ヒロインになるつもりはなかった
前作『悪役令嬢になりそびれたようです』のヒロインサイドのお話です。前作を読んでいなくとも問題ないかとは思います。前作主人公の髪色を金髪から黒髪に変更。
主人公の兄の名前がセバスチャンですが、執事ではありません。
前世を思い出したのは十五歳の春。
私は乙女ゲームのヒロインに生まれ変わっているのに気が付いた。
物語は、貴族子女の為の学園入学からスタートする。しかし思い出したのは入学前日の今。明日から身に纏う制服を試着して鏡を覗き込んだ時だった。
「いや、思い出すなら、もう少し時間の余裕が欲しかった」
そう思うのは仕方がない。心の準備だって必要であるし、何よりヒロインになりたい人間ばかりではないのだ。
「そっか。『ツキオト』のヒロインが私、かあ」
変な笑いがこみ上げて来る。乙女ゲームは数あれど。『ツキオト』はある意味、異色な作品だった。
「シザーリオ、明日の準備はできているかい?」
部屋の扉がノックに応えると、叔父が姿を見せた。彼の表情には面白がる気持ちと心配が混ざったものが浮かんでいる。私の突飛な行動に協力し、こうして隣国にまで付いて来させてくれた。面白そうだからと。だが、姪を心配する気持ちも十分に持ち合わせている人だ。
「叔父上、どうです? 自分では完璧だと思うんですが」
その場でターンしてみせる。学園の制服を試着していたのだ。ブレザーにチェックのスラックス。
「ああ、うん。似合ってるよ。似合っていて良いかどうかは別にして。姪が甥になってしまって叔父としては複雑だ」
気持ち、足を開いて背を伸ばす。胸元を飾るのはリボンではなくネクタイだ。
明日から私は、十五年使っていたヴァイオラという名を伏せ、男性名のシザーリオと名乗る。
乙女ゲーム『月待ちの乙女』のヒロインは。男装美少女なんである。
舞台は王立の学園。十五歳からの貴族子女が三年間学ぶ、全寮制の。
明日から男子寮での生活がはじまる。
私、いや僕は。シザーリオという隣国からの留学生だ。父である男爵(実際は叔父)について来てこの国に滞在する縁で学園にも通うという名目だ。
悔しいが、原作ゲームの流れそのままだったりする。家族の反対を押し切って、男装して隣国の学生になるというのは。
もちろん、わざわざ男装するのには理由がある。
私にはセバスチャンという名の双子の兄がいるのだが、その兄が六年前に誘拐され、以後、消息不明なのだ。男女の双子ではあるが、金の巻き毛に紫の瞳のそっくりな容姿を持ち、片方が怪我をすれば、もう片方も痛みを感じる。そんな魂の片割れであったので、兄の生存を私は疑っていない。死んでいれば分かると言う確信がある。
兄の生存を主張する私を家族は信じてくれて、八方手を尽くして探してはくれたのだが、どうやら国内にはいないらしいことしか分からない状態。手がかりもほとんどなく、唯一、半年ほど前に何故か隣国の王立学園の男子寮で、私と似た少年の姿を見た気がするというあやふやな証言があり、その話に私は賭けた。令嬢のままで留学した場合、男子寮に近づいて調査などできない。だからこその男装なのである。
原作ゲームでは、兄を探す男装したヒロインを攻略対象たちが手助けし、同性のはずなのに惹かれて行くことへの彼らの葛藤と、女であることが知られて一挙に仲が深まるストーリーが、一部に大受けした。ヒロインはラストシーンで美しいドレス姿を披露するまでずっと男装である。恋愛が男装のまま進むので倒錯的なビジュアル。更に言うと隠しルートで、メインの王子ルートと公爵令息ルートの共通悪役令嬢オリヴィアとの百合エンドがある。とってもカオスなゲームだった。
プレイするのは面白かったが、女であることを隠し通すというのはリアルだと心臓に悪い。
「下手にばれたら痴女扱いされない?」
なんて、男子寮の住人になった私は思うんであるが、今更引けなかった。もう少し早く記憶が戻っていれば、こんなリスキーな手段は取らなかったものを!
そう。私にはヒロインする気持ちはまったくなかった。だから入学当初にある各攻略対象との出会いはすべて避けたし、今後も彼らに関わるつもりはない。
けれど。この世界に生きる私に、双子の兄を探さないという選択もまた、なかったのである。共に生まれ、共に育った魂の片割れ。兄を見つけ出すまで、自分の恋愛も結婚も考えられないと、家族にも主張してきたために、ヴァイオラという貴族令嬢に婚約者はいない。その気持ちは前世を思い出しても薄れることはなかった。
兄を探すこと。女だとバレないこと。攻略対象には近づかないこと。
この三つを柱に新たな生活に突入したのだが、当然、気が休まることがない。幸い、寮の部屋は個室で、狭くともバストイレ、そして鍵付きなのが救いだった。
まずは寮生から確認していこうと、彼らの観察から始めた。例え髪の色を変えていたとしても、セバスチャンを私が見間違うことなどありえない。
そうやって、ひとりひとりチェックしていたのだが。
「シザーリオ! どこへ行った!? お前のその軟弱な身体を鍛えてやるというのに!」
何故か、攻略対象の騎士団長の息子トービーに目をつけられてしまった。
軟弱と言われても、それは女なんだし。十五歳の少女が男装した場合、年齢より下に見られてしまうのは仕方ない。何せ、声変わりもしておらず、背も低い(女子としては平均。そしておそらくこれ以上は伸びない)。胸を潰して、服で多少の補正はしても、どうしたって男子と比べると華奢でしかない。筋肉だってつかないし、これまで剣をふるうなどもしてこなかった。当然、体力もあまりない。何せ、貴族のお嬢様をずっとやってきたのだから。
一応、子供の頃から病弱だったので成長が遅い、という設定は周囲に語っているのだが、どうやらトービーには健康になったのならば先輩として鍛えてやろう、という使命感を燃やさせてしまったらしい。ただでさえ攻略対象には近づきたくないのに向こうから来るし、あと、ちゃんと兄を見つけさえすれば女に戻るので身体を鍛える気もさらさらない。なので、彼からは逃げの一択なんである。
そんな私が今いるのは、寮裏の灌木の陰。トービーを巻いて荒い息を治めようとしているところだ。急激に走ったものだから貧血を起こしかけていた。だが、自室以外で倒れる訳にはいかない。その気力だけで立っていたのに、またしてもトービーの声が近づいて来て、しかしもう走るどころではない。
「君、こちらだ」
急に手を引かれて、足元が危ういままに、テラスから屋内に連れ込まれた。警戒すれども対処の仕様もないままに。
そこは裏庭に面した寮の一室。おそらくは王族や高位貴族のための部屋であろう。入ったところは居間らしく、他に部屋もあるようだ。私を連れ込んだ人物は、更に私を続き部屋へと押し込んだ。
「中から鍵をかけて静かにしていろ」
彼自身は一緒に部屋に入らず、そのままテラスに続く居間に戻った。私は震える手でドアに鍵をかけると、その場に崩れるように座り込んだ。ドアにもたれかかって息を整え、遠ざかりそうになる意識を繋ぎとめる。
「すまん! ここに細っこい奴が来なかったか!?」
ドアの向こうに声が響いて、心臓が跳ねる。トービーの声だ。彼は地声がそもそも大きい。
「うるさいぞ、トービー。ここには私ひとりだ。静かにできないならば去れ」
「いないんなら仕方ないかあ。もし細っこいシザーリオって新入生見かけたら、俺んとこに寄越してくれ。きっちり鍛えてやるつもりなんだ」
「トービー。おまえに悪気はないことは分かっている。だがな、相手の意見も聞いてからにしろ。私のように、鍛えることに興味のない人間もいるのだ」
俺がわざわざ指導するんだからありがたいだろう、という発言とか、人には向き不向きがあるのだ、という反論やらがその後も少し続いたが、やがて静かになった。
それからしばらくして、扉が軽くノックされる。
「トービーはいなくなったから出て来い」
それは人に命令し慣れた者の言葉。だが、さして高圧的ではない。ただ不思議と素直に従ってしまう力があった。鍵を開けて部屋(寝室だった)を出て、私は深く一礼する。
「助けてくださってありがとうございました」
「奴の大声がうるさくて気に障っただけだ。ついでだから茶に付き合え」
居間のテーブルを示され、ソファーに座り、彼の様子を伺っていると、どうやら手ずからお茶をいれてくれるようだ。高級な茶器。有名な茶葉の入った装飾された缶。ケトルに魔法で注がれる水。彼の手から更に魔法が放たれ、ケトルの中身がぐらぐらと煮えたのが分かった。
(待って! あの茶葉はそんな高温で淹れちゃだめっ)
「すみません! 僕に淹れさせてください!」
「む、そうか。では頼もう。火傷には気を付けよ」
貴族は使用人に世話されるのが当たり前なのだが、この学園に通う限り、従僕も侍女もつかない。寮の各階には世話人がおり、清掃や洗濯などもしてくれるが、身の回りのことは自分でせねばならない。これは戦地などに赴く可能性のある貴族子女の教育の一環である。食事やお茶、軽食などは食堂で準備されるが、自室で飲食しようと思うと自力で対応せねばならないのだ。生粋の貴族令息が上手にお茶を淹れられなくとも仕方がない。令嬢たちであれば、お茶会で主人役が客に茶を振る舞う場合があるので、ヴァイオラもお茶くらいは淹れられた。
ケトルの熱湯を魔法で少し冷やしてから、ポットに茶さじ三杯の茶葉を投入。静かに湯を注いでしばし。カップに美しい水色の紅茶を満たしてテーブルに置いた。
「どうぞ」
「すまない」
自分の分も紅茶を用意してソファーに腰かけ、向き合う彼の様子を確かめる。上品な仕草でカップに唇を寄せた彼から、硬さが和らいだ。
「旨いな。自分で淹れると渋いばかりだったのだが」
「この茶葉ですと、あまり熱いお湯だと一挙に葉が開きすぎて味が落ちるんです」
「それは良いことを聞いた。帰ったら妹にも飲ませてやろう」
私も極上の紅茶で乾いた喉を潤して、ようやく一息つく。そして気が付いた。優雅に紅茶を楽しむ向かい合うその人が。
(攻略対象の公爵令息オーシーノ!!!)
よく自分でも叫ばなかったものだと思う。後ろから追う虎から逃げたら、前に狼がいたのだから。
ゲームでの彼のプロフィールが頭を過る。
プラチアーノ公爵家の嫡男、オーシーノ。黒髪に青い瞳の美丈夫。王子ルートとオーシーノ・ルートの悪役令嬢オリヴィアの兄。プライドが高く、人を寄せ付けないところのある人物で、怜悧な美貌と知性の持ち主でもある。貴族的な価値観に縛られており、婚約者を家と外見だけで選ぼうとして、ヒロイン(男装済み)に意見され、徐々に思考を柔軟なものに変えていき、最後には溺愛してくることになる。兄と親しくなるヒロイン(男装済み)に嫉妬して邪魔してくる妹を最後には冷酷に切り捨ててもいた。
(ああ、うん。三次元でも美形だわ。でもさっき、妹がどうとか言ってなかった?)
「妹、さんがいらっしゃるのですか?」
「ああ。そう言えば名乗っていなかったな。私はオーシーノ・プラチアーノ。トービーと同じ学年だ。妹は君と同じ歳でオリヴィアと言ってな。大変に可愛い妹なのだ」
そう言って、机の上にあったA4サイズくらいの肖像画を見せてくれた。黒髪に縦ロール。青い瞳の美女。いやまだ幼さがあるから美少女か。まさしくゲームの悪役令嬢オリヴィアだ。しかし、なんとなく肖像画から漂う雰囲気がほんわかしている。彼女特有のきつい印象がないのだ。じっと肖像画を見ているうちに、垂れた眉のせいかと気付いた。それだけで気弱な印象が勝って見える。
「僕はシザーリオ・イルグリジオ。隣国ラグサからの留学生です。あの、こちらの美しいご令嬢は学園にはいらっしゃらないのですか?」
「残念ながら、事情があって妹は領地から出られないのだよ」
よく乙女ゲームやら派生の小説やらで出て来る貴族の通う学校というものが、王家への忠誠心を抱かせるための人質の意味もあって王都に集められるということを、この世界に生まれ育って知った。この国イリリアでもその側面があるはずで。なので、余程の理由がない限り、貴族の子女は十五歳になれば王立の学校に通う義務がある。
他国の人間の私ですら、この国イリリアの王太子に婚約者がいないということを知っている。つまりオリヴィアは学園に在学していないだけでなく、王子の婚約者でもないのだ。
悪役令嬢の不在。それはつまり、物語の崩壊を意味しているのでは?
(オリヴィアも転生者で、断罪回避して婚約者にならなかった? もしそうなら会ってみたいものだけれど)
ヒロインになるつもりのない自分と、悪役令嬢を降りた彼女であれば、案外話が合うかもしれない。本当に転生者ならば、あちらの話だってできそうだ。
この希望は数年後に叶うことになるのだが、それをこの当時の私は知らない。
そして目の前では肖像画に向かってデレデレに妹賛歌するオーシーノの姿があった。
(まさかのオーシーノのシスコン化!)
ゲームの中ではオーシーノが一番推しであったので、衝撃も大きかった。だが転生者かもしれない妹の影響か、初対面の私にも当たりは柔らかい。
(さっきから何かするとお礼も言ってくれるし。なんか親しみやすくなってるかも)
そこにいるのは、妹を可愛がる兄。セバスチャンのことを嫌でも思い出す。そうすると会いたくて仕方なくなって、つい、ぽろりと涙が零れた。
「君! シザーリオ! どうしたのだ!? 私の話に泣くようなところがあったか!?」
「あ、いえ。兄のことを思い出してしまって。兄も今のオーシーノ様のように僕を可愛がってくれていたので」
「うむ。弟妹というのは可愛いものなのだ。して、兄君は故国に?」
「いえ、それが」
そのまま、自分が女だということ以外を話してしまった。自分に似た少年をこの学園で見たという噂を聞いて留学を決めたことまで。
「兄に何があったのかわかりません。でも無事ならひとめでも会いたくて。帰れない事情があるならば助けたい」
「では私も協力しよう。もし可愛いオリヴィアが誘拐されたと考えれば、私とて正気ではいられないだろう。我が家は公爵家。アンドルー殿下に次いで学園内では力もある。君の兄君を探すにも有利だと思うぞ?」
兄を探すヒロインに、攻略対象たちが協力をしようとするのは、ゲーム終盤に入ってからの展開だった。ある程度信頼が育ってから打ち明けることになるからだ。
ちなみに肝心の兄なのだが。ゲームでは攻略対象と結ばれると、その力で見つかったとテキストで語られるだけに終わる。どこでどうしていたのかも語られない。男装しての潜入のそもそもの理由のはずなのに、兄の扱いが軽い。だから、セバスチャンの現状は分からないままだ。
(ゲームのヒロインも恋愛中心になってしまうから、兄の扱いが軽かったんだよね。でも今の私にとっては、恋愛より兄が大事。絶対、見つけるんだから!)
攻略対象が協力してくれるのであれば、兄の早期発見も可能かもしれない。だが、ヒロインになるつもりもない現状、ゲームのような結果になるか先行きは不明である。そう思うと気分が沈み、どうやら表情にも出たようだ。
「もしまたトービーに追い回されたら、ここに来るといい。奴の身分では私に強く当たれないからな。兄君を探す進展についても報告できるかもしれない。テラスの窓はいつも開けている。場所代に旨い紅茶が飲めるならばいつでも歓迎だ」
私があまり気負わないようにか、オーシーノはそう言ってくれた。年下の者を労わる気持ちが伝わってきて、セバスチャンに逢いたいという感情とはまた違ったものが胸の奥に宿る。それは、この人を信用しても良いかもという期待だろうか? 会話の際にさらりと、癖のない黒髪が流れるのに目が奪われた。
こうしてトービーに追われて逃げ込み。更に王太子のアンドルーに「おもしろい奴」と思われて絡まれるようになってそこから逃げて。学園に通い始めて半年が過ぎる頃には、オーシーノの部屋は私の避難場所として定着していた。
「すみません、オーシーノ様。またお邪魔します」
「かまわん。私はその分、旨い茶が飲める」
オーシーノは、妹賛美以外では静かな人物で。騒がしいトービーや、さわやか過ぎて却って裏がありそうなアンドルー王子に比べると、その傍は不思議と居心地が良く。互いに会話もなく紅茶を飲むだけの時間が、私の癒しになっていた。
彼の方もそれは同じらしく。
「シザーリオ、君が傍にいると落ち着くよ」
などと微笑んでくれたりした。
そこに恋愛感情なぞないのは分かっていた。せいぜいが弟扱いだ。それを寂しいと思うのはきっと間違っているはずなのに。
公爵家の跡取りで婚約者もいないオーシーノは、アンドルー王子ほどではなくとも、常に女子の人気を攫っている。男女では学園の授業内容も違って、共に学ぶことはないが、廊下や食堂など共用の施設では女子生徒に纏わりつかれている姿をよく見かけた。彼の方はまともに会話すらしていないようだが、女性としての姿のまま、素直に思慕を伝えられる彼女たちが羨ましくて仕方ない。
(私だって、きちんと女の子の恰好をすれば、彼女たちに負けないと思う)
乙女ゲームのヒロインというと、どうしても可愛らしい容姿になる。プレイヤーに受け入れやすいからだ。しかし『ツキオト』のヒロインであるヴァイオラは、そっくりな双子の兄がいるという設定もあってか、堂々の美少女設定なんである。それは前世記憶という客観性をもって見ても間違いはない。ただし。男子制服を着用する現在の私は美少年でしかないのだが。
こんな風に嫉妬に身を焦がすなんて、私はやっぱりヒロイン向きではないのだ。群がる彼女たちに何かするつもりはないが、本質は悪役令嬢の方が近いのかもしれない。
(こんなに苦しいのならば、さっさと兄を見つけて、国に帰ってしまう方がいい)
その肝心の兄は、まだ見つかっていない。オーシーノと二人で調べても、学園に在籍する男子生徒の中にセバスチャンは見つからなかった。
兄が見つかろうと見つかるまいと、国に帰ったら親が縁談を用意することだろう。オーシーノ以外の人に嫁ぐなんて、考えたくもない。
傍にいたい。離れたくない。でも一緒にいるのも苦しい。
「シザーリオ、何故泣く? どこか痛いのか?」
ソファーに座って、涙を堪えられなくなった私の前に跪いたオーシーノが手を取って見上げて来る。
「ちが……シザーリオ、じゃ、ない」
呼んで欲しいのはその名前ではない。だが、ここにいる私はヴァイオラではないのだ。
「シザーリオ?」
その優しい瞳に、言ってはいけない言葉を零しそうで、私はそっと彼の手を引き抜いてテラスから外へと駆け出した。
寮裏からそのまま進むと、広い馬場が広がっている。学園に在籍する男子には騎士を目指す者が一定数おり、騎士であれば、自分の手足のように馬を操らねばならない。そのための馬場である。王都の中とは思えぬほどに広い敷地の中、馬たちの姿があちこちで見られる。
オーシーノの部屋を飛び出した私は、馬場の周囲に巡らされた低い柵にもたれて、乱れた息を整え、混乱する頭を整理することにした。
(あのままあそこにいれば、私、彼に好きだと言ってしまうところだった)
彼は知らないのに。私が本当は女だということを。つまりもう少しで、オーシーノは男であるシザーリオから告白されるはめになるところだったのだ。
(決定的なことは口走ってない。後で情緒不安定だったと謝っておけば)
そうすればきっと、彼は受け入れてくれるだろう。
(でも、いつまで? そんなに長くは男だと偽れない)
丁度、成長期だということもあり、シザーリオは同学年の男子から取り残されていっている。声変わりもせず、身長も伸びないままなのは私だけ。
(セバスチャン! もう、どこにいるのよっ! ずっと側にいてくれたらこんな事態にならなかったのに!)
声に出さずに双子の兄に八つ当たりしている時だった。
「どうしたセブ。気分でも悪いのか?」
柵の周辺に人影はなかった。誰に声をかけているのだろうと顔を上げると、見知らぬ男がいる。年齢は三十代くらいだろうか。学園の関係者にしてはずいぶんとラフな格好をしている。顔や腕は日に焼けて、貴族ではなさそうだ。
「おいおいセブ、どっから学園の制服なんざ手に入れたんだ? まあ似合ってるけどよ」
私に向かって親し気に声をかけてくる男に、まったく覚えはない。
誰なのか聞こうとして、はっと気が付く。
(私を誰かと間違っている。誰かって、そんなの決まっている!)
「あのっ!」
焦って声が上ずる。でも聞かなければ。彼はセバスチャンを知っている!
だが尋ねる前に軽快な馬の蹄の音が近づいて来て、馬上から声がした。
「アントニオ! ここにいるのは本当に名馬ばっかりですごいな! 見ろよ、乗ってもいいって言われたんで乗らせて貰ってるが、様になってるだろ?」
「セブ!? おまえ、なんで二人いるんだよっ!?」
「なにわけのわかんないこと言ってるんだ?」
その人はひらりと馬から降りると柵に近づいて来る。金の巻き毛が風でくしゃくしゃになって。日差しに紫の目を眇める。
ああ、間違いない。彼は。彼こそが。
「セバスチャン!!!」
必死に手を伸ばして、柵越しに彼に抱き着いた。しかし彼の方は私が分からなかったらしい。
「へっ!? ちょっと待った。誰!?」
引きはがされて顔を確かめられる。
「俺? 俺がもうひとり? って、セバスチャンって呼んだか?」
ヴァイオラだと、妹だと名乗ろうとしたのだが。
「シザーリオ! いきなり駆け出してどうしたんだ!?」
そこに私を追ってきたらしいオーシーノが加わって、穏やかな午後の馬場は混乱に拍車がかかった。
「シザーリオがふたり!? いや、そっくりということは兄君が見つかったのか! 君がシザーリオの兄君のセバスチャンだな」
「え、いや、俺には弟はいなくて」
「セバスチャン」
短く、でも心をこめて同じ顔を見上げる。私よりも背が高く、そして声も低かった。同じ顔のはずだけれど、彼の方が少しばかり男っぽい。見つめるうちに彼の瞳に確信が宿っていくのが分かった。
「俺はセブと呼ばれているが、本名はセバスチャンという。君の生まれは? 父の名は?」
「僕、いえ、私は。父セバスチャンが第四子。兄が二人に姉が一人。生まれ育ちはラグサのメッサリーン。ここではシザーリオ・イルグリジオと名乗っていますが本名を」
「ヴァイオラ?」
「はい!」
「ヴァイオラ! 我が半身、愛しい妹よ!」
今度は彼から抱きしめられて。私は六年ぶりに生き別れた兄にようやく巡り合えた喜びに涙がとまらなくなる。けれどそれも長くは続かなかった。
「感動の再会を邪魔して悪いのだが。聞きたいことがある。シザーリオ?」
プラチアーノ次期公爵の声は、喜びを凍らせるほど冷ややかだったからだ。
場所をオーシーノの部屋に移して、四名で居間のソファーに腰かける。
「なるほど。ラグサ国のアルジェンテオ公爵家の末の双子か」
オーシーノの問いにセバスチャンとアントニオが交互に答えていった。
「はい。六年前、我が家の政敵の手の者に誘拐され、殺されるか売られるかというところを、ここにいるアントニオに救われまして」
「知らない間に誘拐の片棒かつがされましたんです。ちっこくて人懐こいこいつが、このままだと酷い目に合うと知って連れ出して逃げたまでは良かったんだが、しつこくてね。追手から逃げるうちに国を出ることになっちまって」
「あちこち逃げまどって、素性を隠して牧場に落ち着いたのが二年前かな?」
「そうそう。真面目に働いていたら信用されて、学園への馬の搬入にも携わるようになってよ」
「今回も牧場から売られた仔馬を届けに来たんです」
「なるほど。道理で学園内で君が見つからないはずだ。だが、学園に訪れた姿を見た者がいたと」
黒髪の美丈夫の視線が私の方を向いた。
「ここの卒業生が、私に似た少年を学園内で見かけたと言っていたと、共通の知人から聞きました」
「それならば、何も男の振りをすることはなかったのでは?」
オーシーノの問いにセバスチャンも頷いている。私の味方がいない。
「卒業生が見た場所が男子寮だと言うので。女子では入れません」
目撃者もきっと馬場で見たのだろう。ここは男子寮の裏と繋がっているので女子生徒は立ち入りできない場所だ。
私が責められているのを見てか、兄が助け船を出してくれた。
「元とは言えば実家に無事だと連絡を入れなかったこちらの失態です。ただ、平民に身をやつしていたために連絡の仕様もなくて」
「ラグサ国の大使を通せば良かったのでは?」
貴族としては当然の疑問をオーシーノが尋ねるが、兄は首を振る。
「ただの平民の為に大使が動くことはありません。俺は身元を証明するものすら持っていないから、追い払われるのが関の山です。本名を名乗って本人と認められても、今度は大使がどこの派閥か確認できなかったので、その線は諦めました」
大使が我が家の政敵に繋がっていれば、犯罪の生き証人である兄は無事でいられなかっただろう。実際は我が家の派閥なのだが。
「事情は分かった。我が家からアルジェンテオ公爵家に連絡しよう。だが、シザーリオはこのまま学園に残れるのか?」
「男の振りはそろそろ限界でした。兄も見つかったことですし、留学を取りやめて帰国することになると思います」
セバスチャンが見つかったことは何より嬉しい。けれど帰国すれば公爵家の娘である私に待っているのは他家との縁談だ。状況によっては兄を攫った政敵の家に嫁ぐ可能性だってある。どのみち、オーシーノの側にはいられない。自然、気分が沈んでいく。
「それなんですが。俺がそのままシザーリオとして留学を続けるのはどうでしょう?」
「セバスチャン?」
「うん。シザーリオ・セバスチャン・イルグリジオと名乗ればいい。叔父上だってこちらに滞在中なんだろう?」
「叔父様はラグサからの大使補として滞在されているから、まだ数年はいらっしゃるはずよ」
「俺がセバスチャンとしてラグサに戻るのは良くないと思う。父上たちに黒幕を知らせて対処してもらうにせよ、すぐには危険なはずだ。それならば叔父上の息子という事にして、ここに隠れている方が都合がいい」
「セバスチャンはすぐに帰れなくてもいいの?」
「元々、俺は次男だから。家を継ぐのは兄上。兄上には既に息子が生まれていて今更スペアでもないし。イリリアは政情も落ち着いていて住みやすい。卒業してそのままこちらに仕官するなりしてもいいと思っている」
離れている間に世間に揉まれたせいか、双子なのに、私よりもずっと大人びた兄に、置いていかれたような気持ちになった。ヴァイオラは、兄が攫われてから時間が止まっていたようなものなのに。
「で、うちの妹のことなんですが。帰国させずに一旦、叔父の元に留めた方がいいと思うんです」
「兄様?」
「おまえ、こんなことしでかしたって事は、まだ婚約者がいないんだろう?」
「ええ」
「でも帰国したらそうもいかない。アルジェンテオの娘だ。早々に縁談が纏められる。ただ、父上も兄上も末のおまえには甘かった。男の振りして男子寮に潜りこむなんてことまで許すくらいだから、今でも相当に甘いんだろう? なら、縁談についてもおまえの希望は通るんじゃないか? 家格が釣り合っていればなおさらに。その為にも帰国は延ばした方がいい」
セバスチャンは。双子の兄は。昔から私の好きなものを私よりも先に気付くことがあった。今もきっと気付いてしまったのだろう。私の心がどこにあるかを。
「なるほど。その方がこちらにも都合がいい」
「でしょう? とりあえず俺の振りさせてアントニオに叔父の元まで送らせますんで。着替えを持って来るまで妹はここにいさせてやってください」
「承った」
兄とオーシーノで私を置いて話が進んでいく。どうすればいいのか分からないままに、兄はアントニオを連れてテラスから出て行ってしまった。残されたのはオーシーノと私だけ。それはそれでとても気まずい。
「あの、申し訳ありませんでした……」
ずっと騙していた。この半年、この人がいてくれたから乗り越えられたのに。自然に謝罪の言葉が口から零れる。
「まったくだ。私はしなくてもいい覚悟までしたのだから」
オーシーノの言葉の意味が分からず、思わず首を傾げる。
「私はプラチアーノの嫡子だ。最たる責務は子を残して次代へと繋げることだというのに、愛する妹にその役目を押し付けるところだった」
それまで別のソファーに座っていたオーシーノが隣に移って来た。そして私の手を取って、額へと当てる。
「私には可愛い後輩がいてね? 結構な泣き虫で放って置けなくなった。いつも旨い茶を淹れてくれて、笑顔がやたら可愛くてね。泣き顔を見ると私が守らねばという気になって。その傍にいると誰といるより心が満たされるのに、段々それだけでは物足りなくなった。男同士では子も為せないのに、それが分かっていても手放せないと、そこまで思い詰めていたのだが。さて。どう責任をとってくれるかな?」
はくはくと唇は動くのに声が出せない。私の手を握ったまま顔を上げた彼の瞳は、まっすぐに私を射抜いてしまう。
「女性で、隣国とはいえ家格の釣り合った家柄。これはもう遠慮する必要もないということ。兄君の許可も得られたようだしね?」
貴公子としての優雅さを残したまま、獰猛な肉食獣の獲物にと定められたことを私は悟るしかなかった。
それからの展開は男子寮で暮らしていたのは夢だったのでは? と思いそうになる。叔父の邸でヴァイオラに戻ると、令嬢としての生活が当たり前のように待っていたから。
叔父とプラチアーノ公爵家のそれぞれから隣国の実家へと報告が行き、慌ただしく手紙が行き交っているらしい。私のことは後回しらしく、まずはセバスチャンを誘拐した政敵の家への制裁が優先されたようだ。黒幕が分からないままであれば、今度は私が帰国途中で攫われる可能性もあるからとだけ、叔父から聞かされた。
しばらくは外出禁止を命じられ、大人しく刺繍や読書をしているが、なかなか集中できない。少し前まで気軽に部屋まで訪ねられた人に逢えない。気持ちは通じ合ったと思うのに、便りもないなんて、恋人としては失格ではないのか。
久しぶりのドレスは少し窮屈で動き辛くはあったけれど、それでも華やかなドレスを身に纏うと心が浮き立つ。何より、ドレスを着た姿を見せたい人がいるのに、訪ねても来てくれない。
そんな風に少し拗ねている処に、外出許可を貰って現れたセバスチャンが陽気に爆弾を落としていった。
「いやあ、オーシーノ様、すごいねえ。いきなり休学したかと思ったら、自ら馬を駆って領地にいる公爵様を迎えに行って、王家まで動かしたらしいぞ」
「王家? それって兄様の誘拐の件?」
「いいや。お前への婚姻の申し込み。隣国の王家からの要請にして、我が家が断れないようにってね。いやあ、うちの妹、愛されてるなあ」
「どうしてそんな大事になるの!?」
「普通の申し込みじゃ、溺愛する末娘を他国にやりたくないと、父上や兄上が承諾しないだろうって、俺が助言したから?」
「セバスチャン!」
「いや、だってなあ。既成事実があるからって、最初あの人、押し通そうとしてたんだぞ? ……で、あったのか?」
「ないわよっ!」
「オーシーノ様いわく。ほぼ毎日、密室で二人きりだったとか」
「それはっ! 男同士だったから! お茶飲んでただけだし!」
「それで通らないだろ。だっておまえは実際には女の子なんだ。令嬢としてはがっつり傷物。でもな、そんな風に聞いたら、父上と兄上がオーシーノ様を殺しかねない。ならば次善の策ってことで王家らしい。大事にはなるけど、こっちの方が平和だし、おまえの評判が傷つくこともない。
ラグサとイリリアの両王家には婚姻可能な王族がいない。どちらも男しかいないからな。我が家とプラチアーノ家共に王家の血を引いているから、二国間の益にもなるって事で。諦めろ。多分、父上と兄上も折れるから」
平民として数年過ごしたせいか、兄の言動は砕けているが、貴族としての視点は、前世庶民の記憶を持つ私よりも、しっかりあるらしかった。
学園では年度末に大きなパーティが開かれる。ダンスがメインのために、基本は在学生のためのイベントではあるが、外部に婚約者がいる場合は招くことができる。
叔父の邸まで私を迎えに来たセバスチャンは、着飾った私を見て爆笑した。
「すっごい独占欲丸出し!」
オーシーノから贈られたドレスは青。同じく贈られた宝飾品は青玉と黒曜石。青と黒はオーシーノの色。私の髪色が薄い金髪だから、重くならないようにドレスの青もやや明るめだ。私は彼の色を纏えて、彼の色に包まれて嬉しかったのに、この兄の反応はどうかと思う。
「もうっ、セバスチャンったら! こういう時はまず褒めるの! でないと、どんな令嬢も相手してくれないわよ」
「いやあ、隣国の、それも男爵家の息子ということになってるから、この美貌を以てしても相手にされてないし。それに同じ顔が女装してるのを褒めるのも変だろ?」
「女装じゃないから!」
再会して半年が経った。兄は私以上にシザーリオとして学園に馴染んでいるらしい。あのトービーとも親しくしていると言うのだ。兄の場合、身体を鍛えることに何も問題はない上に、自分は将来的には文官よりも騎士向きだろうという判断しているからだとか。
学園内の会場であるホールに、セバスチャンにエスコートされて入ると、周囲がどよめき、そして兄に向って軽口や野次が飛んだ。
「シザーリオが分裂して女装してるぞ!」
私がいた時には、こんな風に騒ぐ学友はいなかったはずなのだが。そしてここでも女装と言われて笑顔が引きつりそうになる。
だがそれはオーシーノが現れるまでのこと。兄からオーシーノへとエスコートが変わると、周囲は静まり返った。
「それでは義兄上、後は私が引き受けよう」
音楽が奏でられると、彼は私に向かって一礼し、片手を差し出して来る。
「ヴァイオラ、私のどの記憶の君よりも、今日の君は美しい。どれほどその姿を見られて私が嬉しいか分かるだろうか? さあ、愛しいひと。私と踊っていただけますか?」
「喜んで」
ホールの中央へと向かって踊り始めると、見守る女性たちからの嫉妬の視線が突き刺さるようだ。私たちの婚約は無事に結ばれて、公にするのは今日が初めてになる。
お互いの色を使った衣装を纏い、くるりくるりと回り続け、一曲が二曲になり、二曲が三曲になり。言葉で周囲に伝えずとも、続けて三曲踊るのは特別な相手のみだと、誰もが知っているから、私が彼の婚約者であることは嫌でも分かることだろう。
こうやって彼と踊れるのが嬉しい。シザーリオとしてでなく、ヴァイオラとして彼に寄り添える日が来るだなんて。
目の端で自分のドレスが鮮やかに翻るのを見て、ふいに気が付いた。
(あ、これ、ゲームのエンディングだ)
ゲームの終盤。はじめてドレス姿を披露するヒロインは攻略した相手の色のドレスを纏って踊るのだ。
ヒロインをするつもりなどまったくなかったのに。結果としてオーシーノ・ルートを攻略したのと同じになっていたとは。
悪役令嬢は不在だし、ゲームにあったようなイベントも熟してはいない。
(途中からゲームだとか忘れていたし)
小さな画面越しでゲームを進めていた時は、当たり前のように攻略を狙っていったけれど。
男装して男子寮に入る、というのは普通ではなくても、それ以外には特別何か事件があったわけでもない。それでもお互いに育つ気持ちがあったから。ただオーシーノに恋をした。
ゲームのヒロインになったんじゃない。
本当のエンディングは、ずっと先の人生の終焉までお預けにしよう。まるで童話の締めの言葉のように、「いつまでも幸せに暮らしました」を本物にするための日々が、これからも続くのだから。
その日まで、私は自分の人生の主人公。あなたのただひとりのヒロイン。
このゲームがあったら、ちょっとやってみたいと、書きながら思ってしまった私は元花〇ゆめ読者。
それはともかく。前作は名前だけ借りた感じでしたが、今作は物語の骨子も借りています。インスパイアというより「なろうイセコイ版」の翻案に近いかと。ちなみに著作権等は問題ないです。だってシェイクスピアだから。
この話のエンディングではオーシーノ二学年終了、シザーリオ(ヴァイオラ&セバスチャン)一学年終了時なので、前作ラストに行くまでにまだあと一年あります。その間は婚約期間となって、ヴァイオラはプラチアーノ公爵家の王都邸にて未来の公爵夫人となるべく修行中。オーシーノが学園を卒業したら領地にて結婚することになります。ヴァイオラは隣国の貴族令嬢なので、こちらの国の学園に通う義務はありません。
この話を書いていたら、セバスチャンが何か暴れたそうなので、セバスチャンとオリヴィアの話を書くかも。
乙女ゲームタイトルの由来や作中に入れられなかったエピソードなど、そのあたりは活動報告にて夜にでも。