婚約を解消した令嬢は「いつか」を望まない
「それで、ルイーナ。
君は彼女を見送らなくて、本当に良かったのかい?」
兄は、私よりも背が高いというのに、その背を曲げ、肩を落として上目遣いで私に問う。
「……あら、お兄様?
バートン侯爵令嬢に未練でも有りまして?
ふふ、幼少の頃からの婚約者でしたものね、お寂しいのでしょうね」
その発言を聞いた兄は一つ大袈裟なため息をついて、小さく頭を振る。
その姿はとても弱々しく見えた。
まぁ、嫌だわ。
私が兄を虐めているみたいじゃないの。
肩をすくめて静かに紅茶を一口飲む。
兄は少しだけ恨みがましい目で私の目を見る。
それは、私の真意を問うような、探るような視線で。
「僕はね、ルイーナ。
君の性格をよく知っているよ。
僕の可愛い妹だから、ね。
でも、こればかりは少しやりすぎじゃないか?
確かに彼女は道を少し間違えたかもしれないが、社交禁止の上、領地に幽閉だなんて…
彼女と友達だったじゃないか。
僕よりもよっぽど君の方が仲が良かったのに」
そこで兄は私から目を逸らして、自分のカップを見つめた。
あぁ、可愛らしいお兄様。
本当に甘い。
砂糖菓子よりも甘いわ。
全く持って愛らしい性格をしていらっしゃるのですもの。
イヤになってしまうわ。
「お兄様」
私は、ことさら甘えたような声で兄を呼ぶ。
兄の肩はビクリと揺れる。
本当に、困ったお兄様。
私は眉根を寄せて、少しだけ悲しそうに見える表情をする。
「えぇ、良き友人でしたわ。
でも私、後悔なんてしてませんわ。
だって、私、お兄様に不幸になってほしくないのですもの。
私のお兄様ですのよ?
当然でしょう?」
私は姿勢をただして兄を見る。
居心地が悪いのか、兄は落ち着かない様子で瞳を揺らす。
「ただ、お兄様もお兄様ですわ。
きちんと相談さえしてくださっていたら、こんな事にはならなかったのに。
重ね重ね、それだけが残念でなりません」
「…相談したら、反対されるのが分かっていたから…」
兄はもごもごハッキリしない口調で言い訳を口にする。
一つ小さく息を吐く。
「この場は私とお兄様だけですから、その態度は許しますけど、公の場ではしないでくださいませね?」
兄は眉尻を下げて、困った顔をする。
あぁ、お兄様。可哀そうな、お兄様。
婚約者が、不貞の末に婚約解消だなんて醜聞。
「でも、ルイーナ。
お前だって」
私の視線の冷ややかさに気がついた兄は、そこで言い淀む。
「何かしら?
私、だって?
お兄様、何をおっしゃりたいの?」
兄は視線を彷徨わせ、諦めたように肩をすくめた。
このまま話は終わり、そう思っていたのに。
兄は意を決したのか一気に言い切った。
「兄妹揃って婚約解消じゃ、体裁が悪いじゃ無いか」
まさか兄が言い切るとは思わなかった。
一瞬だけ胸の痛みに、眉を顰めた。
「……だから、と言ってあのまま見過ごせ、と?」
胸の奥の痛みはドロドロと澱み、根を張りながら、今でもその傷口から血を吐き出し続けてる。
「そんな事は言ってない」
兄は即座に否定した。
「では、どうしたらよろしかったのかしら?」
可愛らしく小首を傾げる。
そんな仕草もあの人は「一々わざとらしい」と厭うたというのに。
「他にやりようがあっただろう?」
兄が弱々しく反論する。
「では、それは具体的にどうせよ、と?」
言い方がキツくなった自覚はあったが、止められずそのまま口から出た。
「では、あの時、私はどうしたらよろしかったのでしょうか?
ねえ、お兄様?」
兄は私の反論に目を伏せた。
「幼馴染で。
兄の婚約者で。
私、親友だと思っていたのですよ?」
悔しさのあまり、思わず唇を噛み締める。
強く噛み締めたいが、あんな二人の為にこれ以上傷つきたくない。
そんな冷静な気持ちが湧き出る。
あぁ、コレ、も彼が可愛げがないと言っていた所の一つ、かもしれない。
乾いた笑いが浮かぶ。
「ギルバートだって、お前を裏切りたくて裏切ったわけじゃ」
「ではっ!
では、私がどうすればよろしかった?
なにも知らないふりして、微笑んでいたら?
それともみっともなく泣いて縋れば良かった?
そんな事、できるわけないじゃないですか!
それでしたら、多少宮中雀に笑われようとも、ええ、何度でもこの道を選びますわ」
兄のその発言に思わずカッとなってしまった。
強くなる口調と裏腹に心が痛くて、張り裂けそうになる。
「私、これでも彼の事をお慕いしていましたのよ?」
一旦私は言葉を区切った。
兄は私の発言を聞き、驚いたように目を丸くする。
「私がギルを好きだった事が、そんなに不思議ですの?」
「あ、いや、そのお前達は3人揃って仲が良かったと思っていたから……」
「お兄様だって幼い頃は私達と混ざって遊んでいたではありませんか。
幼馴染なのは、お兄様も一緒では?」
兄は曖昧に頷く。
「だから……こそ、許せませんでした」
手を握りしめる。
本当に。
本当に愛していたのだ。
ギルを。
幼い頃からずっと。
「……そう、か」
兄は絞り出すような声を出した。
「ルイーナ、お前は、いつから気がついていた……?」
「いつから?
面白い事をおっしゃるのね?
そうですね。
……でしたら、最初からです。
あえていうなら、10歳の頃、から」
私は思わず目を伏せた。
思い出してしまった。
ギルが、エミリアに笑いかける視線の柔らかさを。
婚約者の私には見せない、愛おしいものを見るこの上なく優しい視線を。
思い過ごしだと、ずっと言い聞かせてきた。
隣にいるのは私だと、その内彼も私を見てくれる、と。
でも、違った。
彼はその思いを手放さなかった。
そして、彼女も。
幼馴染だった。
数えきれないほど、手を繋いで走った。
あの頃は、そんな想いも無かった。
兄も含め4人でただ無邪気に遊んだ。
兄が寄宿学校に入っても、それ、は続いた。
そして、気がついた。
ギルが私と手を繋ぐ時、私の手を握るだけ、だという事を。
彼女と繋ぐ時は、お互いの指と指を絡め合う事を。
最初は、深く考えずに偶然だと思っていた。
偶々。
そう、深い意味はない、と。
それから…注意深く二人を見ていた。
相変わらずギルは私の手をとっても、子供の頃と同じ、握るだけで。
庭園を走り回って、ふと、二人と離れた時。
「待って」
そう言って追いかけてくる二人の手は。
やっぱり、指と指を絡めていた。
離れないようにするみたいに。
私の視線は、彼らの手に吸い付けられたように離せなかった。
ただ、見ていた。
あの視線はついぞ私に向けられる事なく、それでも愚かしい事に私は、いつかを信じていたのだ。
「不貞と言っても、一線は超えてない。
お前が騒がなければ、このままという未来もあったのでは?」
ギルが好きだと告げたから、なのか。
許せませんでしたと言ったのにも関わらず、相変わらず兄はお気楽だ。
「今からお前の婚約者を探すとなると、格下になる可能性が高い」
前言撤回。
一応兄も侯爵家嫡男だった。
「では、黙っていたとしましょうか。
それで?
兄の妻が妹の夫と不貞を働くかもしれないという爆弾を、私は生家に置いておくほど寛大にはなれませんの」
そう微笑めば、兄の顔が面白いように引き攣った。
「あら、お兄様はエミリアと添い遂げたら、エミリアがお兄様だけをみてくれるとでも思っていたのかしら?」
「子供がある程度産まれたら、その後の自由は止める気が無いな」
「当主らしいお言葉です事。
当主教育には、妻の不貞すら織り込み済みなのですね、凄いことだわ」
「そういう意味じゃない」
兄は渋面を作る。
「では、どういう意味ですの?」
わざとらしく無邪気な声で兄に問いかけると、兄の渋面がさらに酷くなる。
「貴族同士の婚姻なんて、そんなものだ。
血を繋ぐ。
そこに一切の感情なんてない」
「……」
そうだ、そういうものだ。
私だって理解している。
だけど。
心が冷えた。
私の愚かさは、きっと婚約者に恋をした事。
ただ、それだけ。
そして。
あの二人は、秘密の恋に少しだけ舞い上がってしまっただけ。
多分、こんな結果になると思っていなかった。
「私達、友達でしょう!?!?」
叫ぶように言ったエミリアの声。
「違うんだ、これはっ」
焦った声のギルの声。
あぁ。
小さく頭を振る。
焦ったギルの声、エミリアの泣き声。
頭がガンガンする。
少しずつ境界があやふやになった二人。
これくらいなら、大丈夫という油断。
誰にも気付かれていない、と思っていただろう。
二人だけの秘密という背徳の味は、さぞかし美味だったのでしょうね。
何しろ婚約者を、友人をも裏切れるのだから。
自分達の気持ちを優先させた結果だというのに。
あの場で公に晒された時の、二人の驚愕した顔。
二人の唇が触れ合っていたのを、誰もが見ていた。
あの時の、あの一瞬のざわめきすら、劇の一部かのようだった。
いとも容易く罠に嵌るなんて、という信じられない気持ちと、やっぱりと納得してしまう二つの気持ちが相反した。
だけど、不思議と気分が高揚したのは覚えている。
思わず苦笑する。
私を傷つける気持ちがなかった、と言われたところで、なんだというのだ。
大悪人になるほどの度胸もないくせに。
許すわけ、無いじゃない。
本当に、バカだわ。
大馬鹿者。
でもそれはきっと私も一緒。
ずっといつかを信じ続けた、私も。
政略結婚と割り切れば、良かっただけなのに。
「侮られたまま、結婚なんて冗談じゃありませんわ」
私は顎を上げて兄を見た。
兄は目を瞬いた。
「そうか」
ゆっくりと、優しい声で兄がいう。
そこには私への気遣いと、次期当主としての責任が見えた。
「ですから、次の婚約はお兄様に任せます。
お兄様なら私の意に添った方を見つけられそうですもの。
そういえば、お兄様の新しい婚約者、バートン侯爵家のロザリー嬢。
分別のあるお嬢さんの様で、よろしかったわね、お兄様」
エミリアの4歳下の妹が、兄の新しい婚約者だ。
家の為、この婚約まで流すわけにはいかないのだから、多少の歳の差は致し方ないのだろう。
兄も言っていたではないか。
貴族同士の婚姻なんてそんなもの、なのだから。
そう言って含み笑いをすれば、兄が引き攣ったように笑う。
「意に添えるよう頑張るよ」
「よろしくお願いします」
しおらしく頭を下げると、兄は頷いて部屋から出ていった。
泣くものか。
泣くぐらいなら、あんな罠仕掛けなかった。
信じてた。
いや、壊したかった。
婚約を?
あの二人の幸せを?
分からない。
あの二人が大馬鹿者なら、私は愚か者ね。
小さくため息を吐く。
後悔は、していない。
侮られたまま、など冗談じゃない。
だけど、どうしようもないこの胸の痛みだけは、どうにもならない。
心の中でずっと閉じ込めていた私が叫ぶ。
愛してる。
愛してる。
愛してる、と。
あぁ、私はこんなにも愚かな女だったとは。
次は、愛さない。
いつか、なんて期待しない。
小さく笑う。
何かが欠けた私に、お似合いの婚約者が出来るように幼馴染のよしみでせいぜい祈っててね。
ねぇ、ギル、エミリア。
風が吹いた気がした。
部屋の中を、幼かった私達が無邪気に駆け抜けていく。
笑い声をあげ、楽しそうに。
いつか、大切な思い出として、思い出すことはあるのだろうか?
今はまだ、分からない。
いつか、なんて誰にも、きっと。
私は口角をあげ、瞳を伏せた。
終わり
「ギルバート、お前の婚約話がまた流れた」
父からため息混じりに言われた。
「分かってるのか?これで5度目だ。
全く、ルイーナ嬢の何が不満だったのか」
父が悪態をつくのも5度目
「このままでは格下の嫁しか来ないではないか」
父はもう一度ため息をつく。
「中途半端にエミリア嬢に手を出して……お前は優秀だが、いかんせんルイーナ嬢の公爵夫人としての評判がなまじ良い分、今後お前が家を継ぐのも難しい事かもしれん」
父が渋面を作る。
最初の婚約者のルイーナは公爵家の後妻になった。
だがルイーナは俺の事を幼い頃からずっと好きだったのを知っている身としては、俺を排除する事は考えられなかった。
「いえ、エミリアの事はちゃんと好きで……」
言いかけて、父の一睨みで怖気付く。
父がハタ、と気がついたような顔をして俺を見た。
「……もしかして今でもルイーナ嬢が、お前の事を好きだ、とでも思っているのか……?」
心底不思議そうな顔をして、父が聞いてきた。
「え?」
そんな事思った事がなかった。
ルイーナの夫となるバーネル公爵はルイーナより13は離れている。
ルイーナは夜会で会っても微笑んでくれる。
そりゃ昔みたいに無邪気な愛情の籠った目ではないが、そこは公爵夫人だから分別がついているのだろうと思って……
そんな俺を父が心底理解できないという顔をして見ていた。
「あぁ、何も言うな。
これ以上父を失望させるな。
お前が何もわかってない事が分かった」
そう言うが早いが父は席を立った。
「お前が失ったのは、ルイーナ嬢からの愛情だけじゃない。
お前が仕事が出来る分、決心がつかなかったが……」
そう言って頭を振ると、父は部屋から出ていった。
ルイーナが、俺を愛してない……?
それは、そうだろう。
彼女は人妻で。
人妻で……
「卿、バーネル公爵夫人とお呼びください」
そう言ったルイーナが俺を見る目は……
思い出すと冷や汗が流れた。
彼女の目は、微笑みながらも誰にでも見せるお決まりのもので。
席を立とうとして、足に力が入らない。
失ったものの大きさに、これから失うであろう自分の立場に。
呆然としたまま、項垂れるしかなかった。




