第十五話:『叙々苑と、消えない傷痕』
週末。ミオは、一週間前までの自分なら絶対に足を踏み入れなかったであろう、新宿の高層ビル内にある『叙々苑』の個室にいた。
窓の外には、ダンジョン出現によって歪な魔導照明が混ざり合った、2026年の東京の夜景が広がっている。
「……すご。本当に予約したんだ。しかも特選コースって……あんた、本当に一千万稼いだの?」
結衣が、震える手でトングを握りながら、運ばれてきた霜降りの肉を見つめている。
「……うん。でも、税金とか、家の修繕費で結構消えるって、じー……知り合いが言ってた」
ミオは、脳内で「所得税の計算を始めましょうか」と囁く周防の声を無視して、肉を網に乗せた。
修行のおかげで、肉の「一番美味しい焼き上がり」の瞬間が視覚情報として理解できてしまう。
トングを動かすミオの所作は、驚くほど無駄がなく、洗練されていた。
「……ねえ、ミオ」
結衣が、ふと焼く手を止めてミオを真っ直ぐに見つめた。
「あんた、最近……変わったよね。首席合格も、あの大会の話も、最初は誰かの聞き間違いだと思ってた。でも、今のあんたを見てると、なんていうか……」
結衣の瞳に、かすかな寂しさが混じる。
「……遠くに行っちゃいそうで、怖い。死んだように寝てた時の方が、まだ私の隣にいた気がする」
ミオの箸が止まった。
結衣の心配は、正しい。
今のミオの日常は、血と霊素と、死者たちの声で埋め尽くされている。
親友が部活で汗を流している間、自分は庭で石畳を砕き、脳内で殺人術のシミュレーションを繰り返しているのだ。
『……お嬢さん、正直に話す必要はありませんが、誠実であるべきです』
周防の声が、珍しく優しく響く。
『へっ、湿っぽえのは苦手だぜ。ミオ、その嬢ちゃんに「お前は特別だ」って言ってやりゃいいんだよ』
獅子王が背後で腕を組んで笑っている。
ミオはゆっくりと肉を一枚、結衣の皿に置いた。
「……どこにも、行かないよ。私は、この家を守りたくて、美味しいものを食べたくて、戦ってるだけ」
ミオは結衣の目を見て、少しだけ不器用に笑った。
修行で鍛え上げられた指先は硬く、感覚は鋭利になっている。けれど、結衣と一緒にいる時だけは、その鋭さを鞘に収めることができる。
「ゆいが心配してくれるから、私はまだ『こっち側』にいられる。……だから、これからもアイスとか、クッキーとか、誘って」
結衣は一瞬呆然とした後、顔を真っ赤にして、勢いよく肉を口に放り込んだ。
「……当たり前でしょ! あんたが一兆円稼いでも、部活の帰りにコンビニのアイス奢らせるんだからね!」
「……それは、破産するかも」
二人の間に、以前と同じような、けれど少しだけ強固になった絆の笑い声が溢れた。
窓の外、龍脈のエネルギーを吸い込んで赤く光る東京タワーが見える。
ミオはこの温かい時間を守るために、明日もまた、あの「地獄」へ戻ることを静かに決意していた。




