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第百話:芋ジャージの英雄


 さらに数年の歳月が流れた。  かつて「特級探索者」として世界を揺るがした折原ミオは、今、一人の女性として、そして一人の母親として、世田谷のあの家に立っていた。


 庭では、小さな男の子が木の枝を手に、一生懸命に素振りをしている。 「えいっ! やーっ!」  その足捌きには、どこか影縫の面影があり、振り下ろす力強さには獅子王の片鱗が見える。ミオは縁側に座り、微笑みながらその姿を見守っていた。


「……ねえ、ママ。この井戸、なーに?」  息子が不思議そうに古井戸を指差す。ミオは彼を膝の上に乗せ、遠い空を見上げた。


「そこはね、世界で一番かっこいい三人の王様が住んでいた、魔法の井戸だよ。ママが泣き虫だった頃、勇気を教えに来てくれたの」


「王様? 強いの?」


「うん。とっても強くて、とっても怖くて……でも、誰よりも優しかったよ」


 ミオの生活は、今も変わらず「普通」だ。  たまに、近所の子供たちが「ミオお姉ちゃん、変な生き物がいたよ!」と駆け込んでくれば、彼女はそっと物置から、大切に保管していたあの芋ジャージを取り出す。    かつての英雄としての力は、今や「近所のちょっと頼りになるお姉さん」の護身術程度にしか使われない。けれど、彼女が一振りすれば、どんな不穏な空気も一瞬で晴れ渡る。それは、武力という名の暴力ではなく、平和を愛する者だけが持てる、静かな「お掃除」の力だった。


 街に出れば、親友の結衣が書いた小説『芋ジャージの英雄』が、書店の特設コーナーに並んでいる。一ノ瀬の道場は国内外から門下生が集まる聖地となり、ルナは協会の理事として、探索者の地位向上に尽力している。九条院は、ついにこの国の頂点へと上り詰めようとしていた。


 みんな、それぞれの場所で、あの日ミオと共に見た「光」を繋いでいる。


「さあ、お掃除終わり! お夕飯にしようか。今日はパパも早く帰ってくるって」


 ミオが立ち上がると、夕暮れの風が庭を吹き抜けた。  ふと視界の端で、三つの小さな光がキラリと跳ね、井戸の奥へと消えていくのが見えた気がした。


「……ふふ。ずっと見ててね、師匠たち」


 世界から魔獣がいなくなっても、戦いの記録が風化しても、折原ミオの物語は終わらない。  彼女が笑い、誰かを愛し、美味しいご飯を食べる。  その何気ない日常の一秒一秒こそが、最強の師匠たちが望んだ「勝利」の証なのだから。


 世田谷の空は、今日もどこまでも高く、澄み渡っている。

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