第六十五話:封印の崩壊
アルカディアが微かに指を動かした瞬間、ミオの周囲の空間がガラスのようにひび割れた。
「――『空間歪曲・神の指先』」
逃げ場はない。上下左右、あらゆる座標から押し寄せる空間の圧力。ミオは「三位一体」の加速で辛うじて直撃を避けるが、掠めただけで芋ジャージの袖が消失し、肌から鮮血が吹き飛んだ。
『……ミオ! こいつ、霊素の支配力が桁違いだ! 俺たちの攻撃が届く前に「概念」を書き換えられてやがる!』
獅子王の焦燥が伝わる。ミオは歯を食いしばり、シンクロ率を五十パーセントまで強引に引き上げた。全身の血管が浮き出し、鼻から一筋の血が垂れる。
「……まだ、……食べられる!」
ミオは光速の連撃を繰り出し、アルカディアに肉薄する。
しかし、アルカディアは一歩も動かず、悲しげな瞳でミオを見つめるだけだった。
「無駄だ。君が力を振るえば振るうほど、その霊圧は連動している世田谷の『井戸』へと流れ込む。……君自身が、封印を焼き切る燃料になっているのだよ」
「……なっ!?」
その言葉を裏付けるように、ミオの脳内に世田谷で待機しているルナからの絶叫が響いた。
『師匠! 井戸が……井戸が勝手に光りだして、結界が内側から壊れていきます!!』
アルカディアの目的は、ミオを倒すことではなかった。ミオに本気で「戦わせる」ことで、彼女という聖杯から溢れる強大なエネルギーを逆流させ、遠隔で封印を爆破すること。
地上の陽動作戦も、幹部たちの死ですら、すべてはこの瞬間への「時間稼ぎ」に過ぎなかったのだ。
「――終わりだ、折原ミオ。新世界の産声を聞くがいい」
アルカディアが大きく両手を広げた。
ゴガァァァァァァンッ!!! 新宿の地下と世田谷の空が、同時に真っ赤な閃光に染まった。
古井戸の封印が、完全に崩壊した。
井戸の底から噴き出した巨大な霊素の柱は、天を貫き、雲を焼き払い、東京の空に巨大な「逆さまの穴」を穿った。
『……しまっ、た……。お嬢さん、魂の残滓を、全て私の計算に回してください! 今この瞬間、世界中のダンジョンゲートが共鳴し、暴走を始めました!!』 周防の叫びが響くが、事態はすでに個人の力を超えていた。
新宿の地下から這い出し、地上に戻ったミオの目に飛び込んできたのは、地獄の光景だった。
真っ赤に染まった空。いたるところで発生する空間の亀裂から、見たこともない異形の魔獣たちが溢れ出し、東京の街を蹂躙し始めている。
「……私の、せいで……。私が戦ったから……」
足の力が抜け、ミオはその場に膝をついた。 エリュシオンの狙い通り、世界は「新人類への試練」という名の、終わりのない地獄へと叩き落とされたのだ。
「……師匠たち。……私、もう……戦えないよ……」
絶望に沈むミオの背後で、アルカディアの高笑いが響き渡る。
しかしその時、ミオの脳内で、今まで沈黙していた影縫が、どこまでも静かな声で囁いた。
『……お嬢さん。絶望して戦いを止めるのは、貴女らしくありませんね』
『……そうだ、ミオ! 毒を食らわば皿まで、ってな! 溢れ出した地獄が不味いなら、お前が「最高のスパイス」になって、世界を味付けし直せばいいだろうが!』
獅子王と周防、そして影縫。 三人の師匠たちが、ミオの魂の深部で、これまでにない「覚悟」を固めていた。




