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幻のスプリンター

作者: 八雲ヒイロ

都市伝説風の奇譚となる短編小説、第6話目となる今作は、陸上競技を舞台にした不思議なお話となる、ほっこり系のヒューマンドラマです。

 陸上競技の日本選手権が行われるS県O市の競技場は、プロアスリートとして全国を回ることが多いFにとっても初めてのところだった。スタンドを含めた建物全体が古めかしく、詳しい歴史を知らなくとも時代の古さを感じさせる。


(施設は古いが、トラックの状態は良さそうだな)


 ウォームアップをしながらトラックの感触を確かめたFは、その点に安堵した。全天候型のタータントラックは、いわゆる「高速トラック」とカテゴライズされるタイプの物に作り替えられていた。条件さえ整えば、トップクラスのアスリートが世界記録を出すことも可能な環境ということだ。

 100M走の標準記録をすでにクリアしているFは、今大会の決勝で三位以内に入れば世界選手権への出場が確定する。オリンピックも含めた世界大会出場を、個人戦では何度も逃してきたFだが、三十歳となる今年が最後のチャンスと考えていた。そのためにも、まずは予選となるこのレースを、余裕を残して走らねばならない。万全な体調でこの地に乗り込んだ彼にとって、それは問題ないはずだったが―


(どうも、右足のハムが気になるな……)


 昨夜頃から、右太ももの裏側に微妙な張りを感じていた。コーチにも見てもらっているのだが、実際に全力で走り出したときにどうなるかは分からない。予選は大丈夫だとしても、準決勝、決勝では余裕を残して走れるはずもないから、かすかな不安があった。

 トラックの感触を確かめたFがスタート地点へ戻ろうとしたとき、


(ん? なんだ、アイツは?)


 自分が走るコース上に、一人のアスリートの後ろ姿が見えた。

 まるで自分がこれから走るかのように体をほぐしている。

 そのまま、スターティングブロックの前で立ち止まったのだけど―


 すーっ、と姿を消してしまった。


(おいおい、勘弁してくれよ~)


 霊の類いなどまるで信じないFだが、落ち着いてはいられない光景だった。


(いかんな、集中しないと……)


 予選とは言え、気を抜くわけにはいかない。やがて発走時刻となり、選手の名前がコールされる中でスターティングブロック前に立っていると、すぐ目の前に人らしき影が見えた。先程とは違って輪郭はハッキリしないが、幻影のアスリートは、スターティングブロックを念入りに調整しているようにも見える。


(余計なことをすんなよ)


 恐怖を振り払うように、Fは強気で思った。

 やがて、自らの名前がコールされた。

 Fが手を上げて応じた瞬間、幻影は消え去った。

 位置について、のコールに従い、全選手がスタート位置に入る。


 用意―


 しばしの間を置いてから、号砲が鳴る。

 Fは絶好のスタートを切れた。

 だが―

 すぐに二発目の号砲が響いた。


(フライングか?)


 加速を始めだした体を緩やかに減速させ、スタート位置へと戻る。

 やがて審判が赤旗を持って立ったのは、Fの前だった。


「え、俺が!」


 自覚の無いFは納得がいかなかったが、失格の裁定が覆ることは無い。トラックを後にしてコーチのところへ向かい、リプレイ映像でスタートの瞬間を確認してみた。


「これは……」


 ほんのわずかだが、自分の体が動いているようだった。

 まるで、誰かに取り憑かれたように。


(くそ! あの疫病神め!)


 Fは心の中で毒づいた。

 幻影アスリートのせいで、全てを台無しにされたようなものだった。


 二ヶ月後の夏。

 Fは日本代表チームの一員として、世界選手権が行われるD国のK市にやってきた。4×100Mリレーの補欠要員に選出されたからだ。個人戦での代表こそ逃したが、今季のタイムが好調だったことと、これまでの経験値を買われての抜擢だった。


(なんとか世界大会代表となれたが、今回は見物役だな……)


 そう思っていたFだが、チームが無事に決勝へと駒を進めた段階でアクシデントが発生した。エース格の選手が負傷したため、大事な本番となる決勝レースにFが出場することになったのだ。日本選手権では右足に不安を抱えていたFだが、その後は順調に回復して体調を整え、いつでも走れる状態だ。リレーの予選にも個人戦にも出場していないから、誰よりもコンディションは良いと言える。

 そうしてFは世界選手権のリレー決勝に出場した。負傷した選手と同様にスタートが上手い彼は、同じく第一走のランナーとしての役目を無事に務めた。バトンパスも正確につながっていき、最後は強豪国と競り合う形での四位入選となった。

 だが、結果はすぐに変わった。

 圧勝した強豪国にバトンミスが発覚し、失格となったからだ。

 日本は繰り上げで三位となり、銅メダルが確定した。


「人生ってのは、何があるか分かんねえもんだな~」


 ともに戦った若手達と肩を組み、笑いながらFは言った。そうして、オフィシャル放送局のインタビューに答えてから歩いていると、


「F君、おめでとう!」


 昔から知るスポーツ記者が声をかけてくれた。Fが高校生の時から目をかけてくれた人物で、現役最後となる今回も、小さいながらも特集記事を組みたいと言ってくれている。


「ありがとうございます。ここまで来ると、強運が重なっただけですけどね」

「ははは、ご謙遜を。運だけじゃここまでたどり着けないよ~」


 しばし雑談をかわしてから、


「あ、ところで、例の件は何か分かりましたか?」


 日本選手権で見た、幻の選手についての手がかりがないかをFは頼んでいた。


「ああ、あれね、ちょうど良かった。実はいろいろ情報があってさ……」


 歴史の長いスポーツ新聞社に勤める彼は、膨大なデータの中からそれらしき情報を探してくれていた。


「まずね、あのO市の競技場って昔からそういう体験談が多いんだ。特に、100M走に出場する選手がF君と似たような『幻みたいな選手』を見るんだって。中高生の大会で使うことが多いから、若い世代の間では今でも有名らしい」

「へえ……」

「それでね、あの競技場で行われた過去の大会の結果を、男子100M走に絞って調べてみたんだ。で、この選手が該当すると思うんだけど……」


 記者は、タブレットで昔の記事を表示してくれた。

 半世紀も前のもので、写真に写る選手の顔も分かりにくい。


「この選手はね、当時のO市内でトップのスプリンターだったんだ。大学生でね、日本選手権でも優勝候補と言われていて、日本選手権の前にあの競技場でレースに出場したんだけど、競技中に肉離れを起こしてしまったんだ。それで日本選手権は出られず、その後は……」


 そこで記者が言葉を切った。

 Fは神妙な顔で、


「自ら命を絶った……というやつですか?」


 すると記者は手を振り、


「いや、違うんだ。その後は陸上選手として名を馳せることは無かったけど、今でも元気にしてるんだ。本人に確認を取ったから間違いないよ」

「え?」

「だからね、最初は違うと思ったんだけど、条件が合う人が他にいなくてさ。F君が見た幻影はおそらく、死んだ人の霊というよりも、生き霊……というべき存在なんじゃないかな」

「生き霊……」

「現役時代にやり残したことにずっと後悔を持ち続けていたとして、その思いが一つの形となって、あの競技場に現われているってやつさ。その人は今でも、陸上競技の試合を熱心に見ていると言ってたからね」


 同時刻、O市内のとある家庭。

 ここに、世界陸上大会の生中継を見ている老紳士がいた。


(Fくん、良かったな……)


 ずっと前から気になっていた選手だった。地元で行われた日本選手権では競技場まで応援に行くほどだったのだが、あのような結果に終わったときにはとても残念だった。かつて、自分自身が故障であきらめざるをえなかった記憶がよみがえるほどに。


(ふふふ、人生はどうなるかは分からないものだな……)


 老紳士は穏やかに笑った。


 その後、O市の陸上競技場に幻のスプリンターは現われなくなったという。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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