰されそうだった。
「いつになったら……慣れるんだろう。……いや、慣れたくないな。慣れちゃうのが、一番怖い」
師匠たちとの記憶。あの騒がしくて、温かくて、めちゃくちゃだった日々。
それを「当たり前の日常」として忘れてしまうことが、何よりも彼らへの裏切りに思えて。
「……忘れたくない……。まだ、寂しいままでいたいよ……」
シーツを握りしめた手に、力がこもる。 暗闇の中、枕を濡らす涙が冷たかった。
最強の力を受け継いだ肉体はこんなに頑丈なのに、心はまだ、あの頃の泣き虫な少女のままだった。




