最後の聖女の最期の祈り
その国は、昔から天候不順に悩まされてきた。
日照りと豪雨が交互に襲い、農作物は育たず、民は貧しい暮らしを強いられていた。
天応不順が最も激しくなる時期は、二百年周期で訪れた。人々はその周期に合わせて神が聖女を遣わし、国の安寧をもたらしているのだと考えていた。
また、街や村は広大な平野に築かれており、遠くに見える空と大地が世界のすべてだと信じられていた。
四方を高い山脈に囲まれ、そこから外に出ることは不可能だったが、誰もそれを疑問に思うことはなかった。
なぜならそれが自分たちの世界の形であり、それが当たり前だったからだ。
そんな国に一人の聖女、リリアーナが現れた。彼女は、物心ついた頃には孤児院で暮らしていた。
孤児院での日々は貧しかったが、温かかった。中でも優しい笑顔が印象的な老シスターは、リリアーナにとって母親のような存在だった。
老シスターはリリアーナを膝に乗せ、聖書を読み聞かせ、わずかな小麦粉で作ったクッキーを分け与えてくれた。
「リリアーナ、たとえ貧しくても、あなたの心は、いつも晴れやかでいなさい。そうすれば神様は、あなたの祈りを聞いてくださるから」
この国には古くから、聖女の誕生と役割を語る伝承があった。大神殿の奥深くに保管された「光る石板」に記されているものだ。
「聖女は天に選ばれる。聖女の祈りは星の命脈と繋がり、荒ぶる天候に安寧をもたらすものである。人々は、聖女を讃えなければならない。これぞ神がもたらす『真の祝福』なり」
この言葉は、聖女の奇跡と人々が抱く聖女への尊崇の念を指していると信じられてきた。だが、その真の意味を知る者は誰もいなかった。
リリアーナは孤児院の庭で、子供たちと小さな花を育てた。水が足りない時も彼女は花にそっと語りかけ、丁寧に土を耕した。
ある日、彼女が花壇の前に跪き祈りを捧げると、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。それは彼女が聖女として見出される、最初の一歩だった。
リリアーナが祈ると日照りの大地に恵みの雨が降り、荒れ狂う嵐は鎮まるようになった。その奇跡の発現と時期を同じくして、大神官に神託が下った。
「聖女は定められた。その魂は、リリアーナという名の少女に宿りしもの」
大神官は、神託を王家に伝えた。リリアーナは国の庇護を受けることになった。
聖女の存在は国にとって、政治的な意味を持っていた。自然災害に悩まされ続けるこの国で、彼女の力は民衆の支持を確実に集めることができる。
「聖女の力を、王家が保護するのだ」
そのための最善の策が、彼女を王太子の婚約者として迎え入れることだった。
国王は、王太子に命じた。
「王太子、聖女をお前の婚約者とする。否定することは許されない。歴代の聖女も皆、王家に嫁いでいるのだ。
これは世界を存続させるための、我ら王家に課せられた使命でもある」
王太子は父の命に反発した。彼の内心には、怒りと深い嫌悪感が渦巻いていた。
「父上、私は、聖女などという迷信のために、見も知らぬ平民の女を妻にすることなどできません!」
「迷信だと? 聖女の奇跡を、お前は見たはずだ!」
国王の声に、怒りがにじんだ。
「奇跡などではございません! あれはただの偶然です! それに、私は、エレーナ嬢と婚約する予定だったではありませんか…!」
王太子は感情を抑えきれずに叫んだ。ベルガム公爵の娘エレーナの、美しく優雅で気品のある姿が脳裏に浮かぶ。どうしてもリリアーナという、孤児の少女と比較してしまう。
「彼女こそ王太子の隣に立つにふさわしい令嬢です! 高貴な血筋と気品、教養を持ち、私を理解してくれる。優秀な彼女であれば、私の政務も助けてくれるでしょう。それなのに、なぜ私は、出自も知れぬ女を……!」
王太子の言葉に、国王は静かに首を振った。
「お前にはまだ、この国の成り立ちを理解しておらぬ。我らの国は、約二百年ごとに聖女が現れ、その力によって命脈を保ってきた。これは神の御業であり、我々はこの摂理に従うしかないのだ」
王太子の婚約は、王太子の意思も、リリアーナという個人の運命も、完全に無視したものだった。
リリアーナは王家の招きで王宮を訪れた。豪華絢爛な装飾品、磨き抜かれた大理石の床、高価な香木が焚かれた広大な空間に、彼女はただ圧倒された。
孤児院の小さな庭で花を育てていた少女にとって、それは別世界だった。
そして広間で彼女を待っていたのが、王太子だった。
彼は国王の期待を一身に背負い、聡明さと精悍さを兼ね備えた青年だった。しかしその表情には、どこか冷たさが漂っていた。
彼はリリアーナを一瞥すると、言葉を発することなく、ただ静かに彼女を見つめていた。
張り詰めた沈黙の中、リリアーナは震える声で口を開いた。
「わ、わたくしが……リリアーナでございます」
王太子はその言葉にわずかに眉を動かし、ゆっくりと彼女に近づいた。彼はリリアーナの前に立ち止まると、その清らかな瞳をじっと見つめ、静かに問いかけた。
「君は……神の声を聞くことができるのか?」
彼の声には、好奇心や期待よりも、疑念の色が濃く含まれていた。リリアーナはその冷たい眼差しに戸惑いながら、正直に答えた。
「神の声……は、聞こえません。ただ……」
「ただ?」
「ただ、神は。わたしの祈りを聞いてくださるのです」
リリアーナの正直な答えに、王太子の表情は変わらなかった。それはまるで、彼女の言葉の裏に隠された真実を探っているかのようだった。彼はふっと微かな笑みを浮かべ、皮肉ともとれる口調で言った。
「なるほど。つまり、君の祈りは、ただの気まぐれな天候を、あたかも神の奇跡であるかのように見せる『まやかし』だということか。
お前のその『まやかし』が、いつまで通用すると思わぬことだ……」
王太子はそう言い放つと、彼女に背を向け、広間を後にした。
リリアーナは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。彼女の心を覆う不安は、これから始まる運命を予感させるものだった。
王宮に囲い込まれたリリアーナは、王家の意のままに動くことを余儀なくされた。豪華な衣装を身につけ、護衛の騎士に囲まれ、馬車に乗って各地を巡礼する日々が始まった。
彼女の役割はただ一つ、王家の権威を民に示し、豊穣を約束することだった。
痩せた農村ではリリアーナは高台に立ち、畏敬の眼差しで見つめる農民たちの前で祈りを捧げた。
彼女の清らかな声が響くと空にはみるみるうちに黒い雲が湧き上がり、やがて大地を潤す恵みの雨が降り注いだ。農民たちは歓喜の声を上げ、泥にまみれた手でリリアーナに感謝を捧げた。
「聖女様、聖女様!」
彼らの純粋な感謝の言葉が、リリアーナの救いだった。しかし彼女の隣に立つ王家の使いは、冷たい目でその光景を見つめていた。
「王家が聖女様をお守りしている限り、この国の豊かさは永遠に続くでしょう」
と民に告げた。リリアーナの力は、いつしか王家の偉大さを誇示するための道具となっていた。
裕福な貴族の屋敷では、彼女は煌びやかな宴に招かれ、高位の貴族たちの前で祈りを捧げた。彼らはリリアーナの祈りを聞くたびに、上等なワインを飲みながら囁き合った。
「噂通りの力だ。この聖女がいる限り、我らの財産は安泰だな」
彼らの目は、感謝ではなく、計算と欲望に満ちていた。
リリアーナは、その視線が突き刺さるたびに、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
あるとき、リリアーナはかつて暮らしていた孤児院の近くを訪れた。しかし彼女は馬車から降りることは許されなかった。
窓から覗く彼女の目に映ったのは、遠くからこちらを見つめる孤児院の子供たちの姿だった。
彼女は手を振ることも、語りかけることも許されなかった。ただ馬車の窓を隔てて、心の中で彼らの幸せを祈り続けることしかできなかった。
リリアーナの祈りの力は、国を豊かにし、王家の権威を確固たるものにしていった。
しかし、その力は彼女自身の心の平穏を奪い、孤独と絶望を深めていった。
彼女は、もはや王家の庇護のもとで、ただ祈りを捧げ続けるための、籠の中の鳥に過ぎなかった。
※
数年が経った。
リリアーナの祈りのおかげで、この国の天候は完璧に安定し、作物はこれまでにないほどの豊作を何度も記録した。
街の市場は、朝から活気に満ち溢れていた。
かつて、わずかな根菜と干し肉しか並ばなかった店先には、つやつやと光るリンゴや手のひらよりも大きなカボチャが山と積まれている。
貧しかった頃には高嶺の花だった新鮮な牛乳やバターも、今では庶民の食卓に当たり前のように並んだ。
子供たちの頬は、以前のような飢えに苦しんだ青白い色ではなく、健康的な赤みを帯びていた。
彼らは、リリアーナが与えたパンを分け合う必要もなくなり、それぞれの家で焼かれた温かいパンを、お腹いっぱい食べることができた。
農民たちは、収穫されたばかりの穀物を運びながら、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。
彼らの会話は、もはや雨乞いの心配ではなく、今年の収穫で新しい鋤を買うか、それとも家を修繕するかという、幸福な悩みで占められていた。
リリアーナの祈りによってもたらされた豊かさは、人々の暮らしを劇的に変えた。
その一方で、感謝の心は薄れ、いつしか、この繁栄は自分たちの手で掴み取った当たり前の成果であると、人々は思い込むようになっていた。
そして、豊かになった民衆の心は、聖女への感謝を失っていった。
村の男たちは、麦酒を飲みながら言った。
「今年の収穫は例年の三倍だ。これも俺たちが一生懸命働いたからだな」
聖女の祈りによる豊作は、自分たちの努力の当然の成果に過ぎなくなったのだ。
この状況を好機と捉えたのは、王太子とベルガム公爵だった。
王太子は、リリアーナの出自が孤児であることを心底軽蔑していた。いくら王家の権威を高める道具とはいえ、高貴な血筋を重んじる彼にとって、平民を妻とすることは耐え難い屈辱だった。
一方、ベルガム公爵は、自身の娘であるエレーナを王太子妃にしたいと野心を抱いていた。聖女の力に頼ることなく、公爵家と王家が結びつくことで、国を支配する強固な権力を手に入れることが彼の目的だった。
両者の利害は一致した。
彼らは、リリアーナを失脚させ、エレーナを新たな聖女として祭り上げるための陰謀を巡らせ始めた。
まず、公爵は多額の金銭を使い、宮廷の貴族や教会の高位聖職者たちを次々と買収していった。彼らは、リリアーナの行いを歪曲した噂を流す役割を担った。
「聖女は王宮で豪勢な暮らしをしているそうだ。孤児院にパンを分け与えているのは、己の偽善を民に見せるための芝居にすぎない」
「彼女の祈りは、ただの偶然だ。神の真の力は、エレーナ様という高潔な魂にこそ宿る」
このような噂は、酒場や市場の片隅で囁かれ、次第に民衆の間に広まっていった。
一方、王太子が雇った密偵は、彼女が王宮を抜け出し、貧民街を訪れる様子を克明に記録した。
密偵の報告には、リリアーナが貧民街の子供たちと笑顔で接し、聖書の教えを説き、手作りの刺繍を贈る様子が記されていた。王太子は、この報告書の内容を巧みに利用した。彼は、これらの記録を「聖女の権威を私的に利用している」という証拠として捏造したのだ。
まず、彼は宮廷画家を呼び出し、リリアーナが子供たちに囲まれる様子を、あたかも彼女が彼らを自らの信者として囲い込んでいるかのように悪意をもって描かせた。絵には、リリアーナが貧民街の子供たちにパンを分け与える様子が、彼女が自らの権力を誇示しているように見えるように細工が加えられていた。
次に、彼は貴族たちを集め、こう言い放った。
「聖女リリアーナの祈りには、公平さがありません。彼女は、自らの力を私的に利用し、見返りを得た者にしか真の祝福を与えないのです」
エルムートはそう言うと、一枚の羊皮紙を広げた。そこには、リリアーナの祈りによって天候が安定した領地の貴族たちの家の名と、彼らがリリアーナに贈った高価な宝飾品や金品の記録が記されていた。
「これを見よ! これは、彼女がその祈りによって得た、不正な見返りの記録だ。彼女が訪れた領地は、その日を境に豊穣に恵まれるという。そして、彼女が身につけている装飾品は、すべて彼女が祈りの対価として受け取ったものだ」
王太子の言葉は、貴族たちの嫉妬と猜疑心を煽った。リリアーナの清らかな姿の裏には、醜い欲望が隠されている。彼女は神の代行者などではなく、自らの贅沢のためだけに力を振りかざす俗物でしかないのだと、彼らは思い込まされた。
リリアーナの純粋な善意は、王太子の策略によって、醜い利己心として解釈されてしまったのだ。
そして、公爵は娘のエレーナを「真の聖女」として民の前に登場させる準備を進めた。
エレーナは豪華な衣装をまとい、優雅な言葉で民衆の幸せを祈る演技を、徹底的に教え込まれた。
公爵が雇った吟遊詩人たちは、エレーナの優美さを讃える歌を国中に広め、酒場の女たちは、彼女の慈愛に満ちた振る舞いを噂話として語り継いだ。
リリアーナの祈りによってもたらされた豊かさという「奇跡」は、人々の心から感謝を忘れさせ、代わりに嫉妬と欲望を植え付けた。その歪んだ心の隙間に、王太子と公爵の悪意が静かに、そして確実に浸透していった。
リリアーナを失脚させるための舞台は、こうして着々と整えられていった。
民衆の心は、次第にリリアーナから離れていった。
リリアーナへの疑惑が貴族と民衆の間に渦巻く中、国王は事態を収拾しようと動いた。彼は、リリアーナの無実を信じ、聖女の権威を守るため、王太子を叱責した。
「リリアーナは、神に選ばれし聖女である。これ以上、彼女を貶めるような真似は許さぬ!」
国王の言葉は、その場にいる誰の心にも響かなかった。王太子は冷たい目で国王を見据えた。彼の顔には、もはや恭順の意はなかった。
「父上、あなたは偽聖女の『まやかし』に、とうとう心を奪われてしまったようだ。真実を見ようとしない者に、この国の未来を任せることはできない」
その瞬間、王太子の合図とともに、彼の背後に控えていた騎士団が一斉に剣を抜いた。彼らは皆、王太子に忠誠を誓った者たちだった。
「クーデターだ!」
宮廷は一瞬にして混乱に陥った。王太子は、彼に忠誠を誓う騎士団を率いて、国王を捕らえ、王座を奪った。
「父上は、聖女の『まやかし』に惑わされ、国を誤った道へと導こうとした。真の聖女はエレーナだ!」
王太子はそう宣言し、自らが新たな国王となることを強行した。そして、彼はベルガム公爵令嬢エレーナを自らの妃とし、高らかに告げた。
「エレーナこそが、神がこの国に遣わされた『真の聖女』である!」
豪華な衣装をまとったエレーナは、優雅に微笑み、民衆に手を振った。その姿は、王家の伝承にある聖女そのものだった。民衆は、正しき「聖女」の出現を心の底から喜んだ。彼らは歓喜の声を上げ、新たな国王と聖女の誕生を祝福した。
民衆は、偽聖女を裁くべきだと声を荒げ始めた。貴族たちは、国王の権力にすり寄るため、リリアーナの罪を誇張して触れ回った。かつての畏敬のまなざしは、憎悪と嘲笑に変わっていた。
リリアーナは、ただ運命を受け入れるしかなかった。
「真の聖女はエレーナ様だ!」
「偽聖女リリアーナを処刑せよ!」
民衆の怒号が王宮に響き渡った。
公爵が買収した高位聖職者たちは、リリアーナの奇跡を「悪魔との契約」だと断定し、貴族たちはその主張を支持した。
リリアーナは「聖女を騙った」という罪で捕らえられた。
リリアーナ地下牢に送られた。冷たい石の床に横たわり、彼女はただ、空に祈り続けた。
リリアーナが育った教会の孤児院の人々は、彼女の無実を信じ、声を上げて訴えた。だが、民衆の怒りと嫉妬は燃え盛る炎のように彼らを襲った。
「偽聖女の仲間め!」
と罵声を浴びせられ、石を投げつけられ、彼らは血を流した。かつてリリアーナと共に暮らし、花に水を上げていた子供たちは、泥と石にまみれて泣き叫んでいた。
ある日のこと。
地下牢の重い扉が開き、牢番が嘲笑しながらリリアーナに言った。
「おい、お前の居た孤児院が燃やされたぞ。シスターや子供たちは、みんな民衆に殺されたそうだ」
その言葉は、リリアーナの心を深く抉った。
彼女の唯一の心の拠り所、希望の光であった孤児院の人々が、無残にも奪われたのだ。声にならない悲鳴が喉の奥で詰まり、涙が枯れた瞳から一筋流れ落ちた。
リリアーナの拷問が始まった。
彼女の華奢な手足は鎖につながれ、身動き一つ取れない。拷問官は冷たい目でリリアーナを見下ろし、歪んだ笑みを浮かべた。
「さあ、正直に話せ。お前は、いつから神の力を騙るようになった?」
リリアーナは首を振った。「わたくしは……ただ祈りを捧げただけです」
拷問官の鞭が、彼女の背に幾度となく叩きつけられる。痛みで意識が遠のきそうになりながらも、リリアーナは必死に真実を叫んだ。
「真実を偽ることは出来ません!」
業を煮やした拷問官は、最後の切り札を出してきた。彼は、傷つき、弱り切ったリリアーナの前に、生き残っていた老シスターを引きずってきた。シスターは血まみれの顔で、かろうじてリリアーナの姿を捉えた。
「リリアーナ…! 駄目! あなたは…生きなさい!」
その声は、絶叫とともに途切れた。拷問官は老シスターの首元に剣を突きつけ、リリアーナに迫る。
「さあ、認めろ!お前が『聖女を騙った』と認めれば、この老婆の命だけは助けてやろう」
リリアーナは絶望した。彼女は、もはや自分の命を惜しむことなどできなかった。大切な人をこれ以上傷つけたくない。
彼女は涙を流しながら、かすれた声で答えた。
「私は聖女を…騙りました…」
こうしてリリアーナは「聖女を騙った」罪で、断罪の場に引きずり出されることになった。
処刑台に上がった彼女は、最後に静かに祈った。
「私の命はここで尽きます。ですが、どうか、この国の皆様が、いつまでも晴れやかに暮らせますように」
それは、正しく聖女の慈悲の祈りだった。
処刑人の巨大な斧が振り下ろされる直前、彼はリリアーナの耳元で囁いた。
「お前が慕っていた老シスターは、昨日、俺の手で処刑したぞ」
リリアーナは絶望に打ちひしがれ、声にならない慟哭を上げた。そして、その悲痛な叫び声とともに、彼女の首は斬り落とされた。
翌日から、世界は一変した。
空には一片の雲もなく、太陽が燦々と降り注ぐ。それは、人々がリリアーナの力を当たり前だと考えていた日々よりも、さらに完璧な快晴だった。
当初、民衆も貴族も、その完璧な天候をまるで気に留めていなかった。それどころか、むしろ喜んでいた。
「見てみろよ!こんなに完璧な晴天! やっぱりあの女は偽物だったんだ!」
「当然だ。これからは、真の聖女のエレーナ様が、我々に祝福を与えてくださる」
酒場では、男たちが高らかに笑いながら、麦酒を飲み干した。畑仕事をする農民たちも、容赦なく降り注ぐ太陽の下で汗を流しながら、口々に豊作を確信していた。
彼らにとって、リリアーナの祈りによってもたらされた穏やかな天候は、すでに過去の遺物だった。彼女の存在は自分たちの努力によって掴み取った豊かさの、単なる「きっかけ」に過ぎなかったのだ。
人々は、自分たちの手で未来を築けると信じ込んでいた。
一週間、一ヶ月と雨は降らなかった。畑の作物は枯れ、川の水は涸れた。人々は、そこで初めて、リリアーナの力の偉大さを思い出した。だが、時すでに遅し。
飢えと渇きが民衆を襲い、王国に混乱が広がった。
貴族や民衆は、終わらない快晴を、リリアーナが国を滅ぼすためにかけた呪いだと噂し始めた。
広場では、男たちが井戸の底を指差しながら囁いた。
「聖女様を殺したからだ。彼女の魂が、この国に復讐しようとしているんだ。」
酒場では、女たちが顔を青ざめさせて噂を流した。
「聞いたかい?処刑される直前、聖女様は恐ろしい顔で何かを呪っていたそうだ。あの快晴は、その呪いの現れに違いない。」
孤児院の子供を迫害した村人たちは、夜な夜な悪夢にうなされた。夢には、血まみれの姿で立つリリアーナが現れ、彼らを憎しみの目で睨みつける。
「呪いだ…!聖女様の呪いだ!」
人々は、自分たちの罪を直視せず、リリアーナの呪いが元凶だと言い合った。
民衆は、真の聖女とされたエレーナに縋った。
「聖女様!どうか、雨を降らせてください!」
だが、エレーナがいくら祈ったところで、空は青く澄み渡ったままだった。
「どうしてだ……真の聖女であるエレーナ様が祈れば、雨は降るはずではないのか?」
民衆は、エレーナを疑い始めた。
「リリアーナ様が処刑されてから、この国は呪われている……」
「まさかリリアーナ様こそが、本当の聖女だったのではないか?」
囁きは、やがて確信へと変わっていく。彼らは、自らが犯した過ちに、ようやく気づき始めたのだった。
一方、王城では連日、対策会議が開かれていた。
「まず、リリアーナの呪いを解かねばならない。解呪士を呼べ!」
国王の命令により、腕利きの解呪士たちが国内外から集められた。彼らはあらゆる呪術書を調べ、魔力探知の道具を駆使したが、リリアーナの呪いの痕跡は一切見つからなかった。
「陛下…申し訳ございません。この快晴は、我々の知るいかなる呪いとも異なるようです」
解呪士たちは、口々にそう言って首を振った。
事態はますます深刻化し、国王は最後の手段として、大神殿にいる偉大な大神官を呼び寄せた。大神官は、大神殿に籠り、神託を求めた。
数日後、彼の顔は蒼白だった。
「陛下…これは、リリアーナ様の呪いではありません。」
大神官は震える声で語った。
「リリアーナ様は、最期までこの国の民の幸せを願っておられました。
『皆様が晴れやかに過ごせますように』
あなた方は、リリアーナ様の最後の祈りさえも呪いと呼び、死後もなお彼女を貶めました。
神は何も答えませんでした。神の愛子を弄び、その心を打ち砕いた私たちに、もう、成すすべはないのでしょう」
国王は、真実を悟り、膝から崩れ落ちた。もはや、この国を救う術はない。
快晴は終わらないのだ、永遠に。
この国は太陽に焼かれ、渇きと飢えに苦しみながら、聖女の最後の祈りの中で、静かに滅びゆく運命を待つだけだった。
※
※
※
数千年の時が流れた。
太陽に焼かれ砂漠と化したかつての王国の跡地に、一隻の宇宙船が着陸した。宇宙からやってきた地球人の調査隊は、この地に栄えた文明の遺物をドローンで探索していた。
当初、彼らは知的生命体の生存環境にないこの星で、文明の形跡が発見出来るとは思っていなかった。
しかし調査を進めるうち、円周状に残る巨大な遺跡群が見つかった。遺跡群の周囲は高い山々に囲まれ、その外側に人工的な高い壁があった。壁の形状は内向きに湾曲しており、調査チームは遺跡群を巨大なドーム型都市だと推測した。
かつての住民たちにとって、ドームは外界の過酷な環境から遮断し身を守るためのシェルターだったと考えられた。
「隊長、大気成分の分析結果が出ました」
若い隊員が、手元の端末を見つめながら報告した。
「酸素濃度、水蒸気量がゼロに近い状態です。生物の生存は不可能なレベルです」
隊長は眼前に現れた景色に歩みを止めた。古代の神殿の遺跡が何かを語りかけているようだった。
風化した石造りの神殿の中央には、美しい女性の像が安置されていた。その像は両手を胸の前で合わせ、空を見上げていた。
「この像、何かを祈っているようだな…」
隊長はそう呟きながら、遺跡の奥へ進んだ。そこにひっそりと隠された電子機器装置の端末を発見する。端末の脇には先ほどの像と同じように、女性が祈る姿のシンボルが描かれていた。
隊員の一人が端末から得られたデータを解析し、驚きに満ちた声で報告した。
「隊長! この端末はこの星の気象データと、当時のある特定の人物の脳波パターンを記録しています! そして、その両者に信じられないほどの相関関係が見られます!」
隊長はその言葉に目を見開いた。別の隊員が、解析結果を映し出したモニターを指差す。
「どうやら、特定の思考パターン、おそらくは『祈り』と呼ばれるものに、気象システムを操作する機能がリンクしていたようです。そして『祈り』が最も強力な個体、つまり『聖女』と呼ばれる存在が、気象システムを操作し天候を操っていた…!」
隊長は、彼らの分析に耳を傾けながら、一つの結論に達した。
「このドームは、単なる環境維持システムではなく、天候調整まで行える極めて高度なシステムだったんだ。そして彼らが『神』と呼んでいたのは、このシステムのAI(人工知能)のことだろう」
隊長は乾ききった大地の上に跪き、祈るような姿勢で、遠い空を見つめた。
端末の解析が進められ、全容が明らかになった。
ドーム型都市は、高度な科学技術を誇る文明によって築かれたものだった。彼らは過酷な環境のこの星で生きるためドーム型都市を建設し、そこで生きていた。ドーム型都市には、人工的な気象制御システムが備わっていた。
このシステムは、単に天候を制御するだけでなく、ドームという限られた空間で人類が生存するために、人口を調整する機能も担っていた。
AIは、人口増加が食料供給能力を上回る危機を察知すると、日照りを引き起こして作物の収穫量を減らし、緩やかに人口を抑制した。逆に、行き過ぎた天候不順で人口が減りすぎると、恵みの雨を降らせて豊作をもたらし、人口の回復を促すのだ。
このAIは、約二百年周期でメンテナンスが必要だった。その間、AIによる自己チェック、自己修復を行うが、気象制御システムの管理を行えなくなる。
そのため、AIはメンテナンスが必要な十数年、自らの代わりに気象制御システムの管理をする者として「聖女」を選定した。「聖女」はシステムに適合する、特定の脳波を持つ人間である必要があった。
システムは「聖女」の脳波を検知し、その精神状態に呼応して天候を操作する仕組みだった。聖女の祈りが、システムを動かすためのパスワードであり、彼女たちの心の状態が、世界の天候を決定する鍵だったのだ。
しかし、システムには致命的な欠陥があった。
メンテナンス期間は、AIによる気象制御システムの管理は休止されるため、その期間中に聖女が不在になれば、気象制御システムも制御不能となる。
そのため、古来よりこの世界には、聖女を保護し、その命を守るための伝承が受け継がれてきた。大神官はAIから聖女の誕生を知らされ、王家は聖女を「神の御子」として迎え入れ、丁重に保護する。そして王家が聖女を娶り、その血を繋いでいくという伝承は偶然ではなく、この世界の命脈を保つための、人間が作り上げたシステムだったのだ。
隊員の一人が、地面に落ちていた古びた聖書を拾い上げた。その聖書には、古の言葉で記されていた。
「聖女は天に選ばれる。聖女の祈りは星の命脈と繋がり、荒ぶる天候に安寧をもたらすものである。人々は、聖女を讃えなければならない。これぞ神がもたらす『真の祝福』なり」
リアクションがあると嬉しいです!