第九十五話:新しい生活
朝、六時三十分。目覚まし時計が鳴る前に、ミオはぱちりと目を覚ました。 カーテンを開けると、柔らかな朝日が部屋に差し込む。かつては霊素の乱れで重苦しかった空気も、今は驚くほど軽やかだ。
「……よし、お弁当作らなきゃ」
キッチンに立ち、手際よく卵を焼く。 かつては周防に「火加減が甘い」と叱られ、獅子王に「もっと肉を入れろ!」と急かされていたが、今のキッチンにはトースターの焼ける音と、味噌汁の湯気だけがある。
ミオは慣れ親しんだ「芋ジャージ」……ではなく、アイロンのきいた学校の制服に袖を通した。玄関の鏡で自分の姿をチェックし、少しだけ照れくさそうに笑う。
「行ってきます、師匠たち」
返事はない。けれど、靴を履く瞬間にふわりと追い風が吹いた気がした。
学校では、ごく普通の「折原さん」として過ごす。 数学の難しい問題に頭を抱え、体育の時間には「目立ちすぎないように」と加減して走り、休み時間には結衣と新作のアイスについて熱く語り合う。
「ミオ、今日の特売、駅前のスーパーだって。放課後、寄っていく?」 「行く行く! 卵、一人一パックまでだから、結衣の分もお願いしていい?」
そんな会話が、今のミオにとってはどんな「特級任務」よりも重要で、愛おしい。 放課後のスーパー。オレンジ色の夕日に照らされた店内を、カゴを持って練り歩く。特売のシールが貼られた牛肉を見つけた時の高揚感、レジでの何気ない「ありがとうございました」という言葉。
(……ああ。平和って、こういうことなんだ)
かつて死線を潜り抜け、神とも呼べる存在と刃を交えた少女は、今、百円の節約に知恵を絞り、明日のテストに怯えている。 重い荷物を抱えて帰る道すがら、ミオはふと立ち止まって夕空を見上げた。
空の向こうには、かつて戦った仲間たちの姿がある。 テレビに映る九条院、新聞で報じられる一ノ瀬の活躍、教え子たちに囲まれて笑うルナ。 彼らは「非日常」の中で戦い続け、ミオは「日常」の中で生きている。
どちらも、師匠たちが守りたかった、たった一つの世界の形。
家に戻り、お米を研ぎながら、ミオは小さく鼻歌を歌った。 特別なことは何もない、けれど最高に贅沢な、新しい生活の一日が暮れていく。




