第七十八・二話:影縫との別れ
黄金の光も、群青の光も、すべてが天へと昇っていった。 どこまでも白い精神世界に残されたのは、ミオと、そして最後に残った漆黒の気配。影縫が、いつものように音もなく、けれど確かな存在感を伴ってそこに立っていた。
「……」 影縫は無言のまま、ミオを見つめている。
「影縫さん……」
ミオが震える声で呼ぶと、老剣客はゆっくりと口元を隠していた布を解いた。露わになったその顔は、深く刻まれた皺の中に、驚くほど穏やかな慈しみを湛えていた。
「……ミオ」
「……うん」
「俺は……言葉が下手だから、うまく言えないが……」 影縫は一度視線を落とし、言葉を慈しむように続けた。「お前と過ごした時間は……温かかった」
「……!」
その言葉に、ミオの胸が締め付けられる。
「俺は生前、ずっと影の中で生きてきた。誰にも見られず、誰にも語られず、孤独に殺しを続けた。俺という存在は、闇に溶けるためだけにあった」
「影縫さん……」
「だが……お前は、俺を見てくれた。こんな薄汚れた暗殺者の技術を『温かい影』だと、言ってくれた。……あの古井戸で、俺を『じいじ』と呼んでくれたあの日から、俺の止まっていた時間は動き出したんだ」
「だって……本当にそうだから……っ! じいじの影は、いつも私を優しく包んでくれたもん!」
ミオの叫びに、影縫の顔に初めて、春の陽だまりのような穏やかな笑みが浮かんだ。
「……ありがとう。ミオ、お前に一つだけ教え忘れたことがある」
「……何?」
「影は、孤独なものだと思っていた。だが……お前が教えてくれた。影は、常に光の傍にあるものだとな」
「……うん」
「だから、ミオ。これから先、お前が誰かの影になることもあるだろう。誰かを支え、守るために闇に潜ることもあるかもしれない。その時、思い出してくれ。影は、決して孤独じゃない。光がある限り、俺たちもお前の傍にいる」
影縫の霊体が、足元から漆黒の光となって崩れ始める。
「それから……」
「……?」
「お前は、もう独りじゃない。仲間がいる。友達がいる。大切な人たちがいる。……だから、寂しがるな」
「でも……! 師匠たちがいなくなったら……私……!」
「……俺たちは、お前の中に残る」
影縫が歩み寄り、透き通りかけたその手を、ミオの左胸にそっと触れた。
「ここに。お前の心の中に、俺たちはずっといる。お前が歩く時、その足元にある影は、俺だと思えばいい」
「影縫さん……っ、じいじ……!!」
ミオは膝をつき、子供のように泣きじゃくった。影縫の手の感触が、急速に薄れていく。
「泣くな。お前は強い子だ。俺たちが認めた、最高の継承者だ」
「強くない……! 全然、強くないよぉ……!」
「……強いさ。俺が保証する」
影縫の体が、完全に透明になる。
「じゃあな、ミオ。……元気で。……腹を冷やすなよ」
「待って! まだ……まだ話したいことがいっぱいあるの! 行かないで……!」
ミオが伸ばした手は、今度もまた、虚空を掴んだ。
「……また、いつか」
最後の囁きを残し、漆黒の粒子が白い世界に溶けて消えた。
「影縫さん……っ! 師匠! 師匠ぉぉぉぉ!!」
誰もいない真っ白な空間に、ミオの絶叫だけが木霊した。 三人の師匠がすべて消え、彼女の魂を支えていた巨大な気配は、すべて「思い出」という名の痛みへと変わった。
やがて、白い世界がひび割れ、現実の「光」が差し込んでくる。 世界を救った少女は、その代償として、何よりも大切な「家族」を失ったことを、痛切に理解しながら意識を浮上させていった。




